『聖徳太子』 第7回 冠位十二階・十七条憲法 | 奈良の鹿たち

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『聖徳太子』

第7回

冠位十二階・十七条憲法

 

聖徳太子と「冠位十二階」「憲法十七条」を『日本書紀』を通して見て行きます。

 

「冠位十二階」

「冠位十二階」制定の意図や編さん過程は『日本書紀』の中には記されておらず不明である

『日本書紀』によれば、604年1月11日(推古11年12月5日)に初めて制定された。

「大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大義・小義・大智・小智」の12階の冠位が制定された。翌605年(推古12年1月1日)に天皇が冠位を初めて諸臣に授けた。

聖徳太子の事績を伝える『上宮聖徳法王帝説』にも同様の記述がある。

『隋書』倭国伝(600年代)には、「冠位十二階」は、官に12等があり「大徳・小徳・大仁・小仁・大義・小義・大礼・小礼・大智・小智・大信・小信」で定員がないと記す。唐代に書かれた『翰苑』には、『括地志』に曰くとして、倭国の十二等の官の第一に大徳があり、二は小徳で、三以下は大義、小義と『隋書』と同じ順で続く。『隋書』と『日本書紀』では順序の違いがあるが、「冠位十二階」が実際に制定・施行されたことを示すものである。

しかし、『日本書紀』には制定に際して「始めて冠位を行う」と主語なしで書かれていて、聖徳太子の主体的関与を示す文言はなく、彼は門外漢だったようだ。

既に飛鳥の都から遠く25㎞も離れた通勤圏外の斑鳩宮の造営が始まっており、ということは、冠位十二階など都での仕事を続ける意思がないか、推古天皇から「もう来なくてもいいよ」と斑鳩移住を認められ、事実上職務を外されたかである。

当時の最高権力者の蘇我馬子は、冠位を授与されなかった。それは、授与されるのではなく、授与したのだ。

この「冠位十二階」の制は早くから言われているように「百済の制を中心とし、高句麗の位階制を参照したものである」というのがほぼ定説である。冠位十二階制定の実質的制作者は、聖徳太子というよりも、大陸文化を身に着けた渡来人を配下に持った蘇我馬子であったと推定できる。

とても「聖徳太子が冠位十二階を定めた」などとは言えない。

 

 

「憲法十七条」

「憲法十七条」は、儒教思想や道徳的色彩が濃厚なため、実際に発布できるかどうか難しいところだ。記録としても、『日本書紀』に全文が記されているだけで、他の書物には見られない所から、604年という「憲法十七条」成立年に疑問があり、後からの虚造ではないかと考えられている。例えば、第十二条にある「国司」というのは、後世の概念の官名である。

『日本書紀』にしか「憲法十七条」の記載が無いというのも、後から「憲法十七条」が捏造されたと言われる所以だ。

『隋書』には「冠位十二階」については書かれているが、「憲法十七条」についてはなにも書かれていない。

「憲法十七条」を聖徳太子作ではないとする説は、江戸後期の考証学者狩谷鍵斎らに始まり、津田左右吉も「『日本書紀』の編者が聖徳太子の名を借りて創作し、当時の官僚たちを戒めたものであろう。」として、聖徳太子が作ったものではないと主張した。戦後、井上光貞、坂本太郎や関晃らは津田説に反論している。一方、森博達は「憲法十七条」を『日本書紀』編纂時の創作としている。

「憲法十七条」は『日本書紀』のなかの文章と酷似していて、推古期の文章とは思われない。

文中にある「国司」は地方官の名称であるが、大宝元年(701年)に制定された大宝律令以降に用いられたものである。

 

『隋書』の中の「倭国伝」(600年代)の記事は、600年を初回とする遣隋使がもたらした情報に基づいており、当時の日本の様子をよく伝えている。それによれば、当時の倭国では文字や記録は日常的な政治の場では、まだ使用されておらず、国の為政者は中国思想をほとんど理解していなかったと見ている。遣隋使の隋帝への国書作成も、百済や渡来人にすべて依存していた。そんな文化レベルであったのに、聖徳太子だけが抜きん出て「憲法十七条」をつくれるはずがない。聖徳太子の頃は、中国の文化がまだ入ってきていなかったのに、「憲法十七条」には多くの中国の古典(『礼記』『誌経』『論語』『孟子』)が引用され、当時の中国の思想と政治体制を熟知していなければ書けない内容のものである。さらに、憲法の漢文は、推古朝の人間には書けないレベルのものであるという。

 

恣意的作為の前科が多い『日本書紀』が、「聖徳太子がつくった」と言っても、誰も素直に信用はしない。疑って、まな板の上でじっくり調理することが肝要である。

 

 

 

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次回は  第8回 「遣隋使」

 

 

(担当 H)

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