『聖徳太子』第8回 遣隋使 | 奈良の鹿たち

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『聖徳太子』

第8回

遣隋使

 

遣隋使について『日本書紀』を通して、聖徳太子の役割を見て行きます。

 

<第1回 遣隋使>

 600年(開皇20年)の第1回遣隋使については、『隋書』「東夷傳俀國傳」に高祖文帝の問いに遣使が答えた様子を載せている。

しかし、何故かこの第1回遣隋使のことが『日本書紀』には全く記載されていない。

『隋書』によると、高祖は所司(役人)を通じて使者に対し、俀國の風俗を尋ねさせた。使者は俀王を「姓阿毎字多利思北孤」号を「阿輩雞彌(オホキミで大王)」で、「天をもって兄とし、日をもって弟とする。いまだ夜が明ける前に出て跏趺して政治を聴き、日が出ると仕事を止めて弟に委ねる」と述べている。ところが、高祖からみると、俀國の政治のあり方が道理に外れたものだと納得できず、改めるよう訓令したというのである。

どうもやりとりの意味がすっきりしない。

男性名の大王多利思比孤(タリシヒコ)とは誰か?

何故、『日本書紀』には第1回遣隋使のことが書かれていないのか?

隋帝からケチョンケチョンに見下された扱いを受けたことが、国史『日本書紀』には恥辱として記載できなかったのだろうか?

とにかく分からないだらけである。推測や想像が止まないが、「分からない」が正確な答えである。

この倭国からの第1回の遣隋使は、隋が建国して20年も経ってから行っている。高句麗や新羅、百済は早々と使者を送っているのに倭国だけは遅々として派遣できなかった。587年の蘇我物部の戦いなどで国内が混乱していたという事情もあったろうが、何よりも当時の倭国には正式な使者を外国に送るなどという文明思想が全くなく、おそらく百済か渡来人に促され彼らに導かれて右往左往でとりあえず行ったのだろう。建国の挨拶に来たのも遅いし、来たら礼儀作法は全くなっていないし、だから『日本書紀』には載せられないほどの散々たる恥の山を残して帰ってきたのだろう。

 

<第2回 遣隋使>

第2回目の遣隋使については、『日本書紀』にも記載されており、607年(推古15年)に大禮小野妹子が大唐国に国書を持って派遣されたとされている。

『隋書」「東夷傳俀國傳」にも、前回と同じ王・多利思北孤が朝貢をしたと記されている。

第1回遣隋使と同じく倭王「多利思比孤」は、当時倭国は推古女帝であったにもかかわらず男性名の王がいたことになる。また、『随書』には隋の使者 裴世清が接見したのは男性の王だったとしている。

この大王が誰かについても推測や想像は出ても、正しい答えは「分からない」である。

聖徳太子愛好家は、推論でこれは聖徳太子だとすぐ食い付く。

倭王から煬帝に宛てた国書の内容が『隋書』に記されているが、『日本書紀』は、ただ小野妹子を隋(唐)に派遣したとしか記載していない。

遣隋使の小野妹子は、はるばる海を渡り隋の都・大興城(現在の西安)へ赴いた。その時、携えてきた有名な国書の内容(「日出る処…」)が、『隋書』に残されている。

ところが、倭国『日本書紀』には、小野妹子を隋(唐)へ遣わしたとあるが国書の内容(「日出る処…」)の記述は一切ない。

『隋書』によると、607年(大業3年)俀王・多利思北孤が隋に使節を送ってきた。その国書の文言は「日出づる処の天子、(推古15年)書を日没する処の天子に致す 恙(つつが)無きや」であった。倭国が「日出づる処」で、隋が「日没する処」と述べられている。「帝(煬帝)これを覧て悦ばず」「蛮夷の書無礼なる者有り」、隋の皇帝煬帝は国書を見て大変立腹したとある。これは自分達が世界の中心であるという「中華思想」の中国の天子からみたら当然のことで、「夷蛮戎狄(いばんじゅうてき)」周辺の国々は全て蛮族とみなしていた。さらに、天子は隋帝国のみの皇帝の呼称であり、他国の王が天子を称するなどもってのほかである。

それらの国々は、中国の王朝を冊封体制下の宗主国として敬仰しなければならなかった。

一時期、この国書は聖徳太子が格調高くわが国の自立を表現していて俀國が隋との対等の外交を目指したものである、などと国威発揚を称賛する説がもてはやされたが、今や恥ずかしくて言われなくなった。

万一これが、聖徳太子愛好家の言う国威発揚を相手に示すためのものであったとすると、この後の倭国から隋帝への国書が平頭低身弱気一辺倒であるのはどういう訳か? それなら、「始めから偉そうにするな!」である。また、「日没する処」の文は、国威発揚が隋帝に響かなかったどころか、「蛮夷の書」とケチョンケチョンの蔑称で呼び捨てられ、『隋書』にも残されるほど悪い印象を与えただけで明らかに失敗外交だった。当時、「隋帝を怒らせた」などということは、弱小後進国の倭国にとって一大事である。もしも太子がこれを書いたとしたなら、大いに責任を問われたことになるだろう。太子はこれがもとで政権から追われたという説もある。

とにかく、国史『日本書紀』に載せることの出来ない汚点だったので書かれていないのだろう。状況が第1次派遣の場合と似ている。すなわち、『日本書紀』は屈辱的な外交失敗については、国の威信から記載しないのだ。

隋の帝に送る国書は国の代表たるべき天皇の責任で作るわけだが、当時の倭国は自分たちだけで作れるレベルではなかった。原文作成から中国語への翻訳は百済などから来たインテリ渡来人や僧に頼っていた。「隋帝に恥ずかしくない国書を」と言って作ってもらうわけだ。現代でもそうだが、対外交渉において親書(国書)の作成はそれなりの形式があり相手国との対話もそれなりの話し方がある。なんせ初めての遣使なのだから、当時の日本人で国書たるものの文体の作成、正しい中国語への翻訳が出来る人材はいなかっただろう。さらに隋に赴いて帝と話す際、決まった拝謁儀礼、話し方、正しい中国語を使用をしなければならない。

百済の遣隋使が付き添いをしていたという説もある。

それにしても、何故、「日没する処の天子」などという誰が見ても問題のある一文をノーチェックで差し出したのだろうか? 

これら渡来人、百済人を束ねていたのは蘇我馬子で、遣隋使は彼の主導のもとに行われたのだろう。聖徳太子なんて、都から遠い斑鳩に住んでいて登庁せず、実務役人たちとの接触もなかったのだから外交については出る幕など全くなかった。

 

この後、煬帝の勅使として裴世清が派遣されるという厚遇で小野妹子は帰ってくる。

推古16年夏4月、隋使裴世清一行は九州の筑紫に到着し、秋8月3日に飛鳥の都に到着した。

実はこの時、重大な事件が起こっている。

小野妹子が帰りに受け取った隋帝の国書を紛失してしまったというのだ。

百済人に盗まれたと弁明している。これは大失態であり、その罪は流刑に相当するものであった。ところが妹子は裴世清の帰国の際の付き添い大使として再び隋に行っており、後には冠位十二階の最高の階位 「大徳」を与えられている。

これはどういうことか? 今となっては「分からない」が正解である。

推測、想像では「国書の内容が、倭国の大王に見せるにはあまりの内容だったので、妹子が紛失したことにした」「倭国の大王にも見せたが、公表できない内容だったので、みんなで示し合わせて盗まれたことにした」「国書など初めから渡してもらえなかった。後から『日本書紀』が貰ったという権威を付けようとした」など、どれも筋の通った物語だが、この時、隋の使者裴世清が倭国に来ていて傍にいるのだ。隋帝の国書がどう扱われているか分かってしまうはずだ。紛失したなどと帰国して隋帝に報告したらどえらいことになる。『隋書』からも『日本書紀』からも、そのような混乱はなかったようだ。

さらに不可思議なのは、裴世清が飛鳥の宮でうやうやしく隋帝の国書を読み上げたと『日本書紀』には記されている。小野妹子が託された国書と裴世清が持参した国書。国書が2通も隋から発行されたことになり、そのようなことはありえない。

さらに『隋書』には、煬帝が日本の国書に対して返書を与えたという記録はない。

どうも「隋帝から低俗国と見られて国書は貰えなかった。その為『日本書紀』が権威付けに、貰ったが紛失したと編集時に次元の低い捏造をした」が正しいようだ。

 

盛大な供応の後、9月11日に裴世清は帰国するのだが、隋への儀礼として再び小野妹子が大使としてそれに付き添って行く。『日本書紀』には、そのことが書かれている。しかし、『隋書』には何故か記載はない。本当に、返礼の小野妹子の使者を送ったのか?

608年、中国の隋の皇帝・煬帝に送った国書は「東天皇敬白西皇帝(東の天皇が敬いて西の皇帝に白す)・・・謹白不具。」と記されていた。今回は前回(日出づる)とは違って、身分が上の貴人に差し出すへりくだった形式となっていて、外交姿勢を改めた低頭恐縮の内容である。

国書を発したのは天皇であると記している。これが主要な史書の中で、「天皇」の称号使用が確認される最初の例とされる。しかし「天皇」制は、後の天武天皇の時代に成立したもので、この辺りの筋書きは、捏造だらけの『日本書紀』が創作したというのが定説だ。

 

『日本書紀』の原文(読み下し文)を見た通り、607年の第2回遣隋使から608年の裴世清の来日までの間、聖徳太子(皇太子)の名前なんて一回も出てこない。主語抜きで「小野妹子を遣わす」とあるが、そのように言えるのは聖徳太子ではなく当然天皇である。小野妹子が派遣された時も、帰って来て裴世清を饗応した時も、国書紛失で大騒ぎしていた時も聖徳太子はお呼びではなかった。十七条憲法をつくったり経典を講義する人なら、隋の使者との交流話があってもいいはずだが名前すら出てこない。574年(推古元年)聖徳太子誕生から605年(推古13年)斑鳩宮移住までは、事あるごとに出ていた聖徳太子が607年(推古15年)遣隋使以降全く出てこない。

裴世清が飛鳥に行くには大和川を船でさかのぼって行くのだが、途中、聖徳太子の住む斑鳩のそばを通る。しかし、裴世清がそこに寄ったとか、聖徳太子が出迎えたという記録は全くない。

倭国側の接待役も、聖徳太子を全く無視して通過していったのだ。

このように、実態は聖徳太子は遣隋使には全くかかわっていなかったのだ。

2年後に新羅使が来日した時も、『日本書紀』には推古天皇と蘇我馬子は登場するが、聖徳太子については全く記載がない。

 

これが聖徳太子の実態なのだ。聖徳太子の高い外交手腕だったなどと、名前が一回も出てこないのに、どこから導き出してくる話なのだろう?

いいかげん「聖徳太子が遣隋使を派遣した」などと言うのは止めなければいけない。

え? 俀王・多利思比孤が聖徳太子だって? いい加減にして。  彼は都から25㎞離れた斑鳩に一人ぽつんと住まいしていて、『日本書紀』には遣隋使の場面で一度も登場していないのは間違いのない事実なのだ。

 


 

 

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次回は  第9回 「聖徳太子の肖像画」

 

 

(担当 H)

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