『聖徳太子』第11回『三経義疏』 | 奈良の鹿たち

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『聖徳太子』

第11回

『三経義疏』

(さんぎょうぎしょ)

 

 

聖徳太子の仏教への帰依、学問的高さを示す経典。

 

『三経義疏』

『法華義疏』>

聖徳太子の偉業として挙げられるひとつに、三経義疏(さんきょうぎしょ)の執筆がある。

『三経義疏(さんぎょうぎしょ)』とは、① 勝鬘経義疏(しょうまんぎょう) ② 維摩経義疏(ゆいまぎょう) ③ 法華義疏(ほっけきょう)  の三種類の義疏(経文の解釈、解説をした講義録)の総称である。

・勝鬘経は如来が勝鬘夫人に分身して人々を教化し、仏教は一条であることを説いた経典、

・維摩経は在家の人が大乗(だいじょう)思想の核心を説きながら仏弟子たちを論破する様子が叙述された経典、

・法華経は統一的真理と永遠の仏について述べた経典である。

 

『日本書紀』には606年(推古14年)太子が推古天皇に『勝鬘経』と『法華経』を講義したことが書かれている。しかし、『三経義疏』については、その言葉も出てこない。

『三経義疏』については、『日本書紀』法隆寺系史料の747年(天平19年)の『法隆寺資財帳』にのみ、その経緯が書かれている。

『法隆寺資財帳』では、法華義疏・維摩義疏・勝鬘義疏の三義疏は、聖徳太子御製(著作した)と示されているという。

『法華義疏』のみ聖徳太子真筆の草稿写本とされるものが残存しているが、『勝鬘経義疏』と『維摩経義疏』に関しては後の時代の写本のみ伝えられている。『勝鬘経義疏』の写本は鎌倉時代中頃、『維摩経義疏』の写本は平安時代末頃のものとされている。

問題になっているのは

●『三経義疏』(法華・維摩・勝鬘の三義疏)は、聖徳太子の直接編集したもの(親撰)であるかどうか?

●その中の『法華義疏』は、聖徳太子が直接書いたもの(真筆)であるかどうか?

 

まず、聖徳太子の直接編集したもの(親撰)であるかどうか?

『三経義疏』は、いずれも6世紀前半ごろの中国の経典を反映したものされていて、この種の注釈書は当時の中国に多く見られるという。『三経義疏』すべてが中国かどこかにあったものを書写して持ち帰り、それを聖徳太子が作成したものだとした捏造品に違いない、という説が浮上してきた。

難解な『三経義疏』は太子の撰ではないという説は津田左右吉氏以来あり、小倉豊文氏は、『三経義疏』が太子撰とされたのは太子信仰の成立した747年(天平19年)以降とした。

さらに、敦煌学権威の藤枝晃京大教授によって、『勝鬘経義疏』が、敦煌の莫高窟(ばっこうくつ)から発掘された経典類の中にあって、隋で「勝鬘経義疏本義」をもとに改編されたもので、それを遣隋使が日本にもたらしたものと結論づけられている。それと聖徳太子が作成したとされる『勝鬘経義疏本義』の7割方が同じ文章であるという証拠から、6世紀後半の中国北朝で作られたものであることが示された。

『維摩経義疏』に関しても、『日本書紀』に言及がない上、内容的にも聖徳太子よりも後代の杜正倫『百行章』からの引用があるなど、問題が多い。

こうした書誌学的研究の成果によって、『三経義疏』が聖徳太子の撰ではないことが明らかになった。これを法隆寺系史料の『三経義疏』偽書説という。

 

『法華義疏』

『法華義疏』>

『法華義疏』は、法隆寺伝承によれば615年(推古23年)に作られた日本最古の肉筆遺品であるという。761年(天平宝字5年)「法隆寺東院資財帳」には、『法華義疏』について、「律師行信覓求(もとめ)て奉納せし者なり」とあり、法隆寺東院伽藍の創立者である僧・行信が「聖徳太子(上宮聖徳法王)御製」と記された本書をどこかで求めて、法隆寺東院に寄進したものであることが分かる。

●この『法華義疏』は、梁の法雲(476年~529年)による注釈書『法華義記』と7割方同文である。

●この『法華義疏』に用いられている漢文がきわめて高度に洗練されたもので、これを当時の日本人が書けたか疑問である。

●この『法華義疏』は冒頭の表題と撰号(著者署名)が切り取られていて、第一巻の巻頭には別紙を継いで、ここに「法華義疏第一」の内題があり、その下に本文とは別筆で「此是大委国上宮王私集非海彼本」(これは大委国の上宮王による私集で、海外から渡来したものではない)とわざわざ書かれている。つまりほんとうの著者名が書き換えられているわけだ。

この張り紙は、いつ貼付されたのか、またこの書の出所も疑わしい。僧・行信が太子親饌であることを誇示するために貼り付けたものとみられる。

●この『法華義疏』の料紙については、本文は中国製の紙を使用し、貼紙は日本製の紙であるとの見方もある。本文の行間には書込み、訂正などが見られることから、草稿本である。

●この『法華義疏』の本品の装幀は、きわめて簡素である。後世の写経遺品には、さまざまな装飾をこらしたものがあるが、『法華義疏』の巻軸は何の装飾もないただの木製の棒である。また、各巻の料紙は横の長さが一定せず、料紙の張り合わせ方も稚拙である。

●この種の巻子本は本紙とは別の紙で裏打ちを行うのが普通だが、この『法華義疏』の各巻には、裏打ちがほとんどない。

●この『法華義疏』にはヘラで引いた罫線がある。本文中には推敲の跡が著しく、紙の表面を削って書き直している箇所があり、なかには紙を削りすぎて穴が開いてしまい、裏から別紙を当ててそこに書き直している箇所もある。

●この『法華義疏』の「法華義疏」の文字には「起筆・送筆・収筆」の「三過折」がみられず、速書きに適した実用的、機能的な書風である。字体は行書を主として一部に草書を交えるが、連綿はほとんどみられず、一字一字を切り離して書いている。

 

そんなことから『法華義疏』も聖徳太子の真筆ではなく、三経義疏すべてが中国かどこかにあったものを書写して持ち帰り、それを聖徳太子が作成したものだとしたニセモノだ、という説が有力となった。ほんとうの著者名が、切り取られ書き換えられているわけだ。

それでもなお、聖徳太子の真筆だと主張する皇国史観に洗脳されたご老体が、「聖徳太子様を批判するなんて、聞いただけでもおそれ多い」と、ぐちゃぐちゃと重箱の隅を突っつくようにケチを入れるのは、推測の域を広めているだけである。

 

著者名を切り取って紙を張り替えて書き直すなんて「これはニセモノです」と言っているようなものだ。裁判ではとても証拠としては、採用されるものではないでしょうな。いわゆる偽造証拠である。刑法第159条「私文書偽造罪」により3ヶ月以上5年以下の懲役である。

事件が起こって、警察が筆跡鑑定する場合、まず本人のものだという確証ある筆跡を複数押収してくる。それから、専門家あるいはコンピュータで照合解析する。これには、検察も弁護側も一言もなく従う。

聖徳太子の真筆だという確かな物証が複数あれば、それと照合して鑑定出来る。

そんなものもないのに、どうして聖徳太子の真筆などと言えるのか。状況証拠や「はずだ」とか「だろう」だけでは考証にはならない。証拠不十分で裁判対象にならないので却下である。

すなわち、現時点では、「聖徳太子の真筆とは言えない」である。

 

仏門に仕える僧・行信には、法隆寺興隆という正義のためならば、作為を持って捏造をすることに罪悪感はなかったようだ。

今の日本の「会社の為ならば社会的コンプライアンスも無視する」社奴サラリーマンと同じである。

 

 

 

 

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次回は  第12回 「聖徳太子の死と墓」

 

 

(担当 H)

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