『聖徳太子』 第3回 聖徳太子はいなかった (大山誠一説) | 奈良の鹿たち

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『聖徳太子』

第3回

「聖徳太子はいなかった」

(大山誠一説)

 

 

日本の聖徳太子論に刺激を与えた大山誠一氏の論説を見て行きます。

 

1945年(昭和20年)の敗戦を契機に皇国史観がなくなり、多くの偉人たちの評価が変化した。近年の聖徳太子の評価も、大いに論議を呼ぶようになった。

「聖徳太子はいなかった」説では、聖徳太子は『日本書紀』で創造された虚構の人物だということだ。「用明天皇と穴穂部間人皇女との間に生まれた厩戸皇子というひとりの蘇我系の皇族はいた。また斑鳩寺(法隆寺)を建立したのも史実だ。だが、彼が後に聖徳太子と称賛されるほどのことをしたという確実な史料は無い。」というのである。すなわち、聖徳太子といわれる人物を全面否定しているのではなく、「聖徳太子は、言われている程偉くはなかった。偉い聖徳太子はいなかった。」という趣旨である。

「聖徳太子は後世に作られた架空の人物である」と、深い研究でその虚構をえぐり出したのが、元中部大学教授 大山誠一氏の「長屋王家木簡と金石文」、「聖徳太子の誕生」、「聖徳太子と日本人」、「聖徳太子の真実」である。

大山誠一氏によって提唱された「聖徳太子非実在説」は、その虚像がどうして生み出されたのかを解明しようとした研究であって、聖徳太子の実像である厩戸皇子の存在を根底から否定しようとするものではなかった。そして、結論として、「聖徳太子に関する確実な史料は存在しない。現にある『日本書紀』や法隆寺の史料は厩戸王(聖徳太子)の死後1世紀ものちの奈良時代に作られたものである。それゆえ〈聖徳太子〉は架空の人物である」と述べている。

それまでも「聖徳太子関連は見直さなくてはならない」という説は、様々な研究者によって唱えられてきたが、大山氏の書の登場は画期的、衝撃的であった。

戦前の皇国史観から抜け出せない古老や民族派、仏教界から嫌がらせや不利益をこうむったと想像できるが、今や、聖徳太子見直しは時代の流れである。

<↑『日本書紀』>

教科書表記が変わったのも、発端は大山説の影響が大きい。

今や、聖徳太子に関するほとんどの著述書で、不明確な業績に対し、「聖徳太子がしたという記述はない」という一言を入れるようになった。「日入ずる国の天子云々」が聖徳太子の業績だなんて、恥ずかしくて言えないようになった。また、聖徳太子の存在論議が、『日本書紀』の内容の真偽、肖像画や仏像光背銘の時代相違などの真相究明を活発化させたことも確かである。

大山氏の功績は、日本独特の皇統・寺社への遠慮、批判の自己規制という風潮を破ったことでも評価される。

「聖徳太子はいた」とする研究者も、今までの全面称賛の聖徳太子論に疑問の点があることを認めるようになり、部分的にじわじわ修正を口にし始めている。これはも大山説の功績である。

●「聖徳太子はいた」と主張する反大山説の学者の話。

「基本的には大山氏の問題提示は間違っていないと思われる。聖徳太子は今日の天皇家に連なる人物であり、仏教界の大恩人として不可触領域に近い扱いを受けてきた。そうしたタブーに大山氏が挑戦されたことの意義はたいへん大きいということができる。」

「私は、聖徳太子は偉業をしたと信じるが、大山氏は、後の史料・資料の厳密な批判を行い、確実な史料・資料のみで聖徳太子像を新たに解明し、再編成されようとしたその態度は、むろん尊重されるべきものだ。」

「大山氏は、いささか頑固にも自説を展開し過ぎているところもある。しかし、今日の日本では、いまだに皇統や仏教界への批判が出来ない雰囲気がある。戦前の皇国史観に洗脳され、聖徳太子を批判すると聞いただけでも拒絶反応を起こす老体がいるが、あと5年すれば、聖徳太子は彼らとともに消えるだろう。」

●四天王寺の聖徳太子に関する見解。

 「聖徳太子は存在そのものが想像上の人物ではないか」と発表したり、「聖徳太子」と呼ぶの

  は間違いで「厩戸の王」と呼ぶべきと論じる人もいます。考え方は人それぞれですが、四天王

  寺で質問いただいた際には、当然、「聖徳太子は存在していました」と答えています。」

  消極的で一歩下がった説明になっている。

 

この聖徳太子虚構説は、国でも学界でも定着しはじめ、その結果、高等学校の教科書だけでなく、一般の学術書にも「厩戸(王、皇子)」と記載する傾向となっている。

国文学、美術・建築史、宗教史からも実在は次々に否定され、聖徳太子が『日本書紀』によって創作され、後世に捏造が加えられたとの結論が学界の大勢になった。

 

大山説の概要

飛鳥時代に斑鳩宮に住み、斑鳩寺も建てたであろう有力な王族の厩戸王は実在していた。しかし、聖徳太子は架空の人物である。『日本書紀』に初めて聖徳太子が世に登場する。その人物像の形成に関係したのは藤原不比等、長屋王、僧の道慈らであるとされ、十七条憲法は『日本書紀』編纂の際に創作されたとする。藤原不比等の死亡、長屋王の変の後、光明皇后らは『三経義疏』、法隆寺薬師像光背銘文、法隆寺釈迦三尊像光背銘文、天寿国繡帳の銘文等の法隆寺系史料と救世観音を本尊とする夢殿、法隆寺を舞台とする聖徳太子信仰を創出した。

また、聖徳太子についての史料は①『日本書紀』と②法隆寺史料(法隆寺薬師像光背銘文、法隆寺釈迦三尊像光背銘文、天寿国繡帳、三経義疏)の2系統に分類され、すべて厩戸皇子よりかなり後の時代に作成されたとする。

太子像が創作・捏造となると、誰が何のために、その源となった『日本書紀』とは何かが、古代社会解明の焦点になるのは必然。そのいずれにも重大な役割を果たしたのが、持統天皇側近の藤原不比等というのが大山教授の説くところ。長屋王や唐留学帰りの僧・道慈が関与、多くの渡来人が動員されたというのだ。

「厩戸王の事蹟と言われるもののうち冠位十二階と遣隋使の2つ以外は全くの虚構」と主張。さらにこれら2つにしても、『隋書』に記載されてはいるが、その『隋書』には推古天皇も厩戸王も登場しない。そうすると推古天皇の皇太子・厩戸王(聖徳太子)は文献批判上では何も残らなくなり、痕跡は斑鳩宮と斑鳩寺の遺構のみということになる。

だから、「聖徳太子はいなかった」のである。

さらに

☆聖徳太子は『日本書紀』では皇太子とされているが、皇太子制が始まったのは689年に発布された「飛鳥浄御原令」からで、歴史的事実として最初の立太子は697年の軽皇子(後の文武天皇)なので、推古期に厩戸王が皇太子であることはあり得ない。
☆聖徳太子実在の最大根拠とされていたのが「十七条憲法」の制定だが、江戸時代の狩谷棭斎、昭和の津田左右吉が主張しているように、「十七条憲法」は『日本書紀』のなかの文章と酷似していて推古期の文章ではない。

「十七条憲法」には多くの中国の古典が引用され、当時の中国の思想と政治体制を熟知していなければ書けない内容のものである。聖徳太子がいくら天才でも、推古期の政治・文化観と全く違っている「十七条の憲法」を書くのは不可能だ。

用語の問題として、「十七条憲法」の中の「国司」は大宝令以降の用語であり、また聖徳太子と蘇我馬子が共同で天皇記・国記を編纂したという文章でもその中に使われている「公民」は大化以前に存在せず矛盾している。

津田左右吉が言うように『日本書紀』の編者が聖徳太子の名を借りて当時の官僚たちを戒めるために創作したものであろう。

☆『日本書紀』に聖徳太子は、確実な史料を記したと思われる部分には一切登場しない。冠位十二階の制定や小野妹子の隋への派遣を記した記事に皇太子の語が見えないこと。また、隋から来日した裴世清を歓迎する記述には、難波津での歓迎の様子、飾馬75匹で大和の海石榴市に迎えた様子、朝廷における歓迎の儀式の様子、そのいずれにも皇太子は登場しない。遣隋使の派遣、「冠位十二階」の制定などの記事については、歴史的事実と確認できる記事に皇太子(聖徳太子)は登場しない。反対に「十七条の憲法」や三宝興隆など史実でない話や曖昧で具体性に欠ける記事にのみ登場させている。

☆特におかしなのは法隆寺系史料である。

「薬師像光背銘文」「釈迦像光背銘文」「天寿国繍帳銘文」の3銘文はどれも天武・持統期以後の文言が使われ、あたかも聖徳太子が実在したかのように偽造している。

「三経義疏」は、法隆寺資財帳で「聖徳太子(上宮聖徳法王)御製」と記された法華・維摩・勝鬘の三経の注釈書で、「法華義疏」のみは太子肉筆とされるものが現存し、ほかは写本と言われていて、まさに聖徳太子実存の証拠とされるもの。しかし聖徳太子が亡くなってから120年以上経って突如、太子御製として歴史に登場した出所の疑わしい書物である。また「勝鬘義疏」が中国出土のものと7割方同じ文章であることから、現在の有力説(藤枝説)では「三経義疏」全体は中国留学僧が国内に持ち帰ったものであるとしている。

 

≪大山誠一著 聖徳太子の真実から≫

聖徳太子関係資料に歴史的事実は皆無であり、すべて後世の作り物であったことが明瞭になった。聖徳太子は、架空の人物だったのである。

その聖徳太子という人物を最初に創造したのは『日本書紀』の編者であった。

よく見ると推古朝という時代の肝腎な部分には、聖徳太子は登場せず、歴史的事実とのかかわりは慎重に排除されているのであるが、日本人は、「皇太子・摂政」という肩書きに幻惑されて、当時の政治のすべてに聖徳太子がかかわっていたかのような錯覚をいだいてきた。
『日本書紀』が信用できないといっても、もちろん、事実を記した部分もある。推古朝の場合、冠位十二階とか小野妹子の遣隋使など、『随書』によって事実と確認できる。

もちろん、斑鳩宮や斑鳩寺(法隆寺)の建立も事実である。しかし、そうしたなかでも、(『日本書紀』には)大きな謎もある。608年に来日した隋使、裴世清が会った倭王は男性であった。倭王には妻がおり、後宮もあったという。では、その倭王は誰か。少なくとも女性の推古ではありえない。推古が大王であった事実を伝える史料は、すべて、後世に作られた聖徳太子関係のものばかりである。聖徳太子のために、引き立て役として作られた大王だったのではないか。推古だけではない。用明も崇峻も、大王としては疑問がある。私は、この三人は、大王ではなかったと思う。大王位にあったのは蘇我馬子ではなかったか。

 

「聖徳太子」の捏造は誰が何のために

『日本書紀』の中で、聖徳太子の華々しい活躍が描かれることになるが、これは、当時の政界の実力者・藤原不比等の差し金であった。不比等の2つの深謀遠慮――1つは、中国の皇帝と対比され得るような天皇像を示すこと。皇室の歴史の中にも、儒教、仏教、道教の中国思想を踏まえた聖人がいて、その人物の活躍によって今日の日本があると見栄を張りたかったのである。もう1つは、皇太子というポストを権威づけ、自分の血を引く皇太子・首皇子 (後の聖武天皇)の即位を実現させ、藤原一族の栄華の基礎を築きたいという切実な願いである。その彼の下で捏造されたのが、「聖徳太子」だったのである。

 

 

 

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次回は  第4回 聖徳太子と『日本書紀』

 

 

(担当 H)

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