『北海道の地質的景観』
第20回
<利尻島・礼文島>
(手前:礼文島、後ろ:利尻島)
利尻島は、北海道稚内市の南西およそ40kmの海上にある周囲約61kmの火山島で、200万年前に海底噴火によって生まれ火山岩の島です。
8km隣の礼文島は周囲約72kmで、海底隆起で誕生し堆積岩の島です。
両島はまったく異なる形成過程を持っています。
●利尻島
<1500万年前~> 島の基盤となる平坦な地層がつくられる(古利尻島)。標高100mの現在の利尻島の基盤岩。
<200万年前>海底火山の噴火が始まる。
<20万~10万年前> 初期火山活動により、徐々に標高1300mほどの成層火山の利尻富士がつくられ始める。側火山である鴛泊ポン山・ペシ岬などはこの頃の溶岩ドーム(溶岩が流れずに盛り上がる)。
<9万年前>までには現在のような浸食の進んだ成層火山体と、多くの側火山から構成される複成火山が形成されていたと考えられています。
<5~4万年前> 火山活動最盛期で、火口から噴出したマグマにより標高1800mほどの利尻富士が現在の形となる(標高1721m)。
<4万年前~> 沼浦マール火山活動末期で、沼浦・南浜湿原ではマールと呼ばれるマグマ水蒸気爆発による火口ができる。
<2万8000年前>山頂から野塚溶岩流(玄武岩)が流れて野塚岬を形成しており、山頂に露出しているロウソク岩はこの時の火道と考えられています。その後の噴火は、南東山麓を中心に、玄武岩マグマによる割れ目噴火、マグマ水蒸気爆発(沼浦マール)など多様な噴火活動が起きる
<1万3000年前> 海水面が上がりサハリンと北海道が分離し、宗谷海峡ができる。
<8000年~2000年前>には、利尻富士も最後の噴火となる。
<現在>は火山活動を停止しているために、山体は標高500m以上では著しく浸食され、それよりも下では緩傾斜の溶岩台地または扇状地形を形作っています。島内でもっともよく見ることのできる溶岩は 7~3.7万年前に流れた玄武岩質の「沓形溶岩」で、丸みを帯びた細かい穴が多数空いているのが特徴です。
オタトマリ沼と周辺の湿原は、今からおよそ7000年前以前に起きたマグマ水蒸気爆発によってできた火口跡(マール)に縄文海進による海面上昇で水が溜まり、その後海退に伴い今からおよそ4000年前以前に誕生しました。
名物の利尻昆布は、利尻富士の水が栄養分をたくさん含んで、海底湧水となって昆布の成長のもととなっている。さらに、その昆布を食べて身の豊かなウニが育っている。
●礼文島
約1億年前、海底で堆積した砂岩や泥岩、火山岩の地層がつくられました。
礼文島西海岸にある地蔵岩の付近一帯で、当時の地層が見つかり、1億1150万年前のアンモナイトの化石も発掘されました。
約13万年前に地殻変動により、礼文島は海底より地上にその姿を現しました。
礼文島が南北に伸びているのは、島の骨格をなす白亜紀の地層が南北に褶曲したためである。
至る所に安山岩、玄武岩の柱状節理が岩脈として現れています。
礼文島北部の久種湖周辺や礼文島中央部の礼文岳(標高490.0m)では、標高500mに満たない場所とは思えない,まるで高山帯にいるかのような景色が広がっています。この景色は,約2万年前の氷期にできた周氷河地形(しゅうひょうがちけい)によるところが大きい。約2万年前をピークとした氷期は、最終氷期と呼ばれていて、日本列島の気温は現在より7~8度低下していたと推定されており、海水面の高さは現在より100m以上低下していました。北海道の日高山脈や本州の日本アルプスには山岳氷河が分布していました。
そのような著しく寒冷な気候条件のもとでは、岩石中の水分が凍結して岩石が破壊されたり(凍結破砕)、地表面に霜柱や氷の塊(アイスレンズ)が形成され地表面が持ち上がったり(凍上)します。そのような過程を経て生産された土砂は、地形的に低い所へ移動して地表面の凸凹を埋めていきます。それらの作用を総称して周氷河現象と呼び、周氷河現象により形成された地形を周氷河地形と呼びます。
周氷河地形は、“なだらか”あるいは“緩やかな”地形をなすことが多い。
礼文島北部の山稜は、丸みを帯びて、谷に向かってなだらかに続く緩い斜面が一望できます。また、その斜面に続く谷は、スプーン状の形をなす場合が多い。それらのほとんどは、最終氷期に形成された周氷河地形です。約2万年前の氷期にできた地形が、現在の高山植物群の足元を支えているのです。
ちなみに、対岸の北海道北部の宗谷丘陵も、周氷河地形です。
桃岩は、約1300万年前のマグマが海底でドーム状に膨れ上がったものが、約13万年前に陸上に押し上げられました。高さは250m、幅300mにもおよぶ火成岩です。
礼文島南部に、礼文島唯一の湖である久種湖(くしゅこ)があります。現在の久種湖は、海岸砂丘により海と隔てられ、礼文島を南から北に向かう大備(おおそなえ)川が流れ込んでいます。しかし、かつては砂丘もなく、湖もなかったと考えられています。そこはかつて海に面した内湾であり、河川の一部であった時期もありました。
約1.8万年前は、地球規模で著しく寒冷な気候が到来しており、氷期のうちでも最も寒冷な時期(最終氷期の最寒冷期)でした。その頃は、現在と比べて海水面が100m以上も低かったと考えられています。このため、礼文島は北海道と陸続きとなり、現在、久種湖のある場所には河川が流れていたと思われます。その後、現在のような温暖な気候へと変わりゆく中で海水面も上昇し、縄文時代には現在よりも海水面が数m高くなりました(縄文海進)。その時代には、現在のように砂丘はなく、久種湖は内湾(海)であったと考えられています。その後、海水面が徐々に下がるとともに、季節風が砂を吹き寄せて海岸砂丘を作り、内湾が海と隔てられて、現在のような久種湖ができたと考えられています。
地蔵岩は,礼文島の西海岸に屹立する尖塔状の岩体で,地層の差別侵食によって形成された岩体です。火山角礫岩は硬く,その左右の砂岩泥岩層は相対的に軟らかく,このような硬軟互層の場合には差別侵食が起こります。差別侵食とは,硬い部分は侵食に対する抵抗が強いので残り,柔らかな部分は侵食に対する抵抗が弱いので速やかに削られます。地蔵岩の場合は,構成する火山角礫岩が硬い部分,左右の砂岩泥岩層が柔らかい部分に相当します。硬くて直立する火山角礫岩が,何千年もの侵食作用の結果,尖塔状の岩体,すなわち地蔵岩として残ったと言うわけです。
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次回は 第21回「大雪山」
(担当 G)
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