『北海道の地質的景観』 第27回 石狩川 | 奈良の鹿たち

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『北海道の地質的景観』

第27回

<石狩川>

 

 

 

●石狩川の流路

石狩川は、長さは268kmで全国第3位、流域面積は14,330㎢で2位です。

石狩川の源流は、北海道の中央に位置する大雪山の南東にある石狩岳(標高1,967m)にあります。そこから溶結凝灰岩層を深く削りこんだ層雲峡の峡谷を経て、旭川のある上川盆地に流れ出ています。上川盆地から出た石狩川は硬い変成岩山地を削り,神居古潭の深い峡谷をつくって流れています。天塩山地南部・夕張山地を峡谷となって横切り,深川あたりに流れ出しています。深川から石狩低地帯を南下します。 深川の西方から月形・美唄付近(標高15m前後)までは氾濫原性低地(自然堤防地帯)のため勾配は緩やかになり、蛇行しながら流れています。

約6000年前の海面上昇期(縄文海進)には,海は岩見沢付近の,現在の標高で10mほどのところにまで入りこんでいました。このときの海面は現在よりも2~3m程度高かったので,その後、最大で7~8mほどの地盤高上昇があったことになります。そのため石狩低地帯は湿地帯となり、泥炭層の場所や河川の氾濫によって土砂が溜まるような環境となりました。江別市で西に流れを変えて、石狩市で日本海の石狩湾に注ぎます。しかし、現在見られるこのような石狩川の流れは、昔からこのような流れであったわけではなく、さまざまな変遷をしてきました。洪水で蛇行がまっすぐになるような変化もありました。洪水が起きると、そこには土砂が溜まり、新たな大地として更新されます。

3万2000から2万9000年前に、支笏カルデラをつくった火山は、非常に激しい活動をして、周辺にも大量の火山噴出物火砕流を放出しました。千歳から苫小牧かけて、大量の火山堆積物が溜まりました。火砕流堆積面からなる分水界の標高はわずか25mであり,現在ではここに新千歳空港があります。 かつては、石狩低地が、苫小牧のある太平洋側まで続いていました。石狩川はこの低地を南に向かって流れ、太平洋に注いでいました。現在の豊平川が、当時の南下していた石狩川本流になります。支笏火砕流堆積物で石狩川はせき止められて、太平洋に流れ込むことができなくなりました。その結果、石狩川は、現在のように西に曲がって石狩湾日本海へと流れ込むようになりました。

 

●石狩湾

北海道では、13世紀にはアイヌ文化が成立しました。アイヌの人たちは、石狩川流域で、狩猟採取の生活をしていました。
1869(明治2)年7月に蝦夷開拓使が設置され、石狩川と十勝川の沿岸に入植が進められ、開拓の歴史がはじまりました。本州から多くの人が入植し、大規模な西洋式の農業様式が導入されました。しかし、平地を蛇行する石狩川は洪水が絶えませんでした。明治以来、氾濫域面積100㎢を超える大洪水が8回おこりました。蛇行する河川に大水が流れると、蛇行の外側を削っていきます。蛇行をなくし流れをまっすぐにすると、水はスムースに流れていきます。開拓がはじまって以来、石狩川の治水工事とは、蛇行をなくし、まっすぐにショートカットさせていくものでした。そして川の両側には、大きな堤防が設けられました。増水があっても堤防を越えたり壊したりすることなく、すぐに海に水を流してしまうという方法です。
このような治水の結果、もともと356kmあった石狩川の長さは、100km近く短くなり、268kmになりました。それでも現在、日本で第2位の長さを誇っています。

石狩川は平坦な石狩平野を蛇行しながら、何度も流路を変えてきました。その記録は、川の周辺にある三日月湖からもうかがい知ることができます。そもそも、石狩川の語源としては、イ・シカラ・ペツから由来しているという説が有力です。イ・シカラ・ペツとは、曲がりくねった川という意味のアイヌ語です。先住民のアイヌの人も、石狩川が特別に曲がりくねっているということを、よく知っていたのです。

 

(古石狩湾はなぜできた?)

今からおよそ1万年前〜5000年前の縄文時代の最初のころには、地球全体は寒冷な気候から、現在に近い温暖な気候へと変化しました。すると大陸を広く覆っていた巨大な氷河が融けて、その分、海水面が上昇したのです。今からおよそ6000年前の縄文海進期、現在よりも3mほど海水面が高くなりました。石狩平野は札幌市の中心部まで浅い海に覆われていました。その海は古石狩湾と呼ばれ、江別市や当別町、南幌町にまで入り込んでいました。古石狩湾は浅い入江で、湾の入口の両岸(現在の石狩市美登位、札幌市手稲前田)からは、堆積した砂によって細長い砂地(砂州)が伸びて、6000年前頃には湾の入口を砂州がふさぐような地形になっていた。

石狩市や札幌市の地下から掘り出される貝化石の種類から、当時の湾内は今よりも暖かく、現在の秋田県沿岸と同じくらいの海水温だったことがわかっています。また、当時のセミクジラやナガスクジラの化石も発見されており、クジラも生息していたことがわかります。

 

(古石狩湾はなぜ消えた?)

6000年前の縄文時代(縄文海進)に温暖気候のピークを過ぎると,海水面は下がっていくとともに、石狩川が運んでくる大量の砂や泥によって古石狩湾は埋め立てられていき、徐々に湿原のような陸地になりました。およそ5000年前にはほぼ消滅し,その後も沖合に向けて陸化が進んでいった。

その海の名残りとして今でも容易に見ることができるのが紅葉山砂丘です。それは当時の内湾の入口を塞ぐ砂州が、その後の海退に伴って陸化し、内陸に微高地として取り残されたものです。

紅葉山砂丘は、新川中央橋付近から石狩川北東岸の美登位まで続く延長約15kmの古砂丘(内陸砂丘)です。平均標高は10m程度で、最高標高点は紅葉山三角点で17.6mである.

この砂丘の下部には,厚さ2m程度,幅は50〜100mの礫層が分布していて逆級化構造を示している.

 

 

 

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次回は 第28回(最終回)「石狩低地」

 

 

(担当 G)

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