『聖徳太子』第13回(最終回)蘇我馬子 | 奈良の鹿たち

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『聖徳太子』

第13回(最終回)

蘇我馬子

「蘇我馬子は最高権力者だった」

 

蘇我馬子像
(斑鳩寺蔵『聖徳太子勝鬘経講讃図』より)

 

聖徳太子と共に推古朝を支えたといわれる蘇我馬子について、彼のストーリーを描いてみた。

戦前の皇国史観で足利尊氏と蘇我氏は逆賊とされてきた偏見も、近年の研究評価では見直され、その政策が評価されるようになった。

実際は、聖徳太子がしたとされる冠位十二階などの事業は、蘇我馬子がを行ったのではないか?

 

蘇我馬子⦅551年(欽明12年)?~ 626年(推古34年)⦆は、572年(敏達元年)敏達天皇の即位時に大臣になる。 以降、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇の4代に仕えて、54年もの長きにわたり権勢を振るい、蘇我氏の全盛時代を築いた。見方を変えれば、これら天皇の政権の屋台骨を背負ってきたともいえる。

『日本書紀』は、馬子のことを、性格は武略備わり、弁才にも秀でていて、仏法を敬ったと褒めたたえている一方、蘇我馬子・蝦夷・入鹿を、天皇をないがしろにして、権威をふるった悪臣としている。

『日本書紀』

天武天皇は、天皇権威の強化のために『日本書紀』をつくれ、と命じたのであった。

藤原不比等は、「よいか。畏れ多くも皇室の尊厳を揺るがすような輩は、否定せねばならぬ。」と厳命し、『日本書紀』局は、その御意思に則って編集していった。

まず、名前からして「馬子、蝦夷、入鹿」という蔑んだ漢字を当てており、大臣など要職にある人物の実名とは思えない。名前は別にあったのだろう。『日本書紀』が歴史から消し去ってしまったのだ。乙巳の変(645年)については、『日本書紀』は、蘇我氏を悪人として成敗されても当然だという物語を詳しく描いた。入鹿の首がどのようにはねられたか、死体をどのように処理したか、異常な描写に「何故、ここまで?」という疑念が逆に起こってくる。

崇峻天皇の暗殺記事を、わずか数行で済ませているのに、家臣の子である入鹿殺害については細やかに述べている。

これらの記述は、『日本書紀』が「私たちは偏見で編集しました」と自ら語っているようなものだ。

 

馬子の権勢は、587年(用明2年)の対物部戦争(丁未の乱)に勝利してから、ますます専制的なものになっていった。

馬子の姉の子である橘豊日皇子を即位させ用明天皇とした。母が蘇我稲目の娘である泊瀬部皇子を即位させ崇峻天皇とし、従妹の炊屋姫を皇太后とした。さらにその炊屋姫を即位させ、初の女帝である推古天皇とした。馬子の父蘇我稲目(いなめ)の娘堅塩媛を母にもつ厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子、摂政にした。

すべて馬子の縁戚によって、蘇我一族が皇室、政権を掌握し「蘇我氏親族政権」といえる一大勢力を誇った。まさに、平安時代の藤原氏の栄華と同じであった。

蘇我氏は、 稲目の時代から政治的実績が多々ある。仏教を奨励し、官僚制度を固め、屯倉(みやけ)と呼ばれる国の直轄地の拡大、冠位十二階制定や国史編纂をして中央集権化を進め、遣隋使を派遣して隋の社会制度や学問を輸入した。班田制や公地公民や戸籍の作成を屯倉で実施し国の経済基盤を固めた。わが国の律令体制の基礎を築いたのである。

屯倉とは地方支配の拠点となる直轄地のことである。吉備(今の岡山県)に設置・管理を行ったとされている。このような各地の屯倉の設定を通じて、地方豪族との関係を深めていき、他の豪族に比べて、地域利権の吸収を有利に進めることができたと見られる。稲目の配下には大勢の渡来系書記官がおり、屯倉の設置・維持に関わる文書の作成・管理などに関与したはずである。この時代、行政の主な官僚は渡来人たちであり、政治や外交や文書記録から土木技術にいたるまで、大陸伝来の統治技術を持った彼ら抜きでは成り立たなかった。

蘇我氏は、渡来人集団を管理下に入れることにより、絶対的な勢力基盤をつくっていった。

まさに「蘇我氏の時代」と言える。

『日本書紀』は馬子の数々の功績を皇族である厩戸皇子(聖徳太子)が行ったものと記し、蘇我氏の功績を天皇家のものとしてかすめ取った。

 

遣隋使船

遣隋使については、『隋書』卷81 列傳第46 東夷にある俀王「姓阿毎 字多利思北孤 號阿輩雞彌」は、11世紀に作られた「新唐書」東夷伝日本伝に「次用明 亦曰目多利思比孤 直隋開皇末 始與中國通」とあり、その(敏達の)次の(王の)用明天皇が多利思比孤であり、隋の開皇年代に初めて中国に使者を派遣した、と「用明」の名が記述されている。

第1回遣隋使は600年、第2回は607年で、2回とも多利思比孤が遣わしたとされている。ずっと用明天皇が在位していたことになる。

しかし、『日本書紀』によると、用明天皇の在位は585年~587年で、第1回(600年)と第2回(607年)には該当しない。推古天皇(在位593年~628年)の時代である。

『隋書』

あの『隋書』が間違っているのか?

それとも、『日本書紀』の用明、崇峻、推古天皇の記述がすべて虚構でデタラメだったのか?

『隋書』は、1回目、2回目の遣隋使の使者から、倭王について聞き取っているはずだし、倭国に来た裴世清からも話は聞いているはずだ。 『隋書』が、こと倭王について虚偽を書くメリットは何もなく、真実を残すことに努めていたはずである。

ところが、片や『日本書紀』は、天皇家と藤原氏の正当性を一途に図っており、そのためには、虚構の上に虚構を重ねていた。このような『日本書紀』は、皆の記憶がほとんどない過去の天皇の大幅改編をすることは、十分に起こりうることである。

『隋書』に間違いがないとすると、ずっと用明であって、崇峻や推古天皇が在位していなかったことになる。すなわち、用明天皇が第1回、第2回遣隋使の頃まで在位していた、ということになり、崇峻、推古天皇の時代まで食い込んでくる。

『日本書紀』は用明、崇峻、推古天皇の在位期間をいじくったことになる。

いささか話は複雑になったが、実は、複雑にならないストーリーがある。

「蘇我馬子が一貫して、天皇にはならなくとも、天皇を超えた権力者であって、国を代表する存在(国王)だった」ということである。

「天皇」と「国王」が同時に存在するというのは、後々、平清盛や足利義満、織田信長、豊臣秀吉、徳川将軍たちなどが続々とあらわれてくる。

推測が入っていて、物語になってしまいそうだが、やたら虚偽の多い『日本書紀』から脱すると、このような筋道になる。

崇峻天皇

崇峻天皇の暗殺事件は、本当にあったのか?

崇峻天皇は、蘇我馬子が放った刺客、東漢直駒に弑逆されたと『日本書紀』は伝えている。当時の王族や豪族らは皆この事件の真相を知っていたのに、『日本書紀』には馬子が罰せられたとか、非難されたという記事が全くない。既にこの頃、馬子が絶対者でありそれに刃向かうものがない状況だったのである。さらに、そのあと即位したのは、敏達天皇の大后で馬子の姪あたる豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)(のちの推古天皇)であり、彼女は異母弟の崇峻が馬子に殺されても、とがめることなく、その後、馬子を大臣として重用している。

崇峻天皇はその日のうちに埋葬された。殯(もがり)が行われなかったのだ。殯とは、天皇など高位な人物に行う葬喪儀式のひとつで、玉体を棺に納め長期間安置する鎮魂の儀のことである。殯が行われなかった天皇は、崇峻だけである。(天皇ではないが、聖徳太子も殯が行われなかったか、行われても非常に短かったといわれる)崇峻は墓所も不明であり、延喜諸陵式には「無陵地、無戸」と記載されている。そのため、当初は崇峻天皇の御陵地はなかった。後に、崇峻天皇の御陵(みささぎ)は桜井市の倉橋にある倉梯岡陵(くらはしのおかのみささぎ)に治定されている。

さらに崇峻には皇后に関する記録もない。『日本書紀』に登場する妻はいずれも妃、嬪、夫人であり、皇后ではなかった。『古事記』では一人の妃も載せていない

崇峻については、不可思議なことだらけである。

崇峻暗殺事件は本当に起きたのか?

崇峻は本当に天皇の地位に就いていたのか?

『日本書紀』の粗雑な捏造が、このような矛盾を露呈したのである。

崇峻は暗殺される天皇を演じるために『日本書紀』に登場したことになる。

崇峻天皇はほんとうに実在したのか?

崇峻がいなかったとすれば、誰が天皇だったのか?

また、用明天皇についても疑問が多い。

前述したが、『隋書』にも書かれている用明天皇が、崇峻から推古まで在位していたことになる。しかし、『日本書紀』によると用明には2年ほどの在位期間であり、実績は全くない。

まあ、聖徳太子のお父さんだから、存在していたことは確かだろうが。

 

それは、天皇在位が空白になったか、非皇族臣蘇我氏が天皇に成り代わる地位にあったということだ。このような地位を、後の足利義満らが用いた「国王」と呼ぼう。

足利義満

「蘇我馬子は大王(天皇)であった」という説もあるが、馬子の娘をそれぞれ嫁がせているので、そこまで考えることは難しいだろう。

『聖徳太子の真実』の著者 大山誠一氏は、証明することは難しいがと前置きしておいて、用明・崇峻・推古は大王ではなかったのではないか、と述べている。

もし、用明や推古が天皇として在位していても、形だけの存在であって、隋への国書にも名前だけ記した可能性もある。

用明-崇峻-推古天皇の時代、蘇我馬子が実質的倭国の代表であった。3人の天皇には、蘇我稲目の娘たちが嫁いでおり、用明・崇峻・推古天皇はそこから生まれた。まさに「蘇我氏親族王権」といえる。馬子、蝦夷、入鹿の蘇我一族は、天皇を凌ぐ地位「国王」に就いていたと考えられる。

横暴な振舞いが批判をされたと『日本書紀』には書かれているが、これも『日本書紀』の挿入だろう。実際は、まわりの役人や一般人も、馬子が国の代表のような存在として違和感なく受け入れていた。蘇我氏が中央豪族の中で圧倒的な地位を確立していて、大王家(天皇家)に匹敵するほどの権勢をえていた。天皇・王族たちも、蘇我氏によって支えられていて、「蘇我氏あっての王権」だった。この時代を「蘇我氏の時代」といっても過言ではない。

裴世清へも、馬子が倭の代表・国王として接見した。隋としてみれば、万世一系であるかどうかなどは大した問題ではなく、誰が一番の時の権力者かである。

『日本書紀』の作成者たちが、非皇族臣蘇我氏によって操られていた屈辱的時代を打ち消し、捏造したストーリーで描いていった。藤原不比等にとっては、万世一系の皇統を守るために絶対に歴史に残せない事柄であり、あらゆる捏造でそのことを覆い隠そうとした。

 

平安時代の藤原氏から始まり、平清盛、源頼朝、足利義満、織田信長、豊臣秀吉、徳川家将軍たちなど、天皇にはならなくても、また天皇を否定しなくても、天皇を凌ぐ地位であったし、本人たちも国の代表であると考えていたし、人々もそう受け取っていた。日本と接触していた中国・朝鮮も、最高権力者を国の代表と見ていた。(江戸時代の朝鮮通信使は、京都で天皇に挨拶もせずに素通りして江戸に向った。江戸幕府が、「国の代表は徳川幕府であるから、挨拶する必要はない。」と言ったからである。)

 

<蘇我家の最高権力の形跡>

●蘇我馬子は、596年(推古4年)飛鳥に飛鳥寺(法興寺)を建立した。飛鳥寺は、倭国で最初につくられた大規模な伽藍(五重塔、金堂をそなえた寺院様式)であったとされている。寺の構造は一塔三金堂形式で、これは高句麗の清岩里廃寺 (せいがんりはいじ)を模したものである。飛鳥寺の創建には、高句麗や百済から僧侶や建築技術者、画工などが派遣されてきた。

また、天皇が仏教興隆の詔を飛鳥寺で発布している。蘇我氏の氏寺であるはずが、いつのまにか国家の寺となっていたのである。

飛鳥寺

●603年(推古11年)に冠位十二階が制定された。大臣蘇我馬子は皇族と同じく冠位を授与されていない。これは、馬子が実質的な冠位授与者であったことを示している。もはや、馬子は皇族と並ぶ地位を築いていた。そして、冠位十二階制定の実質的主体は、聖徳太子というよりも、大陸文化を身に着けた渡来人を配下に持った蘇我馬子であったと推定できる。

●遣隋使の1回目(600年)、2回目(607年)の時の代表「多利思比孤」は、蘇我馬子である可能性が高い。裴世清が謁見したとされる男帝も馬子であろう。遣隋使のころは、天皇はいても馬子が倭国の国王であった。

●610年(推古18年)に新羅使が小墾田宮で拝謁の儀を行った際には、役人が使の旨を馬子に啓上しており、また、このとき政庁の前に立ち啓上を聴き、新羅使に物を下賜しており、「国王」馬子が天皇に代わって外交を掌握している様子が窺える。

●612年(推古20年)堅塩媛(馬子の姉)を欽明天皇陵(檜隈坂合陵)に合葬する儀式を行った。欽明の正式皇后石姫皇女ではなく堅塩媛が欽明陵に合葬されたということは、蘇我氏と欽明との結合の正統性をしめしたものであった。さらに堅塩媛は「皇太夫人」と尊称され、諸皇子、群臣が拝したが、その順番は推古→諸皇子→馬子→蘇我系諸氏族であり、その時の王権の序列を可視的に示したものであった。

●623年(推古31年)新羅の調を催促するため、倭国の「国王」馬子は数万の軍を派遣し、新羅を戦わずに降伏させ、朝貢させるようにした。

●626年(推古34年)馬子は死去した。

遺体は明日香村島之庄「桃原墓(ももはらのはか)」に埋葬された。露出した巨大な横穴式石室で知られている。場所も飛鳥の都の真ん中にあり、その大規模さは権力者「国王」の象徴である。天井石だけでも77トンに及ぶ巨大な石室が露呈しているためにこの名前がある。この古墳の西隣に馬子の邸宅跡(後の嶋宮跡)が拡がっているため、馬子の墳墓である可能性は高い。本来は方形墳、あるいは上円下方墳であったと見られる。

石舞台古墳の巨大な盛り土がいつどうして取り除かれたのかについては不明であるが、乙巳の変以降、蘇我氏本家が逆賊に貶められたのを機にその墳墓破壊が断行されたものと見られている。

(↑石舞台古墳)

飛鳥は蘇我氏によって開発された王都であり、甘樫丘の館や石舞台、飛鳥寺、馬子の邸宅(島庄遺跡)など、王都=蘇我氏の都市である。

●『日本書紀』には、643年(皇極2年)に、大臣蝦夷が病気のために出仕せず、天皇の許可もなく(「国王」として)、紫冠を入鹿に授けて大臣の位につけた。

●720年(皇極元年)蘇我蝦夷が葛城の高宮に祖廟を建て、八佾舞(やつらのまい)をして、問題になったという記述が『日本書紀』にある。

(↑八佾舞の名残である朝鮮半島に残る佾舞(イルム)は、宗廟大祭で演奏される音楽・舞)

「蘇我大臣蝦蛦、己が祖の廟(まつりや)を葛城の高宮に立てて、八佾之儛を為(す)

この舞は、8人ずつ8列、合計64人が舞ったという。この64人は、中国では天子にのみ許された人数なのだが、それを天皇の臣下である蘇我氏が「国王」として行ったということである。

●蝦夷・入鹿は諸国の民に自分たちの墓をつくらせて「大陵(おおみささぎ)」「小陵(こみささぎ)」と呼ばせたり、自分の屋敷を「上(うえ)の宮門(みかど)」、子どもたちのことをを「王子(みこ)」と呼ばせたりしている。

●『日本書紀』には、蝦夷が殺される前に『天皇記』『国記』を焼いたとある。この『天皇記』『国記』は、聖徳太子と蘇我馬子が推古天皇の命で編集したものである。そのような国書が、天皇家ではなく、「国王」である蘇我氏が保管する権限をもっていたということになる。

しかも、蝦夷が焼いたというのは、大いに疑問である。これも『日本書紀』の捏造か。

蘇我氏の館があった甘樫丘

 

こうして見てくると、蘇我馬子は専制ではあったが次々と実績を残してきた。

冠位十二階も遣隋使派遣も仏教の興隆も国史編纂も、絶対的な権力と渡来人などの知力を兼ね備えた蘇我馬子しか成し得ない事だった。蝦夷や入鹿が、その勢いを引き継いだのだった。

聖徳太子の偉業といわれるものは、蘇我馬子が行ったものであり、『日本書紀』はそれを巧みにすり替えた。

蘇我馬子こそ偉業を成し遂げた、日本古代史最大の人物だった。

 

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『聖徳太子』全13回 完

 

 

(担当 H)

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