『聖徳太子』 第1回 聖徳太子とは | 奈良の鹿たち

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『聖徳太子』

第1回

聖徳太子とは

 

 

聖人・偉人と呼ばれれた聖徳太子の姿を見て行きます。

 

 

聖徳太子は、社会科の教科書には必ず登場し、千円札や1万円札など何回もお札に肖像が採用され、日本人の誰もが認める歴史上の偉人と言われてきた。

聖徳太子が有名人である理由。 

第1は政治家としての業績の高さである。推古天皇の「摂政」として、また「皇太子」として国政を代行、古代国家の大きな転換期である飛鳥時代を主導し、律令国家の成立前史を担った。

第2は偉人としての聖徳太子である。「生れましながら能く言ふ。聖の智有り」と言われる。

聖徳太子の代表的偉業として、① 冠位十二階の制定、② 憲法十七条、③ 遣隋使の派遣などを挙げることができよう。

一般に知られている聖徳太子(574~621年)は、「厩戸王(うまやとおう)(厩戸皇子)」と目される人物で、飛鳥時代の政治家だ。

『日本書紀』には、幼い時から豊かな教養と優れた政治理 念を持ち、19歳で叔母に当たる第33代の女帝 推古天皇の摂政となって以後、「冠位十二階」「憲法十七条の制定」「遣隋使の派遣」「国史編纂」など数々の偉業を成し遂げたとの記録がある。

『日本書紀』では、574年(敏達3年)、穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)が馬小屋の前で出産したので、厩戸王(うまやとおう)の名前が付けられたとされている。『日本書紀』の段階で厩戸の意味がすでに不明になっていたために、このような美談に近い話が作り出されたのであろう。

574年(敏達3年)、第31代・用明天皇の第二皇子として誕生した。

本名は、『日本書紀』推古紀では「厩戸豊聡耳皇子命(うまやとのとよとみみのみこのみこと)」とされている。また、「厩戸王(うまやとおう)」「厩戸皇子(うまやどのみこ、うまやどのおうじ)」ともされている。『日本書紀』だけに限っても、十二種類の名前が付けられている。

列挙すると、厩戸皇子、東宮聖徳、豊耳聡聖徳、豊聡耳法大王、法主王、厩戸豊聡耳皇子、上宮厩戸豊聡耳太子、皇太子、厩戸豊聡耳命、上宮太子、上宮豊聡耳皇子、太子。

 

聖徳太子(厩戸皇子)についての話が最初に書かれたのは『日本書紀』だと考えられているが、『日本書紀』には聖徳太子という名は出てこない。聖徳太子というのは、100年後の奈良時代の半ば過ぎに作られたものになる。

聖徳太子とは、後に付けられた尊称もしくは諡(おくりな)である。諡とは、帝王や貴人などの死後に奉る、生前の功績に基づく名前のことだ。その死後に生前の威徳を讃えて呼称されたものである。実名は厩戸皇子(うまやとのみこ)である。厩戸皇子は、720年(養老4年)に成立した『日本書紀』の段階ですでに「豊聡耳聖徳(とよとみみしょうとく)」と呼ばれていた。

聖徳太子とは、彼をひとつの理想像として称賛しようとする意図から作られた名前であるから、それは明らかに実像とは別次元の虚像の呼称なのである。聖徳太子は、近年、その評価をめぐってはゆれ動いている。すなわち、太子の超人的な能力はもとより、推古朝において太子が関与したとされていた業績が否定されてきているのである。

 

隋の皇帝煬帝に「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、つつがなきや」と記した国書を渡し、中国に隷属的な態度を取らず、毅然とした対等外交を行なったとされてきた。

思想的には仏教に帰依し、法隆寺、四天王寺を建立し、法華・維摩・勝鬘経の高度な仏教注釈書である 『三経義疏(さんぎょうのぎしょ)』を著したとされている。

その数々の功績が後世に「聖徳太子」として人々に称えられ、その名が今に定着している。

 

<聖徳太子伝説>

聖徳太子には多くの伝説があり、それは、没後およそ100年に成立した『日本書紀』にその伝説化がみられる。さらに、平安時代中期にまとめられた『聖徳太子伝暦』によって、決定的となった。

●『聖徳太子伝暦』

誕生のきっかけとして母の穴穂部皇女が、夢に金色の僧をみたという。この僧は救世観音菩薩の化身で、皇女の口に飛び込み、これによって皇女は妊娠。厩のそばで聖徳太子を産むのである。

聖徳太子は誕生後、すぐに言葉を発し、2歳のとき釈迦の命日(2月15日)に東方に向かい「南無仏」と称えて再拝した。5歳のとき毎日数千字を習得し、6歳から経典を読み始め、自ら中国衡山の慧思禅師の生まれ変わりであると語った。7歳にして経論数100巻を読了し、11歳のとき36人がいっぺんにものを言ったのを聞きわけた。

推古5年に百済の皇子の阿佐が来朝し、聖徳太子を菩薩として礼拝。翌年、甲斐国から献上された黒駒という名馬で空を飛び、富士山から越の国を回って戻った。推古12年には、太秦に250年後に寺が造られ、300年後に都が造られると予言。

●『日本書紀』

推古21年には片岡山で飢人に会い衣服や食料を与え、死後に墓を造ったが、その後、墓を開くと何もなかった。飢人は実は聖人で、聖徳太子はそれを見抜いていたという。

●『四天王寺障子伝(七代記)』『上宮皇太子菩薩伝』『聖徳太子伝暦』

聖徳太子は天台宗開祖の天台智顗の師の南嶽慧思(515~577年)の生まれ変わりであるという。

●「達磨寺」(だるまでら)(奈良県王寺町)

推古21年、今の奈良県王寺町の片岡山で、飢人に会い衣服や食料を与え、死後に墓を造ったが、その後、墓を開くと何もなかった。飢人は実は聖人で、聖徳太子はそれを見抜いていたという飢人伝承。

そして、聖徳太子は「雪丸(ゆきまる)」という名前の白い犬を飼っていた。雪丸は人の言葉を理解し、聖徳太子と会話をすることもできた。とても賢い犬で、中国に禅宗の基礎を築いた達磨大師を慕って、死後に達磨寺に埋葬してほしいと言い残したという。

達磨寺の1号墳は、雪丸の墓とされ、本堂の南西には雪丸の像が祀られている。現在、奈良県王寺町のマスコットキャラクターになっている。

<↑雪丸ちゃん>

 

 

 

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次回は  第2回 「太子信仰」

 

 

(担当 H)

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