『聖徳太子』第4回 聖徳太子と『日本書紀』 | 奈良の鹿たち

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『聖徳太子』

第4回

聖徳太子と『日本書紀』

 

 

『日本書紀』の中に描かれた聖徳太子を見て行きます。

 

●『日本書紀』とは(Wikipedia参考)

『日本書紀』は、奈良時代に成立した日本の歴史書・神話。『古事記』と並び伝存する最も古い史書の1つで、720年(養老4年)に完成したと伝わる。神代から持統天皇の時代までを扱い、漢文・編年体で記述されている。全30巻。系図1巻が付属したが失われた。

天武天皇が川島皇子に命じて原案が作られ、本格的に編纂が開始されたのは持統期とされる。

藤原不比等が『日本書紀』編纂の全般に関わったと考えられ、編纂のリーダーは舎人親王であるが、実際の責任者は藤原不比等である。

そのため、藤原不比等が父の鎌足や藤原氏(中臣氏)を顕彰する意図が見られる。

『日本書紀』は単独の人物ではなく、複数の撰者・著者によって編纂されたと見られ、この結果として全体の構成は不統一なものとなっている。

歴史記録として『日本書紀』を利用する際には、厳格な史料批判を必要とする。歴史記録・文学作品としての『日本書紀』の性質の多様な面は、不明瞭な点も数多く残っている

(中略)『日本書紀』によれば皇太子(聖徳太子、厩戸皇子)と嶋大臣(蘇我馬子)の監修で620年(推古28年)に『天皇記』『国記』がまとめられた。推古朝の修史事業はこれらの史書が現存しないことや聖徳太子という伝説的色彩の強い人物と関連した記録であること、具体的な経緯などの情報に乏しいことなどから実態が必ずしも明らかではない。

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天武天皇は、天皇権威の強化のために『日本書紀』をつくれ、と命じたのであった。

藤原不比等は、「よいか。畏れ多くも皇室の尊厳を揺るがすような輩は、否定せねばならぬ。」と厳命し、編集者をその方向になびかせた。

その結果、非皇族臣蘇我氏によって操られていた屈辱的時代を打ち消し、捏造したストーリーで描くことは当然の編集方針だった。蘇我馬子の数々の功績を皇族である聖徳太子が行ったものと記し、蘇我氏の功績を天皇家のものとしてかすめ取った。

『日本書紀』が作為や潤色が加えられていることは、古来より誰もが認めているところだ。

約100年以前の聖徳太子に対して称賛・偶像化していることは、あまりにも明白だ。誕生や死亡時の紙面を多く使い、虚飾に包まれた記事を見れば一目瞭然である。

『日本書紀』の中で、聖徳太子に関する記事は、一文一文懐疑的に読み解いていくことは、学問上当然のことである。

 

●『日本書紀』と聖徳太子

(誕生と名前)

第31代・用明天皇の第二皇子として誕生し、母は蘇我稲目の孫にあたる穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)。穴穂部間人皇女が馬小屋の前で出産したので、この名前が付けられたとされている。

『日本書紀』では、本名は「厩戸豊聡耳皇子(うまやとのとよとみみのみこ)」または「厩戸王(うまやとおう)」「厩戸皇子(うまやどのみこ、うまやどのおうじ)」聖徳太子の名前については、『日本書紀』だけに限っても12もある。列挙するのもバカバカしい。何故だか異例の数の多さと装飾性で、明らかに創作の痕跡を残している。

それに比べて、蘇我馬子、蝦夷、入鹿は、何という貶めた名前だろう。これも創作である。

『日本書紀』の、天皇にもなっていない聖徳太子の異常なまでの生誕の装飾的記述は、かえって信頼性を失わさせている。このことは、後の死亡時の記述も同様である。

 

(摂政)

聖徳太子が、推古天皇や大臣蘇我馬子を中心とする政権に参画して一定の活動を行なったことが『日本書紀』に書かれている。19歳で叔母に当たる第33代の女帝 推古天皇の摂政となって以後、数々の偉業を成し遂げたとされている。

『日本書紀』では、593年に厩戸王は「皇太子」となったとされているが、当時、皇太子制度は未成立であった。太子の地位とされる「皇太子」制度は、まだ成立を見ない時代のことだから、ここは後世の修飾であることは疑いない。

『日本書紀』では「録(まつりごと)摂政(ふさねつかさど)らしめ、万機(ばんき)を以ちて、悉(ことごとく)に委(ゆだ)ぬ。」(推古天皇が、聖徳太子にすべてを委ねた)とあるが、当時、「摂政」とよばれる地位があったわけではなく、天皇の統治をその親族が輔佐するという仕組みがこのように表現されたに過ぎない。

制度として最初に摂政に就いたのは、平安時代858年の藤原良房である。

また立太子制度は、689年の飛鳥浄御原令において初めて採用された制度である。

だから、聖徳太子は現在考えられているような皇太子でも摂政でもなかったのだ。

さらに、この時、皇太子はまだ20歳前後だったはずであるから、政治的経験や実績が十分でないこの段階で政権に参画したとは考えがたい。あまりにも未熟な人物への肩入れであり、これも、『日本書紀』による聖徳太子権威付けのための、後付け称賛に過ぎない。

 

(十七条憲法)

『日本書紀』が「十七条憲法」のような法典の編纂と「天皇記」「国記」のような歴史書編纂という二大事業のみを聖徳太子(皇太子)の業績として、極めて異例にはっきり書かれている。

「十七条憲法」の文章は、当時の日本人の教養であれだけ中国思想を入れた文を書けるはずがなく、中に出てくる「国司・国造」などは100年後の大宝律令で定着したもので聖徳太子の時代にはなかったこと、『日本書紀』以外に「十七条憲法」のことは記録に残っていないことなどから、聖徳太子持ち上げの為に『日本書紀』編集時の捏造である可能性が高い。

 

(冠位十二階)

「冠位十二階」については、『隋書』にも記載されているので事実存在したのだろう。

しかし、『隋書』にも『日本書紀』にも、皇太子(聖徳太子)の名前は出てこない。

聖徳太子が「冠位十二階」を定めたなどと、推測による称賛に過ぎない。

 

(遣隋使)

遣隋使派遣についても、『隋書』にも『日本書紀』にも皇太子の文字はない。

もちろん、隋の皇帝煬帝宛ての「日出ずる処の天子云々」国書についても、厩戸王(皇子)の名前は一切出てこない。隋からの使者の饗応にも、聖徳太子は全くかかわっていない。

聖徳太子が遣隋使を派遣したなどというのは、推測による称賛や権威付けに過ぎない。

 

(天皇に仏典講義)

『日本書紀』には、ずっと聖徳太子(皇太子)の名前が出てこなかった後、突然「勝鬘経」と「法華経」の講義について述べられている。聖徳太子が難解な経典を本当に理解できていて講義をしたのか? 本当に講義をしたのか? 疑ってかかる必要がある。

 

(斑鳩に宮を建てる)

(斑鳩宮に住む)

聖徳太子は601年に斑鳩の宮(現在の夢殿あたり)を造営し605年に移り住んでいる。

飛鳥の都から25㎞、片道2時間の出勤困難な遠い所に居を構えるということは、飛鳥の都で仕事をしていなかったことになる。

 

(国史編纂)

聖徳太子は、既に遠く斑鳩に引きこもり、ほとんど引退状況にあった。ご出勤あそばされていなかったのである。官僚たちと協議もせずに国史編纂など出来るはずがない。607年(推古15年)に法隆寺を建てた時から、620年(推古28年)国史編纂まで、『日本書紀』からは聖徳太子の行動の足跡を見出すことができない。

「天皇記」「国記」は、蘇我氏の邸宅で焼けたが、何故、国史たるものが蘇我邸で保管されていたのか?証拠がすべてなくなっている。

 

(片岡飢人伝説)

『日本書紀』には、613年に片岡山の飢人伝説の話が入っている。何もしていない晩年の15年間の中に、突然紙面に割って入っている。

今の奈良県王寺町の片岡山で、飢人に会い衣服や食料を与え、死後に墓を造ったが、その後、墓を開くと何もなかった。飢人は実は聖人で、聖徳太子はそれを見抜いていたという飢人伝承。

実に細かく長い。「摂政なら、他に記すべき大事がもっとあるだろう」と言いたくなる。

晩年の聖徳太子は、こんなことでしか出てこない。天皇の歴史を綴る国史が、一皇太子のねっとりとした伝承話に紙面を使うとは、『日本書紀』の信頼性を落とす役割しかない。

 

(聖徳太子死去)

621年(推古29年)の亡くなった時の記事は実に長い。『日本書紀』では異例なほど詳細である。天皇の歴史を綴る国史なのに、一皇太子の死亡記事に、こんなにも文字を飾るとは。

さらにその記事では「皇太子」と呼んだ箇所は一例見えるものの、他では「上宮皇太子」、「上宮太子」、単に「太子」と呼んだりしていて、まったく不統一だ。

 

『日本書紀』では、621年(推古29年)の太子の死去までの間、様々な政治課題があった。小野妹子の遣隋使派遣、隋の使節を伴った帰国、再度の遣隋使派遣(同16年9月)、”国書紛失事件”、送使の入京と小墾田宮での迎接、新羅・任那の使人の入京と迎接、蘇我系皇太夫人堅塩媛を皇太子夫人と認定し改葬などと重要な政治課題が多く行われている。このような国家的事業がいくつもあったにもかかわらず、皇太子の政治的活動が全く記されないのは不思議だ。

太子が実質的に政治から退くか、あるいは排除されていたことは明らかである。

「聖徳太子は、言われるほどの偉業をしておらず偉くなかった」のである。

 

『日本書紀』の聖徳太子に関する記事は、どこまでがほんとうで、どこから先が作り話なのか、疑ってかからなければならない。長年の『日本書紀』の作為は、探れば探るほど、疑惑がどんどん発掘される。

 

 

 

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次回は 第5回 「聖徳太子の実像」

 

 

(担当 H)

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