『聖徳太子』第5回 聖徳太子の実像 | 奈良の鹿たち

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『聖徳太子』

第5回

聖徳太子の実像

 

 

『日本書紀』による聖徳太子の略歴

『日本書紀』によると、聖徳太子が斑鳩宮(現在の夢殿あたり)を造ったのは601年(推古9年)、28歳のとき。それまでの上宮からここに移り住んだのは605年(推古13年)、32歳のときのことで、以後の後半生をここで過ごした。

<斑鳩の宮>

斑鳩は都があった飛鳥から北西約25㎞離れたところにある。斑鳩から飛鳥までは、馬をゆっくり走らせて片道2時間ほど。まず毎日の通勤は不可能である。この斑鳩宮への移住は、聖徳太子の政治的挫折を暗示するかのようであり、政治からの離脱を意味していた。

聖徳太子がここを居所に定めた理由については諸説ある。蘇我馬子との政争に敗れ斑鳩に移ったとか、政治の世界から逃れて仏教に専念するために斑鳩に隠遁したなどの説もある。

推古女帝のいた都は飛鳥だから、聖徳太子は斑鳩からいわゆる「太子道(筋違道)(成立経緯不明)」を馬で通勤するのだが、往復を考えると結構な距離と時間と労力を要する。我々は、奈良在住なのでよく分かる。斑鳩~飛鳥の太子道は、距離にして約25㎞。車では片道1時間弱。タクシーだと1万円はする。当然、従者がいたから車の1/3の速さ、馬の”なみあし”の8~10㎞/hほどになるだろう。(従者も大変だったろう。マラソン選手並みでないと付いていけない)。馬に揺られての2~3時間(往復4~6時間)は相当しんどい。途中には、「腰掛石」という聖徳太子が腰かけて休憩したという伝説の石もある。夏と冬の厳しさ、雨と風の難儀さ、道路事情の悪さ(湿地だらけ)の過酷な通勤である。さらに当時のポニーのような背丈の小さな馬では、馬の方がバテて到底持たない。

「聖徳太子は偉かった」という人たちも、机上で頭ばかり巡らしていないで、現実直視と健康のために3日ほど続けて歩いて通ってみたらいい。おそらく片道だけで、音を上げて「こりゃ無理だ」と言うだろう。聖徳太子は、毎日はご出勤あそばされなかったのだ。すなわち、仕事をなされていなかったのだ。都まで頻繁に行けなかったので、「十七条憲法」も「冠位十二階」も「遣隋使派遣」も「国史編纂」も、官僚たちとの協議ができず蚊帳の外だった。(テレワーク?)

もっとも、「太子道」自体の信ぴょう性は低く、誰が何時から言い出したのかはっきりしない。

聖徳太子ロマンから今ではウォーキングコースとなっているが、これもまた、「太子信仰」が作り出した所産なのだ。

太子道>

奈良時代の役人の朝は早く、夜明け前に家を出て平城宮へと通勤した。夏至で午前6時半頃、冬至でも8時頃に仕事が始まったという。すると時代は少し異なるが、聖徳太子は夏は4時ごろ、冬は5時半には家を出なければならない。奈良盆地の冬の早朝は、酷寒の雪道で真っ暗だ。

一方、共同政策者といわれる推古天皇と蘇我馬子は、飛鳥に住んでいた。

太子がヘトヘトでやっと役所に着いたら、会議は終わっていて、蘇我馬子から「今頃、何しに来たの?」と言われ、暗くなるからと早めに「お先に失礼します。」と言うと、皆は呆れて無視。天候不順や体調不良で休むと「ずっと休んでいてもいいよ」と嫌味を言われるのがオチである。伯母の推古女帝からは、「これから内政外交で忙しいのに、どうするつもり?  憲法十七条で偉そうに”役人の心得”なんてことを言っておいて、みんなの示しが付かないじゃないの!  馬子が推すから摂政にしてあげたけれど、やっぱり、あなたには荷が重すぎたようね。 これからは馬子とやっていくから、斑鳩に引っ込んでいなさい。」と見捨てられ。役人たちからは、「生まれた時から聡明だと聞いていたが、たまに来ては道徳ぶったことを言って知識をひけらかす太子坊ちゃんは、はっきり言って仕事の邪魔だよなあ。」と陰口を言われ。御妃たちからも、「もう、辞めたら?」とまで言われ。パワハラ、いじめでノイローゼになり、出社拒否症になって痩せ衰え、「世の中みんな間違っとる。世間虚仮(せけんこけ)」などと言い出したのかもしれない。最後は、精神病、自殺という説も。

とても、天皇を助けて毎日政務をこなす器の人物ではなかった。

聖徳太子は遠距離のためほとんど出勤ができず、飛鳥の都で仕事をしていなかったのだ。

 

「厩戸豊聡耳皇子を立てて皇太子としたまふ。仍りて録摂政らしめ、万機を以ちて、悉に委ぬ」(『日本書紀』推古紀元年)

天皇制・皇太子制は、後の天武持統天皇の時代の成立である。また、摂政・関白の制ができたのは平安時代からで、聖徳太子の時代には冠位としての摂政という職はなかった。

推古朝は、推古天皇と聖徳太子・蘇我馬子とによるトロイカ体制であったといわれるが、何といっても最大の実力者は蘇我馬子であった。老練で深遠な権力をもった馬子の前で、息子のような年齢で青ちょろい彼に何が言え、何が出来ただろう? 

戦前からの、蘇我氏と聖徳太子を対比して単純に前者を悪人、後者を善人とする通念はそろそろ終わりにしなければならない。

「万機、悉く、委ねる」あまりに聖徳太子への思い入れのある言葉を並べた感がある。

明らかに『日本書紀』編集時に創作されたものである。

 

太子の居住していた斑鳩は、大和川沿いで陸路・水路を通じて難波津へのアクセスに便利だから、「立地に着眼して、住まいを構え対外交渉に当たった」などという『日本書紀』にも載っていない思い付きの太子持ち上げ論があるが、明らかに後付け美談である。 対外交渉の実績など全く史料にはないし、政策の実務は、役人や官僚がいてはじめて実行出来るものであり、聖徳太子がひとりぽつんと都から遠く離れた場所にいて何が出来ると言うのか。(テレワーク?)

都から遠く斑鳩に住むということは、皇族で摂政である以上当然、天皇の許可を得なければならない。それが許可されたということは、聖徳太子は政策から離れたことを意味している。

 

飛鳥京>

聖徳太子は摂政として飛鳥の都で、積極的に政治をこなしていたということだが、603年(推古11年)に冠位十二階、604年(推古12年)に十七条憲法の制定をし、605年(推古13年)には斑鳩の宮に移住している。たった1年ごとの期間で、役人を束ね、資料を集め、内容をまとめ、文字に落とすという大事業を成し遂げることなど不可能な話である。現代のような情報の発達した社会でも、法律の制定には、少なくとも3年以上はかかる。

そして、607年に遣隋使・小野妹子を派遣して法隆寺を建ててから亡くなるまでの15年間、『日本書紀』には、皇太子が全く登場しない。太子が、『三経義疏』を完成させたというのは、偽書説でほぼ否定されている。「天皇記」「国記」の編集を太子が主体的に行ったという文言はない。この長い空白の期間には、遣隋使派遣、隋の使節の来日、国書紛失事件、再度の遣隋使派遣、蘇我系の堅塩媛を皇太夫人と認定しての改葬その他、重大な国家的事業がいくつもあったにもかかわらず、皇太子の政治的活動が全く記されていない。

あれだけ大活躍をしたはずの彼が、15年間全く目立った実績がない。

いったい何をしていたのか? 斑鳩の宮で、静かに仏門暮らし? 精神的病い?

これらと622年(推古30年)の聖徳太子の死去をかみ合わせると、聖徳太子は、初めは諸政策に力を尽したものの、ことごとく蘇我馬子にあしらわれて思うようにうまくいかず、晩年は失意のうちに亡くなったという筋書きもある。

『日本書紀』や「太子信仰」の書物は、この期間に逸話・寓話をはめ込んでごまかしている。

太子は601年の斑鳩の宮造営あたりから、実質的に政治から退くか、あるいは排除されていたのである。

斑鳩から飛鳥へは、片道2~3時間で毎日通勤は出来ないのだ。すなわち出勤していなかった。仕事をしていなかった。このことは、動かせない事実である。

「太子信仰」で聖徳太子の偉業といわれる冠位十二階や遣隋使や国史編纂などは、蘇我馬子や入鹿が主導して、有能な官僚や渡来人、僧たちが成し遂げたのだろう。

『日本書紀』では、621年(推古29年)の亡くなった時の記事は、異例なほど詳細である。これは、『日本書紀』の最終編纂段階で、皇太子という実務よりも、聖徳太子の神格化に重点を移したのであろう。誕生や死亡の記事は、いくらでも装飾できる。

『日本書紀』は明らかに、実体のない聖徳太子を美化しようとしている。

聖徳太子の真実を求めるなら、彼の事柄についての文章は、疑ってかからなければならない。

長年の太子信仰の虚飾に塗れた衣を剥ぎ取っていかなければならない。

いいかげん、皇国史観から抜け出せない偏見から聖徳太子を開放しなければならない。

 

あの世での聖徳太子の嘆き

もう、放っといてくれ! 今いるあの世とやらでもマスコミがうるさいし、道で会う人にも「お前、そんなに偉かったのか?」「お前、仕事には全然行っていなかったのに、いつ十七条憲法なんてつくったのだ?」などと疑いの目で見られる。「太子信仰」や『日本書紀』で、神仏、超人、聖人、偉人なんて持ち上げられ、様々なトンデモ逸話を作られたおかげで、肩身の狭い思いをしている。ただの斑鳩の王族のひとりとして扱ってくれていたら、こんな大げさなことにならなかったのに。わしこそ「太子信仰」の被害者だ!>

 

 

 

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次回 第6回『聖徳太子の虚偽』

 

 

(担当 H)

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