『聖徳太子』 第2回 太子信仰 | 奈良の鹿たち

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『聖徳太子』

第2回

太子信仰

 

 

「太子信仰」という衣に覆われた聖徳太子の真の姿を見て行きます。

 

誕生のきっかけとして母の穴穂部皇女が、夢に金色の僧をみたという。この僧は救世観音菩薩の化身で、皇女の口に飛び込み、これによって皇女は妊娠。厩のそばで聖徳太子を産むのである。聖徳太子は誕生後、すぐに言葉を発し、2歳のとき釈迦の命日(2月15日)に東方に向かい「南無仏(なむぶつ)」と称えて再拝した。5歳のとき毎日数千字を習得し、6歳から経典を読み始め、自ら中国衡山(こうざん)の慧思禅師(えしぜんじ)の生まれ変わりであると語った。7歳にして経論数100巻を読了し、11歳のとき36人の訴えを聞いて誤りなく裁いた。飼っていた犬は人間の言葉を解せた。推古5年に百済の皇子の阿佐(あさ)が来朝し、聖徳太子を菩薩として礼拝。翌年、甲斐国から献上された黒駒という名馬で空を飛び、富士山から越の国を回って戻った。推古12年には、太秦に250年後に寺が造られ、300年後に都が造られると予言した。

推古21年には片岡山で飢人に会い衣服や食料を与え、死後に墓を造ったが、その後、墓を開くと何もなかった。飢人は実は聖人で、聖徳太子はそれを見抜いていたという。

こうした伝説が中世以降も広がり、聖徳太子は信仰の対象となっていくのである。

<↑『聖徳太子絵伝』(鎌倉時代・四天王寺蔵)>

聖徳太子虚構話が流布したのは、彼の死後、為政者や寺側の意図で「太子信仰」が起こり、伝承に尾ひれが付き、トンデモ伝説が次々と生まれたからである。聖徳太子の話というのは大半が作り話だが、『日本書紀』でも聖徳太子に関する記事では、架空の話を書き連ねている。

さらに、平安時代にまとめられた『聖徳太子伝暦』によって「太子信仰」は頂点を極めた。

時代を追うごとに、「太子信仰」は拡大し、『聖徳太子伝暦』や『上宮聖徳太子伝補闕記』によって救世観音化身説が唱えられ、聖徳太子は救世観音になった。また平安時代に入ると,浄土教の布教とともに聖徳太子を極楽に往生したとする信仰が起こり、聖徳太子は仏となった。

 

「太子信仰」の根源とも言える『聖徳太子伝略』『上宮聖徳法王帝説』などに描かれた超人化した聖徳太子を、広く流布させていったというのが経緯だ。

いまだに聖徳太子関連寺院の僧侶が、真顔で中世の稚拙な太子信仰逸話を朗々と講話している。 

何処の世界でも、信仰逸話とはそのようなものであるが、これが学問の世界に入り込んで真顔で居座られると話は違ってくる。

近年、「太子信仰に惑わされず、伝説と真実を、ハッキリさせなければならない」という機運が高まってきた。戦前のような不敬罪もなくなった今のご時世になって、人々が冷静・客観的な感覚で受け止めるようになったことは当然であり、あまりにも幼稚な信仰的内容が、歴史の真実のごとく語られていることに違和感を持ってきた人たちが発言し出した。

『日本書紀』については、内容の信憑性について、江戸時代から学者たちが疑ってきたのは周知の事実だ。

早稲田大学教授の津田 左右吉は、古代天皇の数人の存在を否定し、聖徳太子の業績を疑問視したため不敬罪にあたるとして攻撃され、発禁処分を受け、大学を辞めざるを得なくなった。彼の研究内容に対し、疑問を疑問として表明し、あの時代に皇統批判をしたことは評価に値する。

津田左右吉が大正9年(1920)4月に文芸雑誌『人間』に掲載した「陳言套語」だ。

 「我が国の過去に固定した風俗や国民性があるように考え、そうして将来もそれをそのままに保存してゆかねばならぬように思うのが間違である、ということは、これだけでも明であろう。こういう間違った考を有っている人々は歴史に重きを置いているように自らも思い人にも思われているらしいが、実は全く歴史を知らぬものである。少くとも歴史的発展ということを解しないものである。またこういう人たちは、昔の思想や風俗がそのままに近ごろまで行われていたように思っている位であるから、現在の新しい思想を考えるについても、それと同じものが昔にもあったように説く。今日の立憲政体は神代史にも現われている我が国固有の政治思想の発現であるという。あるいは、聖徳太子の憲法にデモクラシイの精神があるなどという。まるで昔の時代をわきまえず、その時代の精神をも解せざるものである。のみならず、現在の事実をも知らぬものである。」

世評や地位よりも歴史の真実を追求する覚悟は、今の日本の歴史学者のようなマスコミにおける自身の地位や評価を保つために主張に忖度を加える人間とは座りが違う。

余談ながら、奈良の研究者には「聖徳太子はいなかった」などとは言えない雰囲気がある。彼らの講演は、皇室や法隆寺に対する忖度が見え見えである。奈良では今でも、聖武天皇と聖徳太子は不可侵である。津田左右吉と比べると、その学者としての覚悟の貧弱さがよく分かる。

 

近年、「太子信仰」の衣を剥ぎ取り、『日本書紀』が描く「聖徳太子(皇太子)」の存在そのものを全面的に否定する客観的学説が出された。

国も学会も聖徳太子の虚実性を認め、最近の高校の教科書では、今までは「聖徳太子」と書かれていたのが、「厩戸王(聖徳太子)」とカッコ付きの表記に変わってきている。

もちろん、戦前のような、「太子信仰」にどっぷり染まった道徳的内容の姿は消えた。

聖徳太子は厩戸王と記され、推古天皇の協力者扱いに降格された。しかも「摂政」とも「皇太子」とも記されておらず、単に天皇の「甥」とあるだけである。

「太子信仰」の象徴の紙幣の画像にもなった太子の肖像は、今の高校の教科書からは消えてしまった。

<↑『唐本御影』>

これが描かれたのは、少なくとも太子の没後100年以上経った8世紀半と思われ、聖徳太子を描いたという証拠は全くない。様々な矛盾を含んだ出所不明のものである。装束は明らかに後の奈良時代のものであるし、何と、髭(ひげ)は後から2回書き加えられていた。

今や、これを聖徳太子だという専門家はいなく、紙幣や教科書からも「こりゃいかん」ということで姿を消した。

 

「太子信仰」のベールを全て剥ぎ取れば、聖徳太子には何が残るのか?

肖像画や「太子信仰」の内容を一切使わずに、聖徳太子を説明すると、無味乾燥なものになるだろう。真実は、「聖徳太子は、言われている程、偉くはなかった」のである

 

あの世での聖徳太子の嘆き

「もう、放っといてくれ! 今いるあの世とやらでもマスコミがうるさいし、道で会う人にも「お前、そんなに偉かったのか?」「お前、仕事には全然行っていなかったのに、いつ十七条憲法なんてつくったのだ?」などと疑いの目で見られる。「太子信仰」や『日本書紀』で、神仏、超人、聖人、偉人なんて持ち上げられ、様々なトンデモ逸話を作られたおかげで、肩身の狭い思いをしている。ただの斑鳩の王族のひとりとして扱ってくれていたら、こんな大げさなことにならなかったのに。わしこそ「太子信仰」の被害者だ!」

 

 

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次回は  第3回 「聖徳太子はいなかった 大山誠一説」

 

 

(担当 H)

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