『北海道の地質的景観』 第7回 十勝岳 | 奈良の鹿たち

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『北海道の地質的景観』 

第7回

<十勝岳>

 

 

 

 

十勝岳は、美瑛の東側に位置する活火山です。現在も噴気を上げています。十勝岳は、繰り返し噴火してきた成層火山です。北海道でも有数の活火山で、何度も噴火が起こしてきました。十勝岳だけでなく、十勝岳から南東方向、北西方向に延びる山並みは、すべて十勝岳と同じ成層火山からできています。これらの火山を、十勝岳火山群と呼んでいます。

十勝岳連峰は北から,オプタテシケ山,美瑛富士,美瑛岳,平ヶ岳(たいらがだけ),十勝岳,上ホロカメットク山,三峰山(さんぽうざん),富良野岳,南富良野岳と連なり北東-南西方向に配列しています。これに直交する方向で上ホロカメットク山から下ホロカメットク山に連なる火山群があります。

 

十勝岳火山群は、約100万年前に始まり、何度も噴火してきた火山です。十勝岳火山群の火山活動は、古期、中期、新期の3つに区分されています。古期の火山活動の正確な開始時期は分かっていません。地層の地質学的関係から50万年より新しい時代の活動であることは判明しています。古期と中期の間には活動の休止なく活動しています。中期と新期の間には、火山活動の休止期がありました。新期の活動が開始した時代も正確にはわかっていませんが、1万年より新しいと考えられています。新期の活動は、美瑛富士と、十勝岳の1kmほど北にある鋸岳からの噴火からはじまりました。3000年前ころには、十勝岳本体での活動が起こりました。

この火山群の中で,現在最も活発に活動しているのが十勝岳である。グラウンド火口は約5千~3千年前に活動しました。1926(大正15)年の噴火は、中央火口(大正火口)で発生し,泥流が美瑛,中富良野,上富良野に達しました。62-2火口は1962(昭和37)年の噴火で形成されたものです。また,1988~89年にも62-2火口で噴火が発生しました。

美瑛富士,美瑛岳,富良野岳は10万~17万年前に噴火しています。オプタテシケ山や平ヶ岳,下ホロカメットク山は17万年前から26万年前の活動で形成されました.最も古い火山は一番南にある大麓山(たいろくさん)で,約100万年前のものです。

 

 

中でも1926年(大正15年)の噴火は大きな被害を出しました。この噴火により熱い岩屑なだれが形成されて、積雪が融けて、大規模な泥流が発生しました。噴火の24分後には25km離れた上富良野や美瑛町を襲いました。死者・行方不明者144名、負傷者約200名におよぶ大災害となりました。  

<1926年(大正15年)5月 十勝岳噴火による泥流被害>労働新聞』

 

1926年(大正15年) 5月24日 午後4時17分過ぎの大噴火の際に発生した大規模泥流は、麓の村々に使者144人という悲惨な災害をもたらした。

 

前年の1925年12月23日、中央火口丘の山頂火口が活動を始め、火口内に直径20×30m、深さ20mほどの火孔「大噴(おおぶき)」を生じた。19262月中旬には大量の砂礫を飛ばし始め、4月5日と6日には、周辺に火山灰を降らせた。4月中旬には、火口から火柱が噴き上がった。5月に入ると、大噴からの噴煙量が増し、火柱はますます高く、大墳の隣に新しい火孔を生じた。5月13日と14日には、鳴動と噴煙が一層激しくなった。山麓ではしばしば地震を感じた。15日の午後から活動は間欠的となり、16日と17日には鳴動は衰えたが、噴煙が激しく上昇した。5月22日になると、十勝岳は鳴動を再開、西麓の上富良野村(現在の上富良野町)でも、時折ドーンという音とともに家々がユラユラと揺れた。そして5月24日の朝を迎える。正午過ぎの12時11分、元山硫黄採掘事務所では、突然の爆発音とともに、岩の崩れる遠雷のような響きが5~6秒聞こえた。このときの爆発では、小規模な泥流が発生して丸谷温泉を襲い、さらに畠山温泉(現在の白銀温泉付近)の風呂場を破壊し、宿の前の端を流失させた。午後2時ごろにも小規模の鳴動と噴火があり、泥水が美瑛川と富良野川を濁らせた。そして最初の爆発から4時間あまり経た午後4時17分過ぎ、2回目の大爆発が発生したのである。大規模な水蒸気噴火であった。

このとき、火口の西約3kmにあった吹上温泉では、遠雷のような響きとともに、障子などが振動して黒煙の噴き上がるのが目撃されている。この大爆発によって、中央火口丘の山体のほぼ半分が崩壊した。崩壊物は高温の岩なだれとなって、十勝岳の北西斜面を流下したのである。5月の十勝岳の山頂部は、まだ厚い残雪に覆われている。噴火とともに発生した高温の岩なだれは、その熱で積雪を急速に融かし、大規模な融雪泥流を発生させた。泥流はたちまち火口から2kmあまり離れた元山硫黄採掘事務所を襲い、建物を流失させてしまった。辛うじて難を逃れた人の話によると、激しい爆発音を聞いて山頂の方を見ると、黒煙の立ち上がるのが見えたが、間もなく泥流が襲来して事務所をさらっていったという。大泥流は、北側の美瑛川と南側の富良野川とに分かれて、それぞれの谷を高速で流下した。美瑛川を下った泥流は、まず丸谷温泉を破壊、続いて畠山温泉を襲い、温泉宿を倒壊、流失させた。このとき、丸谷温泉で3人、畠山温泉で4人が泥流に呑み込まれて死亡している。一方、富良野川を下った泥流は、狭い谷に入ると、さらに速度を増して流下した。泥流の深さは40m以上に達し、その勢いで森林の木々をなぎ倒して、多数の流木を下流へと押し流した。大泥流は、やがて上富良野の扇状地へと氾濫し、家屋230棟を破壊するに至った。とりわけ破壊力を増したのは、泥流が運んできた大量の流木であった。泥流の荒れ狂った上富良野村の惨状は、家屋はもちろん、橋梁や鉄道線路なども破壊されてしまった。

泥流は、火口から25km離れた上富良野の原野に爆発後25分あまりで到達しているから、平均時速は約60kmということになる。この十勝岳大噴火による泥流被害は、死者144人、建物の損失372棟、家畜68頭、水田680町歩、畑597町歩、橋梁の破壊49ヶ所など、被害総額は256万円(現在の金額で80億円前後)にも及んだ。

 

この惨劇の物語は三浦綾子の小説「泥流地帯」となった。

 「かみふらの開拓記念館」の入り口にその文学碑がある。

 

 

 

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 次回は 第8回「屈斜路湖」

 

 

(担当 G)

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