で、そんな無計画な私のことをよく知る学友が、今年はキチンと万事計画をしてくれたため(いつもありがとう🙏)
今年は無事にバスツアーに乗ることができ、実に効率的に徒歩圏外の仏像たちに会うことができました(ありがたや〜)
そこで、今回はバスツアーで出会った仏像をご紹介します
京都から米原乗り換えで、高月駅に8:50に到着
駅前は、すでにごった返していました
↓焼きそばのよい香りが漂っています
バスツアーは9:30に高月駅を出発
今回のバスツアーは、
Cコース(国宝・重要文化財周遊コース)↓
番号をつけて書き出します
❶西野薬師堂・正妙寺→❷赤後寺→❸安楽寺釈迦堂→❹高野大師堂→❺石道寺→己高庵(昼食)→❻己高閣・世代閣→❼黒田観音寺→❽和蔵堂→❾渡岸寺観音堂(向源寺)・資料館
線路を挟んで東西に広がるコースです
訪れる場所すべてを一つの地図に落とすと細かくなってしまうので、
↓とりあえずはじめに回る❶と❷、そして❼(この3つは北陸本線の西側のエリア)を地図で確認してみます(出発地の高月駅は地図の右下)
❶❷❼は昨年行けなかった場所なので、楽しみです
では、出発
❶西野薬師堂(充満寺)・正妙寺 (10時05分まで拝観)
昨年徒歩では無理と諦めたのに、バスだとあっという間に到着するんだなあ…
石の門を入って正面に西野薬師堂(充満寺)、右手に正妙寺があります
まずは
いきなり、2体のお像が並んで迎えてくださいました
千年もの間、村人が守るお像だそうです
向かって右は
伝薬師如来立像(重文) 159.4㎝
平安中期と伝えられるこの像は、等身、ケヤキの一木造で、肉身部は漆箔、衣は彩色の「朱衣金体(しゅえこんたい)」像(※)です
薬師如来と伝わりますが、薬壺を持たず(古像は薬壺を持たないこともある)、
来迎印を結びます(親指と人差し指を輪っかにして、👌オッケーサインみたいにしてます)
この手は👌両手とも江戸時代の後補で、当初はどのようだったか不明だそうです
当初もこのままの印相だったとすれば、来迎印阿弥陀だった可能性もあるとのご説明でした
でも、お寺の由緒には、最澄が薬師とその眷属の十二神将、十一面を自刻したとあるそうなので、そのまま薬師如来でもよさそうに思いました
↓十二神将のうち2体現存
巳
↓辰
腰回りのムチムチ感に、唐招提寺の増長天を思い出した…
十一面観音立像 166.7㎝
お顔が薬師像と良く似ておられます
こちらは平安時代初期と伝えられ、ヒノキの一木、内刳りなしだそうです
両手足、両足先、頭上化仏は後補だそうです
(写真は現地購入のもの)
↓頭上の化仏の一部が残されているそうです
(『みーな』148号)
同じ寺域にある正妙寺には、なんとも不思議な仏像がおられました
正妙寺
↓千手千足観音像
より鮮明な画像をどうぞ
(『近江若狭の仏像』)
11世紀に寺が創建された当時からのものだそうで、江戸時代に金泥で修復されたんだそうです
足、どうなってんのかな?むしろ歩けないんじゃないのかな?
と余計な心配をしました
(手足がざわざわ動いたら、申し訳ないけど私は一目散に逃げる!)
同じ敷地に、石の仏様も祀られていました
大きな欅の木もありました
このあたりには、ケヤキの木が多いそうです(だからケヤキの仏像が多いのでしょうね)
ケヤキは実は槻の木のことで、「高月」という地名ももともとは「高槻」だったそうです
(いやしかし「槻の木」と聞くと、とっさに飛鳥寺の蹴鞠を連想してしまいますよね←病気)
そんなことはさておき、飛び出し坊やとともに次に行きましょう!
「滋賀県、飛び出し坊や続々増えてる説」を私は唱えたい
次の寺まで、バスで移動です(楽ちん♪)
昨年辿り着けなかったリベンジですが、実は10年ほど前に大学院の授業で一度来たことがあります(ということに、現地で気づきました)
バスを降りてから、お寺まで少し歩きます
↓背中に粋な琵琶湖の白抜き模様の入った赤いジャンパーを着たこの方が、Ⅽコースのガイドさんです
到着
最近大きな木が倒れたらしく、以前はもっと鬱蒼としていたそうです
↓階段を登る手前に「御枕石」がありました
この石は、これから拝観するお像の苦難の歴史を物語る石です
というのも、この石は「賤ケ岳の戦い」の戦火を逃れるために、仏像を近くの赤川に沈めた時に枕とした石なんだそうです
滋賀県には、地域の方々の管理による仏像がたくさんありますが、戦いの多かった地域で仏像を守って来られた歴史を考えると頭が下がります
本堂
本堂からの街並み~ここで戦いがあったなんて想像ができない
本堂には二体の仏像がいらっしゃいます
聖観音立像 182.8㎝
戦火を逃れるため、川に沈められた際に両手両足先を失ったそうです
先程の枕石は、川で沈める際にこの像の頭にあてがわれたそうです
お尻に巻かれたの布が珍しいです
おしゃれです
千手観音立像 173.6㎝
十一面観音は頭上面を失い、当初は42本あった手も12本になってしまったそう
それでも必死に守った当時の民衆や、それを今まで伝えて来たこの地の人々の意識の強さに尊敬の念を抱きました
赤後寺のこの二体の観音は、コロリ(転利)観音として現在も篤い信仰を集めているそうです
↓次は、北陸本線の東側、❸→❹→❺とまわり、己高庵での昼食のあと❻へ行きます
❸安楽寺釈迦堂(11:15発)
昨年、遠くから眺めただけでした
こちらも、リベンジのお堂です
写ってないけど「白山神社」と書かれた入り口から鳥居をくぐって入ります
焚き火、ゲホゲホ
テントの奥には収蔵庫がありました
そしてここにもまた、2体の仏像がおられました
釈迦如来坐像 156センチ
半丈六の坐像です
両臂から指先までが後補のため、当初から釈迦如来だったかどうか不明だそうです
両膝も後補です
頭体主要部は当初のもので、像底から胸あたりまでが内刳りされたヒノキの一木造りだそうです
衣文の彫りの浅いところから10世紀頃の制作と考えられているそうです
でもちょっと待って!
このお像、
顔の表面が、胸あたりと質感が違うように見えませんんか?
お顔、きれいすぎやしませんか?
目、鼻、口あたりがとてもきれいで、まるで後補のように見えますが、単なる写真うつりの問題でしょうか?誰か教えてください
この像の右手に関しては、当初のものが堂内から発見されているそうです
↓右手と蓮華
大日如来坐像 139㎝
宝冠、智拳印を結ぶ金剛界の大日如来です
この像は、パンフレットによれば胸から腹部に「かなり古いものが含まれる」そうです
その他の部分は後補だそうで、こちらも顔と胸あたりを拡大すると質感がかなり違います
ぴかぴかのお顔や手先は、後補
この大日如来に関しても、当初のものが堂内から発見されたそう
↓臂部には臂釧の痕が見える
こちらの収蔵庫には、この2体の他にも、きれいな仏像が何体もありました
由来不明ですが、このエリアの仏像が集められているのだと思います
どの像も似たお顔つきをしていました
まだまだ午前中
次は、バスで❹高野大師堂へ行きます
ここの受付で、昨年はペットボトルのお茶をいただきました(その節はありがとうございました)
❹高野大師堂(11:40)
まずは、こちらの
満願寺薬師堂
(内部の撮影禁止と書いていなかったと思うので撮った画像を載せますが、問題あれば消します)
薬師如来坐像
「おー、懐かしい!」と、このお薬師さんを観た時、ちょっと心躍りました
その理由は、このお薬師さんのお顔が、昨年回った高月駅周辺のお堂の像にも多く見られた「かわいいお顔」に似ていたからです
ちょっと、お顔を拡大してみますね
↑(いやなんか不気味なんですけど…)
薄暗がりで白目が光っていてちょっと怖いですが、「白黒はっきりした目」、「くるりんとしたお鬚」、「短い鼻下」、「赤い唇」、「真ん丸お顔」を持つこの像の顔と、
↓昨年出会った、高月駅周辺のお寺にいらした子たち(詳しくは昨年の記事参照)を比べてみてください
雰囲気が似てませんか?
このエリアの仏像が、地元の同じ仏師さん、または同じ工房による制作で、その作風の特徴が上に書いたようなものだったんじゃないかと思われるのです
もちろん、渡岸寺やその他のお寺にもみられる中央仏師の系譜を引く様なすばらしいお像もたくさんありますが、そういった一流の像とは一味違う「かわいい子たち」(失礼だったらスミマセン)一派がこの地に確かに存在すると思うのです
奈良や京都、そして鎌倉にもないような、素朴でかわいらしい作風です
詳しい方、教えてください
↓さらに、この薬師の背後には十二神将もおられました
こちらもなんとも素朴でかわいらしい作風です!
数体、お顔アップにしてみますね
↓みなさん、まるで「困惑したオジサン」みたいなお顔です(失礼だったらスミマセン)
こっちも↓
四天王も↓
これら四天王と十二神将は似たような表情(困惑おじさん)をしていらっしゃいました(失礼だったらスミマセン←しつこい)
大師堂
さて、境内の隣の大師堂は、良源(元三大師)を祀っています
こちらは、撮影禁止でした
(昨年の記事に印刷された画像を挙げてあります )
次は、いよいよ、待ちに待った
❺石道寺(しゃくどうじ)(12:25)
石道寺十一面観音には、数年前に東京の展示で一度お会いしていますが、
それ以前にも、大学のサークル合宿でお訪ねしたハタチの頃、早春の雪の中でお堂を開けてもらったことを覚えています
今回はかなり手前でバスを下りました
↓坂を上り、てっきりあの大きな屋根が石道寺かと思ったんだけど
その家の脇を通りすぎて、さらに家の裏手にまわり…(あれ?)
少し登ったところに石道寺がありました
石道寺十一面観音立像
井上靖が『星と祭』で「村の娘さんをモデルにしたよう」と表現したのは有名な話ですが、私はそれを読んでいません(読みなさい)
ハタチの頃、雪道をサークルの同期の友人と、ユーミンのDestinyの歌詞の解釈をしながらこのお堂に辿り着きました
雪あかりの反射する寒いお堂のなかで、厨子を開けてもらった瞬間に、赤い唇を持った可憐な「村の娘さん」が目に飛び込んできました
強烈に懐かしい記憶
歌詞の解釈をした友人とは今は音信不通となってしまいました
今回は、そんな青春のおセンチを微塵も持たないオバサンとして、「村の娘さん」にお会いしましたが、「村の娘さん」の可憐な姿はそのままでした
そんな「村の娘さん」の写真を集めてみました
角度によって表情が変わります
彼女の鼻筋が通っているように見えるのは、鼻筋に白い染料が残っているためなんですね
「村の娘さん」は、渡岸寺十一面に引けを取らない美しさだと私は思います
湖北で一番会いたかった仏像です
↓現在の石道寺から鶏足寺(旧飯福寺)までは上り坂、10分くらい?
紅葉がきれいだそうです
石道寺の後は、己高閣で昼ご飯(バスのコースに組み込まれています)
近くにこのあたりの案内図がありました
昼食後に行ったのは
❻己高閣・世代閣 (13:50)
初めに己高閣から入ります
己高閣は昭和38年に建てられた収蔵庫で、己高山の寺々の寺宝を収めています
鶏足寺十一面観音立像
画像よりもずっときれいな十一面です
右足親指が少し上に跳ねていて、歩き出そうとしている感じがします
このお像のあった鶏足寺については、
七仏薬師如来立像
(『みーな』148号)
次、世代閣に行きます
世代閣
世代閣は平成元年に開館したそうで、やはりたくさんの仏像を保管しています
鶏足寺薬師如来立像 181.6㎝
大振りな薬師如来像です
腿がパンパンで太いのが印象的
一木造、内刳りなし
鶏足寺魚藍観音立像
魚籃観音は珍しい仏像です
己高山・鶏足寺の歴史
鶏足寺の歴史が書かれています
若干の補足を加えながらその歴史を箇条書きにて紐解いてみます
①この山にはかつて広大な山岳寺院が存在
➁近江の鬼門に当たるこの地は修行の場であり、735年には僧行基(688-749)が寺・仏像を設けた(南都仏教の影響)
③その後、加賀の白山の開山で十一面観音の信仰者である僧泰澄(682-767)が修行の場とした(白山信仰の影響)
④平安時代には、最澄(766-822)が行基の足跡を辿り入山、雪の上に残る鶏の足跡に導かれ(鶏足寺の名前の由来)、十一面の仏頭を発見、自ら胴体を彫り祀った(天台の影響)
⑤室町期に大寺院となる
・「惣山之七箇寺」(鶏足寺、法華寺、石道寺、満願寺、安楽寺、松尾寺、円満寺)、
「北四箇寺」(鶏足寺、管山寺、竹生島、大吉寺)などの中核となる
⑥その後弱体、己高山の仏像たちは宗派を超えて民衆の管理となる(戦国時代に民衆が守ったエピソードがたくさんあるわけ)
⑦昭和8年焼失(本尊は無事)
※現在の鶏足寺は、天平7年(735)「飯福寺」であり、山上の鶏足寺とは違うそうです(どっちも行ったことないですが…)
湖北地域は交通の要衝でもあり、古くから南都仏教、白山信仰、十一面観音信仰、天台宗など多くの影響を受けて来たんですね
(滋賀県、もっと全国に知られてほしい!)
さて、残すは後3か所
がんばるぞ!(バスに乗るだけ)
❼黒田観音寺 (14:30)
南に田んぼが広がる山すそに観音寺はあります
十一面観音立像 199㎝(蓮台含めると3m)
東京芸大でもお会いしたので、3回目の対面になります(もはや友人)
ヒノキの一木造
このお寺では、厨子内部に設置された電灯をつけたり消したりして頂きました
するとびっくり
電灯をつけると、男っぽい表情
電灯を消すと、女性らしい柔らかな表情に変わります!
(以前、京都の寿宝寺でも扉の開閉で表情が変わったのを思い出しました)
また、このお像を下から見上げると、とても穏やかで優しい表情になるのにも感動しました
観音寺境内
アクセスが多少難しいお寺かもしれませんが、ぜひとも訪れたいお寺です
❼黒田観音寺から次の❽和蔵堂までは、琵琶湖の北岸を通り少々時間がかかりました
バスで良かったと心から思いました
❽和蔵堂 (15:20)
このお寺は、隣の善隆寺のご住職の管理で、現在は浄土真宗のお寺です
ご住職の分かり易い説明と共に、写真はいくらでも撮って構わないというお言葉もいただきましたので、皆さん激写していました
ここにも2体の仏像がおられました
十一面観音立像 130㎝
サクラの一木造(頭体全身、なおパンフレットにヒノキとあるのは間違いだそうです)
私も調子に乗って、いろいろな角度から撮らせていただきました
きりっとしたお顔立ちです
手首が割と太めに見えますよね…
臂釧腕釧も彫り出されていて、全体に硬質な彫りに見えます
サクラ材を彫ったためでしょうね
鼻の頭はやや下向きで、唇はやや上向き
反対側からも激写…どちら側の顔がお好みですか?
仏頭 60㎝
こちらはヒノキ材だそうです
もともと胴体があったのかどうかお尋ねしたところ、初めから頭部だけだったのではないかというお答えでした
上の十一面とともに平安中期から末期ごろと考えられるそうです
こちらも鼻の頭は下向きですが、十一面よりも顔のつくりは細やかに彫られているように感じます
制作の事情は分かりませんが、頭部だけでなく体も造られていたらさぞ立派なお像となったと思います
頭の形はやや扁平で、後ろにまわると螺髪はこんな感じ↓
後ろ側の螺髪が少し乱れていて、乱れた線からパカっと開けられそうにも思いますけど気のせいかな?
お堂から外に出たら、きれいな虹🌈が二重に出ていました
根元からくっきり
こんな美しい虹は初めて
この地方、「ナントカおろし」の影響で(木之元おろし?いやちがうか?)
虹の出る頻度が高いそうなんですよ
さて、バスはもと来た道を戻り、最後のお寺に向かいます
❾渡岸寺 (ここで解散)
昨年はコロナ明けで境内はひっそりとしていましたが、
今年は門前市が開かれ賑わっていました
ここだけは、拝観料を払います
別のコースで拝観料を払わずに奥に進んでしまった方々が口々に不満をおっしゃっていましたが、ルールは自分で把握しましょうね
渡岸寺十一面観音像は勿論メインですが、昨年訪れた際に記事にしましたのでそちらを御覧ください
最後に
歴史民族資料館
こちらも昨年訪れましたが、昨年とは異なる展示でした
駅まで徒歩で戻ったところ、また虹🌈が出ていました
先程の虹とは異なり、胸騒ぎのする虹ですねー
昨年の記事(再掲)
参考資料
・各お寺でいただいたパフレット
・別冊みーな2号『湖北の観音さま 北の章/南の章』一般社団法人長浜みーな協会、2020年
・みーな148号『特集 湖北の薬師さま』同上、2022年
・ブックス古寺巡礼14『近江若狭の仏像』JTBパブリッシング、2012年