『聖徳太子』第10回 法隆寺 | 奈良の鹿たち

奈良の鹿たち

悠々自適のシニアたちです

 

『聖徳太子』

第10回

法隆寺

 

 

聖徳太子と言えば法隆寺法隆寺と言えば聖徳太子

 

法隆寺は、奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内にある寺院。創建当時(飛鳥時代)は斑鳩寺(鵤寺 = いかるがでら)と称し、後にそのまま現在の法隆寺となったとされてきた。

そして、現 法隆寺は、聖徳太子ゆかりの寺院であるとされてきた。

創建は金堂薬師如来像光背銘や『上宮聖徳法王帝説』から607年(推古15年)聖徳太子によって創建されたと伝えられる。

また、銅造「薬師如来坐像の光背銘」(国宝)によると、「用明天皇が自らの病気平癒のため伽藍建立を発願したが、その完成を待たずに崩御し、遺志を継いだ推古天皇と聖徳太子が607年(推古15年)、像と寺を完成した」という趣旨の記述がある。

『日本書紀』には、その前年の606年(推古十四年)に太子が斑鳩寺を寄進したことを記録している。

ところが、『日本書紀』によると、最初の法隆寺は創建後64年にして火災にかかり一夜にして焼失したと伝えられている。

明治時代の半ばまで、『日本書紀』の火災の記事は間違いで、法隆寺の西院伽藍の建物は創建以来一度も火災に遭わず、推古朝に聖徳太子の建立したものがそのまま残っていると信じられてきた。

ところが、「現存する法隆寺の伽藍は、火災で一度失われた後に再建されたものではないか」という意見(再建論)が明治20年(1887年)頃から出されるようになった。

これに対し、『日本書紀』の記載は信用できず、西院伽藍は推古朝以来焼けていないと主張する学者たちもおり、両者の論争(法隆寺再建・非再建論争)はその後、数十年間続いた。

1939年(昭和14年)に、元奈良国立博物館長 石田茂作らによって隣接の若草伽藍跡の発掘調査が行われた。その結果、現存の法隆寺西院伽藍は聖徳太子在世時の建築ではなく、一度焼失した後に近接したところに再建されたものであることが判明し、再建論が勝利した。

現法隆寺西院伽藍の南東に位置する若草伽藍跡が焼失した創建 法隆寺の跡であり、この伽藍が推古朝の建立であったことが明らかになった。

若草伽藍と法隆寺の位置>

また、若草伽藍跡から出土した瓦は、単弁蓮華文の軒丸瓦と手彫り忍冬唐草文の軒平瓦を組み合わせた古い様式のものであった。すなわち、若草伽藍跡が創建 法隆寺であるということである。

若草伽藍跡の発掘調査>

2004年12月には、若草伽藍跡の西側で、7世紀初頭に描かれたと思われる壁画片約60点の出土が発表された。この破片は1,000℃以上の高温にさらされており、建物の内部にあった壁画さえも焼けた大規模な火事であったと推察される。壁と共に出土した焼けた瓦は、7世紀初頭の飛鳥様式であり、壁画の様式も線の描き方が現・法隆寺のものより古風であるという。出土した場所は、当時深さ約3メートルの谷であったところで、焼け残った瓦礫としてここに捨てられたと見られている。実際に焼失を裏付ける考古遺物が多数発見された。

若草伽藍塔心礎>

さらに、1939年(昭和14年)、東院の建物修理工事中に地下から掘立柱建物の跡が検出され、これが斑鳩宮の一部であると推定されている。

若草伽藍3D想像図>

若草伽藍の寺院は明らかに西院より古く、しかも四天王寺式伽藍配置をもっていた。(現在の法隆寺より古い型式)。現 法隆寺は天武天皇時代の七世紀後半の673~685年の間に着工され、和銅年間708~714年に完成したといわれている。

法隆寺の「西院資材帳(747年(天平十九年) 作成)」によると、五重塔に塔本塑像がつくられたのが 約30年後の711年(和銅十年)で、またこの年には中門の仁王像も造られた。つまり、再建された現 法隆寺は長い年月を経てこの頃にほぼ完成したことになる。法隆寺は飛鳥時代の建物でなく白鳳から奈良時代へかけて、ぼつぼつと建てられて行ったのである。
しかし、若草伽藍が焼けた時に、堂内の仏像は持ち出されたのだろうか?

火事は大雨雷震の夜半のことであり、固定された重い大きい仏像を運びだすのはそう簡単ではないだろう。

ならば、現 法隆寺にある仏像はいつ、どこから持ち込まれたのだろうか?

もともと創建 法隆寺にあったものだろうか?

それとも、どこかの寺院から持ってきたものだろうか?

また、現 法隆寺は何故、どのようにして再建されたのだろうか?

多くの疑問が残されている。

 

いずこの寺院にしろ神社にせよ、縁起なる文書をつくって、その創建を古く古く持っていきたいのは、当事者の願いであるにしても、確かな証拠がなければ絵空事だ。

法隆寺側では古来から、この焼けたことを否認して、今の法隆寺こそ推古十五年に創建されたものだと宣伝していた。しかし、近年は『日本書紀』に従って再建されたことを法隆寺側も認めている。「創建1400年」と謳っているが、正確には「1300年」である。とは言っても、世界最古の木造建築物であるということには変わりはない。
科学的分析も含めた結論は、「観光でにぎわう現 法隆寺は聖徳太子が建てたものではない」ということがはっきりした。

聖徳伝説の創始と普及と宣伝は、法隆寺の寺銭の収入と寺格の持ち上げに大いに役立った。

しかし、まだまだある法隆寺と聖徳太子の謎と疑問は、これからも追及されるだろう。

 

なんとか法隆寺と聖徳太子を縁結びしようとする寺側の意図がうかがえる。

さらに、再建されたことをごまかそうとしている。

「推古15年(607)に完成した」と「奈良時代初頭に復興した」は、同じ場所に建てられたニュアンスが残る。

「100年後に、違う場所にあらたに建てられた」とすれば、誰でも分かりやすく、すっきりするのに。

いいかげん「聖徳太子が法隆寺を建てた」と言うのは止めなければいけない。

 

 

 

====================

次回は  第11回 『三経義疏』

 

 

(担当 H)

====================