『聖徳太子』第9回 聖徳太子の肖像画 | 奈良の鹿たち

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『聖徳太子』

第9回

聖徳太子の肖像画

『唐本御影(とうほん みえい)』

 

 

誰もが慣れ親しんだ聖徳太子の肖像画の真実について見て行きます。

 

紙幣にも描かれていた宮内庁所蔵の有名な聖徳太子の肖像画は、『唐本御影(とうほんみえい)(聖徳太子二王子像)』という。「唐本(とうほん)」とは「唐の人」のことである。

唐本御影は、聖徳太子を描いた最古のものと伝えられる肖像画である。

これほど有名な肖像画だが、実は、いつ、どんな経緯で誰を描いたのかは、わからないのだ。

これに描かれているのが聖徳太子だ、という明確な史料はない。

「聖徳太子像」は厩戸皇子の実像ではありえず、この絵の制作年代は、太子の没後100年以上経った8世紀半中頃(奈良時代)と考えられるが、平安時代に制作されたという説や、鎌倉時代の模本とする説もある。

 

1982年、東京大学史料編纂所長であった今枝愛真氏が「唐本御影は聖徳太子とは関係の無い肖像ではないか」との説を唱えた。これをきっかけに、聖徳太子肖像画虚構説が広まっていく。

唐からの渡来人の画家が、中国の貴族絵を模写したとか、平安時代に朝廷に仕えていた貴族を描いたものであるという方が正解に近い。

最近の教科書や歴史参考書等では、この画像を掲載する場合「伝・聖徳太子」と説明したものが多くなっている。近年、紙幣から国民には何の説明もなしに、静かに消えてしまっている。

今や、この絵を聖徳太子だという専門家はいない。

しかし、間違っていても聖徳太子をあらわすのにイメージ的にぴったりなので、マスコミでは、いまだによく使われる。

 

中央に本人、左右に二王子が並ぶ構図は、7世紀に活躍した唐の宮廷画家・閻立本(えんりっぽん)の描いた『帝王図巻』との類似性が指摘されている。

大山誠一氏は、唐本御影を中国・西安にある合葬墓の壁画にある男性人物像と比較すると,ありとあらゆる点で酷似しているとしている。
同時期の絵師が模範本として描いたものが日本国に渡来し,それを元にして後代に日本国内で模写本として作成されたものらしい。それゆえ、わざわざ唐本(唐人)という名が付けられているのである。中国風の衣冠を身に着けた人物の画像にすぎないのである。

 

<肖像画の疑惑>

●疑惑1:聖徳太子が手にしているものは「笏(しゃく)」と呼ばれメモ紙を貼って備忘用に使われ、また威厳を示すものだが、笏を手にするようになったのは天武天皇以降奈良時代からとされている。

●疑惑2:聖徳太子が肖像画で着ているゆったり目の服と冠は、『日本書紀』が編纂された700年代奈良時代のトレンドのもので、飛鳥時代にはあのような姿はなかった。

●疑惑3:太子の被っている黒い冠は、この装束を着ている際には着用しない決まりだった。

●疑惑4:当時の絵画の主流は絹本だが、唐本御影は簡素な紙である。「太子信仰」であがめられた聖徳太子を描いたのには不自然だ。

●疑惑5:眉や目などの筆法から、8世紀の制作とするのが通説である。
●疑惑6:「あご髭」は筆質や筆圧が違っており、後世に二度にわたって書き加えられたことが明らかになっている。

 

<衣裳疑問点について>

唐本御影>  

まずはっきり言えることは、

この肖像画の装束は飛鳥時代のものではなく、奈良時代のものである。」ということだ。

聖徳太子の6世紀後半は朝鮮朝服輸入時代といい、位階による衣服は大陸、特に新羅王朝に倣ったのである。このことから6世紀末の倭人の朝服は百済の服飾であったと推測できる。

高松塚古墳壁画>

藤原京時代の終末期の古墳で7世紀後半から8世紀前半に作られた高松塚古墳の壁画に描かれた装束も高句麗の朝服の形を元にしていることから、唐本御影に描かれた装束はこれと同じであり、奈良時代の朝服であることがわかり、聖徳太子が生きていた飛鳥時代とは異なることになる。

 

唐本御影は、「法隆寺伽藍縁起資材帳」を始め、平安時代時代以前の記録にはない。

「描かれている人物は、聖徳太子ではないのではないか」という疑問は、すでに880年前(平安時代)に出されていた。12世紀半ば平安時代の学者、大江親通(おおえの ちかみち)(?~1151年)だ。仏教美術の研究家でもあった親通は、法隆寺の宝蔵にあった「聖徳太子二王子像」を拝観し、次のようにを書いた。

「太子の俗形の御影一舗。くだんの御影は唐人の筆跡なり。不可思議なり。よくよく拝見すべし」

(俗人の姿をされた聖徳太子の肖像画一幅。この肖像画は唐の人が描いたものである。不思議である。心を込めて拝見しなければならない

審美眼がある大江親通は、絵を見た感想をこう記している。衣装に陰影をつける画風や、本人の両脇に二人が並ぶ構図は唐のもので、俗人姿の太子の衣装は日本のものとは思えない。冠帯で帯刀して笏を持った姿に違和感を持った。

 

ここで法隆寺の再興を願って画策するのが法隆寺の僧・顕真(けんしん)(生没年不明)だ。

100年近く後になって1238年(嘉禎4年)から1255年(建長7年)ごろ(鎌倉時代)にかけて書いた『聖徳太子伝私記』(上、下巻)の中で、この絵を「唐本御影(とうほんみえい)」と呼び、その由来について2つを挙げている。

●唐人の前に聖徳太子が「応現」したものを唐人が2枚描き留め、1枚を日本に残し、1枚を本国に持ち帰った。

●顕真と同時期に法隆寺の復興に尽力した西山法華山寺・慶政による説で、唐人ではなく百済の阿佐太子の前に「応現」した姿とする。「応現」とは、仏が世の人を救うため、相手の性格や力量に応じて姿を現すことをいう。太子が、唐人の機縁にあわせて唐人姿で現れたという。

聖徳太子の服装が日本風でない理由を、苦し紛れの「応現」で釈明している。僧侶とは思えない、何という作為的な説明だろう。僧・顕真の人格を疑う。

顕真はこの絵を太子信仰の核に据え、法隆寺の興隆を謀ったのだろう。さらに、自身の地位向上を図る野心もあったとも見られる。1190年(建久元年)には第61代天台座主に就任している。

考え方によっては、彼の努力がなければ法隆寺の今はなく、寺宝も朽ち果てて今に伝わることはなかったかもしれない。

しかし、真実を曲げて虚偽を作り出すということに、何ら罪悪感を持たなかったことも確かである。彼にとって、仕えている寺に奉仕するためならば、嘘をつくということは無視できるものだったのだ。寺の中では聖人・賢人だが、一歩外へ出ると客観性、倫理性に欠けた人物だ。

「太子信仰」の虚偽性を象徴的に示す作品である。

 

 

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次回は  第10回 「法隆寺」

 

 

(担当 H)

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