鎌倉歴史散策と「鎌倉殿の13人」ラッピングタクシー | 奈良大好き主婦日記☕

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鎌倉在住
奈良や仏像が好きで子育て終了と共に学び直し大学院博士課程修了、研究員になりました。
テーマは平安後期仏教美術。

明日香村、山の辺の道等万葉集の故地が好きです。
ライブドアにも書いていました(はなこの仏像大好きブログ)http://naranouchi.blog.jp


鎌倉にも春の気配が、スギ花粉とともにやってきました(やめて)

それに合わせたかのように(?)、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の舞台も、先週、鎌倉に入りしましたね
…にしても、「鎌倉殿の13人」は今のところ「大泉洋のコント」に見えることがよくあって、薄ら笑いを堪えきれずに見ています笑い泣き
皆さんはいかがですか?

ブルー音符むらさき音符ピンク音符


最近、友人と週1.2回くらいのペースで、鎌倉の山路をゴソゴソと歩く「朝活」をしています
頼朝のせいで大きな道が少なくて、曲がりくねった小道の多い鎌倉は、子どもの頃から住んでいる私でも知らない道が沢山あって、際限のないプチ探検が日々繰り広げられています

今回は、大河ドラマと梅の花を念頭に置きながら、ゆるい朝活を行った最近の行動記録です



 亀ケ谷切り通し

ここは、先週の大河ドラマの最後のコーナーで紹介されていましたが、旧鎌倉市内と外部を結ぶ「鎌倉七口、かまくらななくち」といわれる7つの切り通しの1つです

往時は甲冑を纏った武士が駆け上がったであろう幅の狭い急な坂道は、現在の私たちも散歩で多用する便利な抜け道です


亀ケ谷坂を、北鎌倉側から上り、鎌倉駅方面に向けて進みます

以前にも何回かブログで書いていますが、この亀ケ谷切り通しのてっぺんから鎌倉側をナワバリとすると思われるウグイスは、代々「音痴」であると私は思っています


その内容は↓以前、こちらに書きました

https://ameblo.jp/naranouchi/entry-12589738764.html



 ​岩船地蔵堂〜大姫の悲劇

亀ケ谷坂を下り切った突き当たりに、大姫を祀る岩船地蔵堂があります


大姫について↓

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/大姫_(源頼朝の娘)



大姫は言うまでもなく頼朝政子の娘です

父頼朝が挙兵したのは、大姫が3歳の時


その頃、頼朝は従兄弟である木曽義仲と対立していたため、義仲の子清水義高を人質として鎌倉に置きました

その義高と大姫を許婚とすることで和議を結んだのでした

しかしその後、義仲と頼朝は決裂し、義仲は頼朝の軍により敗死してしまいました


そこで、頼朝は大姫と義高の仲を裂き、義高を殺害することにしました(ひどい親)

それを知った大姫は、義高を女装唇させ逃がしますが、逃げおおせるわけもなく義高は追手に殺されてしまいました

大姫はショックのあまり(といっても7歳だったというのだから、随分大人な感覚だったのか)、寝ついてしまったらしい



・大姫と義高を祀る墓・

↓鎌倉市大船地区の常楽寺裏山にある伝大姫墓と義高墓の写真です(別の日の朝活で撮影)

こちらは大姫の墓と伝わる


その近くにある義高の墓(木曽清水冠者義高と文字が彫ってある


義高亡きあと病気がちな大姫には、何回か縁談が持ち込まれたようです(ひどい親←2回目)


何回かの縁談のあと、頼朝と政子は大姫を伴い奈良東大寺に行きました

表向きの目的は東大寺再建供養のため(ほら、平重衡に燃やされちゃったから)でしたが、実はこの時大姫を後鳥羽天皇に入内させようと画策したいたそうです(ひどい親←3回目)

頼朝は元々京都の出身で、東国ではその血筋の良さがウリだったけど、結局、彼も平家と同じように天皇と血縁関係を持ちたかったんでしょうかね?(ひどい親←4回目)


大姫は二十歳で若くして亡くなったそうです

彼女の人生の大半は、義高への想いで埋め尽くされたのでしょうか


大姫を祀る岩船地蔵堂の内部のお地蔵さま↓

優しい表情です



 ​海蔵寺の花と仏像

岩船地蔵堂から横須賀線のガードを潜り、

海蔵寺に来ました

ここも私のブログで何度も取り上げたお寺です


お寺の歴史的なことは、下のリンクに丸投げします(出た)

https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/kids/jh/kjh_ka01.html



海蔵寺の入り口には、底抜けの井(鎌倉十井)

底抜けの井ということばを見ると「底抜け脱線ゲーム」を思い出す(独り言なので無視してください)


秋には萩が主役のお寺の入り口も、春の主役は馬酔木の花

この可憐な花を見ると毎度ながら奈良に行きたくなる…


海蔵寺は鎌倉らしい、こじんまりしたお寺です


梅が咲き始めていました


福寿草もおひさまに向けて背を伸ばす



周りの木が成長し、若干、木の海に溺れそうになっている石仏



本尊薬師如来三尊像



この薬師如来は「腹を割って」語り合えるんです

(かまくら春秋社『鎌倉の寺』)


この腹部分の開帳は61年に一度、前回は平成9年です

とすると、次の御開帳でお腹の中を拝むのはちょっと無理かな?(無理でしょ)



お天気が良かったので、薬師三尊像以外の像もよく見えました

薬師如来の脇には十二神将



左右の壁側にいるのは、伽藍神?地獄の関係者?




柱の影にひっそりと、寂しそうなお坊さん(誰?)




海蔵寺を出て、横須賀線に沿って鎌倉駅方向に歩くと、十六夜日記の阿仏尼の墓があります



 ​英勝寺

そのまま歩いて、英勝寺(尼寺)に着きました


お寺の受付を入ると、庫裡の玄関にある涅槃図を見ることができました↓



ちょっとした竹林を通り


仏殿に向かいます


現在の拝観順序が、本来の伽藍配置の裏側から入る形になっているので、仏殿には回り込んで正面から拝観します


仏殿(県重文)の正面



庇の下の蟇股には干支が12面、彫られています

そのうちの一つ、馬だったかな…↓



扉の小窓を開けると内部を見ることができます

天井の絵は、天蓋上が龍、左右に飛天、その奥は…何だったかな?(忘れたんかい)


そして仏像は、徳川家光寄進の阿弥陀三尊像

これが運慶作というのですが…


お顔のアップをしてみます 

どうなの?運慶風のお顔でしょうか?


仏殿正面の左右の扉にはセミをかたどった金具が取り付けられています




セミだけでなく、その他の細やかな意匠もさすが尼寺




仏殿の脇にはこんな石仏が二体ありました




受付付近にも石仏



春が進んで、いろいろな花が咲くのが楽しみなお寺でした


 ​寿福寺〜北条政子と実朝の墓

最後に寿福寺に寄りました

大河ドラマでは、この辺りも亀ケ谷と呼んでいましたね

幕府を亀ケ谷の地に開くという提案に対して、

大泉頼朝が「亀ケ谷は狭い!」と言っていましたが、あの発言は吾妻鏡か何かの記載に基づいているのでしょうか?

現在の感覚では、むしろ扇が谷(おうぎがやつ)のほうがしっくりきます


いずれにしても、寿福寺のあるこのあたりは、頼朝の父義朝の屋敷のあった場所でしたが、山が迫り狭いのです


寿福寺の石畳↓

この先に本堂があります


こちらが本堂↓

背後に源氏山…幕府の敷地にするには狭い!


寿福寺が狭いことについて、過去にも少し軽く書いてます↓

https://ameblo.jp/naranouchi/entry-12334087019.html


頼朝は結局この地に幕府を置かず、鶴岡八幡宮の向こう側、大倉の地に幕府を置きました

私の通った中学は、大倉幕府の西側の西御門(にしみかど)にあり、社会科実習室には出土品が飾ってありました



寿福寺の話に話を戻します

寿福寺は栄西を開山として、1200年に建立されたそうです

頼朝は落馬が原因で1199年に没したので、その翌年ですね


その寿福寺の本堂の背後には墓地が広がっていますが、ここに北条政子と実朝の墓があります


北条政子の墓


拡大


実朝の墓



数十年前、この北条政子の墓あたりに怪しいおじいさんがいつもいました(実話です)

そのおじいさんは、うまいことを言って、鎌倉の地図を人々に売りつけていました


若かった私は、おじいさんの言葉にころっと騙されて、その地図を買ってしまいました


そのおじいさんのせいか、今でも北条政子の墓のまわりには、もの売り禁止の看板が立っています


罰当たりの怪しいおじいさんは、その後、極楽にいけたのでしょうかね?




 ラッピングタクシー🚕の話

市内で大河ドラマのラッピングタクシーが走っています

気づいてもスーッと行ってしまうので、カメラに収めるのがとても難しい!


これまでに、私が必死に捕まえたラッピングタクシーの画像コレクションをお届けします!

(構図下手くそなのは許して🙏)


北条義時✖️三浦義澄


北条義時✖️大江広元


北条義時✖️八田知家


北条義時✖️三浦義澄(2回目)


北条義時✖️和田義盛


北条義時✖️梶原景時


北条義時✖️北条義時



えーっと、13人コンプリートまであと何人かな?