高月駅に9時半ころに到着
「会員番号398番」を首から下げて、颯爽と徒歩で以下の範囲を回りました↓
具体的に辿ったのは、
高月駅➡❾高月観音堂(大円寺)➡❿浄光寺➡❽渡岸寺➡●高月観音の里歴史民俗資料館➡❼理覚院➡❻円満寺➡❺保延寺観音堂➡❹保延寺阿弥陀堂➡❸雨森観音寺➡❷大師堂(高野神社)
というルートです
以下一つずつ、拝観した仏像について書いてみたいと思いますが、その前に一言この場で、大師堂の受付の方にお水とお茶のお礼を言わせていただきます(届け〜!)
夏日の炎天だったこの日、持っていた水は飲み干してしまい、自販機も見つけられず、熱中症になりそうな状態で❷大師堂に辿り着きました
すると、大師堂の受付の方がご自宅の水道を貸して下さり、それだけでなくご自宅からお茶のペットボトルを出してきて、私に持たせてくださいました
お陰様で、熱中症にもならず無事に帰ることができました
本当にありがとうございました
さてそれでは、本題に入りたいと思います
拝観内容とともに拝観場所を離れた時刻も時々(全部ではない)記録しました
徒歩での距離感がわかると思うので、併せて書いておきますね
1か所目
❾高月観音堂(大円寺)9時53分
上の説明板によれば、腰裳が二段に大きく折り返され膝頭まで垂れ、
全体に煩瑣な衣文だそうです
↓見てみましょう
たしかに、下半身は腰が張っていて、衣文が煩瑣に見えます
この煩瑣な衣文と上半身の19本の脇手は、バランスがとれているように思えますがどうでしょう?
『観音御堂縁起』等によれば、この像は延暦六年(787)伝教大師作とされるようですが、実際は室町時代の作と推定されているようです
戦国時代には、このあたりには数々の戦の主戦場となりましたが、この十一面観音像は兵火を避けるために岩の上に自ら立ったという伝説があり、「火除け観音」と呼ばれ信仰されているそうです
お顔↓
眼力が強いですね
さすが、自分の力で岩の上に立っただけのことはある
その他の仏像たち↓
写真右の地蔵菩薩と不動明王は、江戸時代に本尊の脇立として奉納されたそうです
その途中、「飛び出し坊や」があちこちから飛び出ていました
柿の実に秋を感じる
道しるべが見えてきてほっとする
2つ目
❿浄光寺(とか言いながら、日吉神社から入る)
神社の脇に祠があります
祠の中には、三つの像がいらっしゃいます
真ん中は彩色の十一面観音菩薩立像
向かって右は、薬壺を持つ薬師如来立像
向かって左は、来迎印の阿弥陀如来立像
(真ん中が菩薩で、脇に如来の不思議な構成)
室町時代の制作と考えらえているそうです
3体とも似たような印象的なお顔立ちです
とくに、ヒゲが印象的
お顔を拡大すると
十一面観音立像
白目の白さが鮮やかですが、黒目は小さめ
眼力は、ない
衣に描かれた模様も独特
鮮やかな衣だったんでしょうね
薬師如来立像
やはり白目の白さと黒目の雰囲気が似ています
鼻と口の距離の狭さと口を真一文字に彫るところが、この地域の多くの仏像に共通して見られる特徴のような印象です
唇の赤が可愛らしいです
十一面観音に比べてヒゲがそんなに目立たないのは、肌の色の違いかな
阿弥陀如来立像
顔のかたちや白目の感じ、きゅっと結んだ口の位置までも二体と似てます
衣文の彫りもそっくりです
ついでに、脇侍の台座の形もそっくり
脇の2体の台座には、左右に翼のようなものが出ているように見えますが、これは転倒防止のための後補でしょうか?
いずれにしても、インパクト大のなんともユニークな3体でした
さて、次のお寺に向けて再び歩き始めます
ここにも元気な飛び出し坊や!
滋賀県発祥の飛び出し坊やですが、
高月は、飛び出し坊やの「人口密度」がとても高いように見えました
それにしても、飛び出し坊やって、天気予報の「ヤン坊マー坊」に似てないかい?
…と思って今ググったら、こんな記事を見つけてしまった!↓
飛び出し坊やを見ながら、3つめのお寺に到着
❽向源寺(渡岸寺、どうがんじ、どがんじ)観音堂
10年ぶりくらいの訪問になりました
渡岸寺というのはこのあたりの地名で、お寺は向源寺なんだそうです
↓門の手前にはありがたいお言葉が書いてありました
「仏さまがごらんになれば 無能なものは無能なままで おろかなものはおろかなままで それぞれ光っている」
渡岸寺では、パスポートは使えず拝観料を納めます
まず本堂に入り、平安時代後期といわれる阿弥陀如来像を拝観します(画像なし、小さい像でした)
本堂の左手には収蔵庫(慈雲閣)があり、内部には次の3体の美しい仏像がおられます
一体目は言わずと知れた
国宝十一面観音菩薩像(1.95m)9世紀中頃
ヒノキの一木造(除く 頭上面、化仏、瓔珞)
寺伝では、聖武天皇の命により加賀白山の開山といわれる泰澄が制作したといわれますが、作風からは平安時代初期の作と考えられています
↓後ろ姿
腰をわずかに捻り、官能的です
また、左右の耳の後ろに菩薩面を大きく配し、頭の後ろに暴悪大笑面があるという特徴も有名です
暴悪大笑面
(比べちゃいけないとは思うけど)今まで見て来た仏像と比べると、この十一面観音像の美しさが際立つ感じがしますよね(小声)
2体目
重文大日如来坐像(胎蔵界)(1.4m) 平安時代後期
由来がわかりませんが、平安後期の作だそうで、定朝様といっていいのではないでしょうか
螺髪ではなく髻を結い、法界定印を結ぶ(手が当初かのものかどうかわからないけど)胎蔵界の大日如来です
3体目
阿弥陀如来坐像 1.38m 平安時代後期 県指定文化財
上の大日如来とならんでまるで双子のように座っていらっしゃいました
一見この二像はよく似ているけど、顔の表情はずいぶん違いますねー
どちらも平安後期とお寺のパンフには書いてありますが、大日如来像の方がセクシーな体つきに見えるので、より鎌倉時代に近いのかもと想像します
4つ目に訪れたのはお寺ではありませんが
高月観音の里歴史民俗資料館
二階では、雨森芳州やオコナイに関する展示や朝鮮通信使の特集の展示がありました
一階では、この地域の歴史や泰澄の話等の説明などをしていただきました
すなわち、この地域は古く己高山の山岳信仰の影響を受けて独自の仏教文化を形成してきたこと、なかでも加賀白山の開祖泰澄の影響が大きかったこと、奈良時代には南都仏教の影響を受け、平安時代になると比叡山天台宗からの影響を受けたこと、
観音像を多く伝えるように観音信仰を基調とする独自の文化が花開いたことなど、この地に伝わる信仰の歴史を教えていただきました
そして、中世には寺が弱体化し仏像は民衆により村の守り本尊となったこと、
戦国時代には民衆が仏像を地面に埋めたり、川に沈めたりして守り抜いたことも教えていただきました
まさに、民衆の信仰によってささえられた貴重な文化が、今でもこの地には息づいていると肌で感じました
横山神社の馬頭観音の展示などもありました
↓横山神社 馬頭観音像
と、ここまでは徒歩でも余裕で回れる地域でした
この後、私の気持ちとしては、西野薬師堂(充満寺)とか赤後寺とか黒田観音寺などに行きたかったのです!
しかし、地図で見るとどれも遠い
ここで、歴史資料館の職員の方に相談してみました
その答えは、「徒歩では無理」(実は駅でも同じことを言われていた)
ここでようやく断念しました
お会いしたかった
歴史資料館の方は、理覚院、円満寺方面に行くことを勧めてくださったので、今回はそちらに行くことにしました
この時点で
❾❿❽完了、❼❻❺❹❸を目指す
気を取り直して歩きます
こんな時期に日焼けしそうです
↓途中の田園風景
柏原の交差点 雨森芳州像が見える
芳州国際通りをてくてく歩きます
金色の稲穂、良すぎる天気
井口集落に入りました
5つ目
理覚院
理覚院は井口弾正の菩提寺だそうです
井口弾正は、浅井亮政が六角定頼に包囲され自刃しようとした時、亮政の甲冑を着てその首を定頼に送り、亮政を助けたそうです
また、渡岸寺のところで書いたように、戦火をのがれ土中に埋められていた渡岸寺十一面観音像を掘り起こしたのも、井口弾正だそうです
お寺の入り口では、お地蔵さんが迎えてくれます
聖観音像
詳細不明ですが、小さなお像でした
観音堂には百体観音像が安置されていますが、これは西国・坂東・秩父の各札所霊場の観音を祀るものです
↓こちらは坂東三十三箇所の一番目から四番目
一番目が鎌倉杉本寺の十一面観音、
三番目が鎌倉安養院千手千眼観音
四番目が鎌倉長谷寺の十一面観音
を祀っているそうです
滋賀県で鎌倉ゆかりのものを見てうれしくなって写真を撮った
6つ目
円満寺(日吉神社) 12時16分
鳥居をくぐり、右手の提灯の道を進むと目指すお像に会うことができます
十一面観音立像
例によってこの像の情報がないのですが、
重層的な衣の襞に、なんとなく(あくまでもなんとなく)肥後定慶を彷彿とさせる豊かさと滑らかさを感じます(私の主観的感想)
素木の表面の感じもやっぱり肥後定慶を連想してしまう(私の主観的感想)
↓参考 肥後定慶作 大報恩寺聖観音立像
これぞ他人の空似でしょうが、衣文の流れ方とかとても似ていますよね
さて、この円満寺の十一面観音像、
顔をアップして見るとちょっと面白いです↓
お肌はあくまでもつやつやで(なんの基礎化粧品を使っているのか是非教えてほしい)、これは果たして木彫なのか?素木なのか?と疑問を感じてしまいますが、
鼻筋が通りきりっとした良い表情をしていらっしゃいますね
んで、もっと拡大すると
頂上面(ピンクの矢印)は、ギロリとこちらににらみをきかせていてぎょっとします
また、頭上の十一面(黄色の矢印)は簡易的な鉈彫風で、後補なの?手抜きなの?とこれまた疑問が湧きます(誰か教えて)
十一面のお隣には
地蔵菩薩坐像
別の厨子には
阿弥陀如来立像(こちらが本尊らしい)
7つ目
保延寺観音堂
「保延寺」は、寺の名ではなく地名だそうです
小さなお堂の脇で、町のおじさま数名がパスポートのチェックをなさっていました
千手観音立像
素朴な素木の観音像です
この像は、保延寺村の浅井長政の遠縁にあたる大和氏が大和国長谷寺の観音菩薩の御分体をいただいたものだそうです(にしては、長谷寺の観音と全然似てないな…)
その後は、保延寺村の守護仏として今日に至っているそうです
ちょっと上がり目で、唇の赤が残り、可憐な仏様です
台座が本体と同じくらいの高さなのも面白い
坐像でなく立像で、本体と台座が同じ高さなんてこと、ある?
さて、次はすぐそこ
8つ目
保延寺阿弥陀堂 12時33分
阿弥陀如来像(三体とも)
「己高山延喜」では、最澄自刻の像とされるそうですが、
実際は中尊と右は室町時代、左は江戸期の作とみられるそうです
中尊 阿弥陀の定印を結んでいる坐像です
右 こちらも定印
この2体、衣文も含めてよく似ておられます
左 来迎印
三体とも同じような台座に坐っておられますが、この台座の蓮弁の下の部分の模様が面白い
何が面白いかというと
この模様、紗綾形といって
あの「笑点」の襖の柄と同じなんです
台座の柄と笑点の襖絵の柄が同じなんてこと、ある?
さて次を目指します
目指すはあのうっそうとした森
途中、白山神社の神饌田がありました
9か所目
雨森観音寺 12時47分
いただいたパンフによれば、このお寺は「己高山観音寺」と呼ぶそうで、
「己高山」を山号とする寺院はいずれも行基の開基、泰澄や最澄の再興または中興になるそうです
これに該当する寺は、1381年の本堂造替記録と、1441年4月16日付奈良興福寺官務牒疎に5つ列記されているそう
しかし、この寺自体の建立時期や本尊については不詳とのことです
千手観音立像 明治14年
明治12年1月19日、火災のため本尊は焼失
その後、明治13年2月9日比叡山で三仏堂の十一面千手観音像、脇立の毘沙門天、不動明王の3像を勧請し、16日にこの地に迎えたそうです
明治14年4月3日、本堂落慶
比叡山から阿闍梨を迎え、盛大に法会が行われた記録が現存するそうです
脇立ちの毘沙門天と不動明王がいらっしゃったかどうか不明です
(私のiPhoneには画像が残っていません)
私のiPhoneに残る像のうち、
本尊の隣にいた二つのお像は、いかにもこの地域のお像という顔をしていらっしゃいました
伝弁財天
弁財天といえば、江ノ島の弁財天のような妖艶な感じを連想してしまいますが、
こちらは可愛らしいお顔をしています
こちらは、
薬師如来坐像
薬壺を持っています
↓お顔
ここで時間はまだ午後一時前です
この先、進むとしたら❷の大師堂しかありません
大師堂は橋を渡り、集落の坂を上った一番奥
大師堂には良源・元三大師像(伝伝教大師像)が祀られていて、お会いしたかった(変態)ので先に進むことにしました
しかし、ここでペットボトルの水を飲み干してしまった!
まず橋を渡る
↓橋を渡り集落に入る
望遠で撮っていますが、長い長い登り坂でした
ようやく到着
10か所目
満願寺 13時17分
薬師堂
ここで水道がないかどうかを白い服の人に尋ねました
すると、この方の家の裏手の水道に案内され、空のペットボトルに水を入れさせてもらいました
拝観後には、自宅から持ってきたお茶のペットボトルも私にくださいました
灼熱の地獄にお地蔵様現る!って感じでした
ありがとうございました
隣にある、大師堂で良源・元三大師像(伝伝教大師像)を拝観しました
↓大師堂
重文伝伝教大師像(良源・元三大師像) 弘安6年(1283)院信作
良源は、滋賀県長浜市虎姫の出身で、比叡山に上り天台座主となりました
比叡山の中興を行い、横川には住居跡四季講堂があります
おみくじの創始者で、角大師の護符(ばいきんまんみたいなやつ)でも有名
大師堂脇の石仏たち
今回、私の「観音の里ふるさとまつり」は天気と自分の体力を考えて、ここで終わりにしました
でもね、
ここから、もと来た道をそのまま歩いて戻らねばならぬのですよ
だったら赤後寺くらい寄れるんじゃない?という悪魔のささやきが空耳のように聞こえ続けましたが、他にも行けなかったお寺もあるし、
次の機会に回すことに決めました
で、大師堂を出たのが13時17分
そこから、たらたら歩いて大月駅まで戻っていたのですが、
ふと新快速の本数が少ないことに気づき、歩きながら時刻表を調べてみました
すると、14時19分高月駅発の新快速に乗らないと、次の電車はその一時間後!ということが判明してしまいました
本数が絶望的に少ないのです
そこで、グーグルマップで高月駅までの徒歩での到着時間検索すると、ギリギリ間に合わない!という結果が出続けました
行きはよいよいでしたが
帰りは(疲れて走れないので)速足で歩き、
渡岸寺あたりで「もうアウトか!?」っていうところのグーグルマップのスクショがこれ↓
14時11分のスクショです
電車まで残り8分しかない時間です
それなのに、駅まで15分もかかると予想するグーグルさん
(青い〇が私の現在地、赤いしるしが高月駅)
でもね、この道案内、意地悪又は不正確だと思いませんか?
遠回りを2種類も提示している
実際には、青丸から赤いしるしの高月駅へ直線状に歩き、
15分どころか、3,4分で駅に到着しました
新快速には余裕で乗ることが出来ました(車内激混みが予想外だったけど)
今回は、周遊バスの予約もできず、レンタサイクルも借りられないという失敗をしてしまいましたが、
次回は是非レンタサイクルで、リベンジを果たしたいと思います