先日、トーハクで開催中の「最澄と天台宗のすべて」に行ったことに ちなんだ記事を書いたのですが(展覧会の内容を書いたわけではなかったんだけど)、
トーハクではひとつ「失敗」したことがありました
それは、真正極楽寺(真如堂)阿弥陀如来像が、実物ではなく画像による展示だったということです
ちゃんと調べればよいものを、ほかの外出の用事と抱き合わせてチケット予約をとっていたため、やらかしました
(現在は画像ではなく実物がいらっしゃっています…展示は11月3日までです)
そこで、実物にお会いするべく、数日後に再度トーハクに行ってきました
当日券の有無はツイッターで検索できるため、それを確かめての再チャレンジです
そこで初めて、真如堂阿弥陀如来像を拝観し、その穏やかな表情に感動し、同時に驚いた
こともあったため、両方の点について、書きたいと思います
真正極楽寺(真如堂)阿弥陀如来像
(上2枚、図録から)
お顔はまるっとして、穏やかで、ちょっと可憐な感じで
いかにも和様化の進んだ表情だと思いました
金箔も良く残っています
10世紀末の制作で、時代的にも、ちょうど良い感じ
このお像の制作年代は正暦三年(992)で、定朝のお父さん兼お師匠さん康尚の活躍期に当たります
ということは、「仏像の和様化」が本格的に展開する時期です
だから当然、お顔の印象は和様化を実感できる穏やかさでした
実際、このお像の顔面に関しては
井上一稔氏が、「柔和な印象を受け」、その「来る所は、小さめの頭部とわずかに笑みを感じさせる表情」などにあるとしておられます
それは「和様化の進む時代のなかで生み出されたものであり」、「その傾向の作品のなかで最も優美で可憐な表情をあらわし得た像」であるとも評価しています
清水善三氏は、「観るものに親近感を与えるおだやかな微笑をうかべる」像で、「相好(そうごう)における可憐さ」があると評価しています
(両氏とも可愛いと言っておられるのだ)
また、清水氏は、真如堂像が同時期の永祚元年(989)頃制作の遍照寺十一面観音像や長徳~長保(995~1003)制作の平等寺薬師如来像(因幡薬師)とともに、「新しい彫刻の独自性を求めて成立」した様式であるとしています
つまり、真如堂像の制作された時期は、和様化が「進展」した時期であるということです
また、井上正氏は、前述の遍照寺像について、「沈滞から抜け」「和様化の過程における最初の積極性として、おおきな飛躍」があるとし、遍照寺像を以て和様化の「飛躍」をみています
井上氏だけでなく、西川新次氏、伊東史郎氏なども遍照寺像に和様化の積極的な評価を与えています
真如堂阿弥陀如来像は遍照寺像とほぼ同時期の制作であり、少なくともお顔の表現については和様化の進展した像であると、実際にお像を拝して思いました
(これらの像に続く、東福寺同聚院不動明王像(寛弘三年、1006)は、康尚の制作であることが確定した像で和様化はさらにバージョンアップし、やがて息子であり弟子である定朝の天喜元年(1053)平等院鳳凰堂阿弥陀如来像により和様化が完成するという流れになります)
989年 遍照寺十一面観音像
↑井上正氏は、この像を以て、和様化の「飛躍」があるという
丸味を帯びた顔で、穏やかな表情で、じつに可憐ですね
995年頃 平等寺薬師如来像(因幡薬師)
こちらも丸いお顔で穏やかな表情
2019年には、龍谷ミュージアムにちょっと出張なさっていましたよ
1006年 康尚作 同聚院不動明王像
東福寺同聚院にいらっしゃる不動明王
もと、藤原道長創建の法性寺五大堂に安置された五大明王の中尊
和様化が進展し、穏やかな表情(なので不動明王なのに怖くない)
とーこーろーがー ぎっちょんちょん…
私はとても驚きました
そして、ここがトーハクであることを感謝しました
なぜなら、お寺で拝観したら薄暗かったりして、よくわからなかったんじゃないかと思ったからです
何に驚いたか…というと、
「お顔と胴体の雰囲気の不一致」です
(いや、べつに、迦陵頻伽とか、ケンタウルスとかそういうことではないんですよ)
なんというか、頭は若いのに、体は年寄り…いや違うな
要するに(はよ言え)、
「頭部の醸し出す時代観」と「体部の醸し出す時代観」に一世紀くらい差があるように見えたということです
これ、画像では伝わりにくいんじゃないかと危惧するのですが、
体部を拡大すると、こんな感じです↓
まず、衣の彫りがですね、深ーいんですよ
襞の一枚一枚が深く彫り込んである
それはもう、
「きみ、平安前期なんじゃないの?」
って聞きたくなるくらいなのよ…
聞かれた阿弥陀さんも
「ばれた?(てへぺろ)」
って答えるんじゃないかというくらい、
彫りが深いのだ…
和様化の仏像の特徴は、「浅い彫り」なんですね
だから、これとても不自然なんですよ(と私は思った)
それに、腿なんて、ぱっつんぱっつんに張りがあるわけ…
元興寺薬師とかそんな感じ
しかも、どこか粗削り
顔は完璧に平安後期の穏やかな和様化の表情をしながら
体だけ一世紀遡る!なーぜーだー?
この阿弥陀さん、実は挿し首なんじゃないかと思ってあっちからもこっちからも見てしまいました
(実際に、以前、奈良の額安寺のお像で同じようなちぐはぐ感を覚えた記憶があって、
それに近い印象でした←あの時は挿し首でした)
でも、このお像は一木造なんですよね
おかしいじゃん!?
「きみさぁ、やっぱり平安前期なんじゃないの?今正直に言ったら、秘密にしてあげるから、さっさと言っちゃいなよ」
とか言いたくなるし、それでも言わないなら、カツ丼用意して取り調べたくなるくらい(何の話だ?)
そこで図録の解説をみるとこう書いてある
「本像の着衣の表現などには、本像よりも一世紀以上遡る平安時代前期の彫像の表現が採用されている。このことは、本像の造像に古像が参照されたことを強く示唆するものであり、その古像とは、延暦寺根本中堂の本尊、最澄自刻と伝えられる薬師如来立像である可能性があるように思われる。」
うーーん、やっぱり、頭と体で一世紀ちがうよね
図録にもちゃんと書いてある
顔は平安時代後期なのに、体は平安時代前期だよね
・では、どうして体部が古様なのか?
これに関しては、先にあげた井上一稔氏も、模範となった「原像」の存在を推定されています
そして、この原像が9世紀の古様を伝えていること、それは、この像が円仁制作の像であるという伝承と関連していることを示唆しています(最澄自刻像とは書いてないんだよなあ)
つまり、真如堂像が9世紀の円仁制作という伝承があるため、「円仁時代の阿弥陀如来像を意識させる表現がなされている」ということになると読み取れます(ミスリードしてたらご指摘ください)
そのため、体部が古様になったということになるのかと読み取れます
(なんで体だけ真似したの?って疑問が湧くけど…?)
・では、円仁制作の伝承って何?
『真如堂縁起』を辿ると、次のようなお話が巻上、中段にわたり描かれているそうです
円仁が、唐へ渡る以前、苗鹿明神から毎夜光る柏木二材を賜りました
その内の一片で、円仁は三尺三寸九品来迎印の阿弥陀立像を制作しました(もう一片は日吉社念仏堂の阿弥陀坐像になりました)
これは鞘仏(内部に納入品のある仏像、真如堂阿弥陀のこと)です
円仁は唐へわたり、承和14年(847)に帰朝する海の上で引声念仏(歌う念仏)を思い出すために焼香礼拝して祈祷していたところ、船の帆の上に小さな阿弥陀如来が影現しました(このシーンの『縁起」の絵がトーハクでは展示されていましたが、図録に収録されていないのが残念!)
円仁はその小像を袈裟にとって、帰朝しました
円仁がかつて彫った三尺三寸の阿弥陀立像(=真如堂阿弥陀)のお腹の中に、船の帆の上に現れた阿弥陀像を納入し、比叡山東塔の常行堂に安置しました
めでたし、めでたし
『真如堂縁起』阿弥陀を彫る円仁(なんか可愛い絵だね)
(図録から)
縁起の話は続きます
この阿弥陀像は、女人救済の本願を持ちました
永観二年(984)に戒算上人という人の夢に老僧となって出現し
比叡山東塔常行堂から雲母坂の地蔵堂に移されました
正暦3年(992)、阿弥陀像は今度は東三条院の夢に出現しました
そこで、女院の離宮のあった現在の真如堂に瑠璃壇を設置させて、正暦5年に遷座しました
(もう一回、めでたしめでたし)
この『真如堂縁起』の伝える正暦三年(992)がこの像の制作年代とされているのです
…でもちょっと待ってね
前にも書いたけど
実際の真如堂像は一木造です
だから鞘仏ではないし、胎内に小仏像が入るわけないんですよね
この点について、中野玄三氏は
『真如堂縁起』の構想が、
「比叡山根本中堂に最澄自刻の薬師像とともに安置されていた像高各二尺の七仏薬師七体の像内に、唐の玄法寺の法全(はっせん)が造立した三寸の七仏薬師像を収めていたことに習ったのだろう」と指摘しています
(構想が、ということで、実際に内部に収めていたわけではないわけ)
このように、胎内に「小薬師像を収める伝統」は、「天台宗もしくは藤原貴族の造立する薬師像」に根強く生きており、『真如堂縁起』を成立させたということになるそうです
実際に、胎内に小薬師像を収める伝統の実例として、
前回のブログの記事で紹介した、法界寺の薬師如来像を挙げることができます
この像はまさに鞘仏として胎内に最澄自刻の三寸薬師如来像を収めたんだそうです(現在胎内にある像は違うものだそうですが)
法界寺薬師如来像(胎内に最澄自刻の三寸薬師を収めたとされる)
ちょっと、話が散らかりましたがまとめると
①『真如堂縁起』が伝える真如堂阿弥陀如来像は、円仁が霊木から彫った像である
②その中には、円仁が唐から帰朝する海上で得た小さな阿弥陀像が入っている
(実際は、一木造だから無理)
③内部に小像が入っているという(つくり)話は、比叡山根本中堂の最澄自刻薬師像とともに安置されていた七仏薬師像の話の影響をうけて成立した
…てな感じにまとまるでしょうかね
・でも(まだ不満がるのか?)
比叡山根本中堂や、法界寺薬師の話は、
薬師像(胎内仏) in 薬師像(鞘仏)じゃない?
これに対して、
『真如堂縁起』の話は、阿弥陀像(胎内仏) in 阿弥陀像(鞘仏)じゃない?
これ、パラレルワールドみたいで、なんか変じゃない?(答えを知っている方教えてください)
・それに、鞘仏の話はわかったとしても、
だからって、顔と体の表現に一世紀の違いがあることはどう説明するわけ?
手本とした像が9世紀の古い像だから、体だけは古いスタイルをまねたけど、
顔は10世紀後半の最新の流行にしちゃったわ
っていうことでしょうかね?
一木造だから、頭と体が別ものであるという説明はできないし、
まさか、体だけ彫って一世紀くらいほったらかしにして(私の鎌倉彫みたいだ)、次の世紀に顔を彫りました…なんてこともないだろうし
ますます、わからなくなってきた(こちらも答えを知っている方、教えてください)
いずれにしても、
遍照寺十一面観音像
真如堂阿弥陀如来像
因幡薬師
この3体は、和様化が一気に進んだ時期の天台系の仏像で
どれも丸いお顔がチャーミングなので
チャンスがあったら是非お会いになってくださいね
(真如堂阿弥陀は11月3日までの展示です
その他のお像は、チャンスを待ってね)
参考文献・図書
井上一稔「真正極楽寺(真如堂)阿弥陀如来立像をめぐって」『美術フォーラム21』、2007
清水善三「和様の形成」『平安彫刻史の研究』、中央公論美術出版、1996
井上正「遍照寺の彫刻と康尚時代」『国華』846、1962
西川新次「藤原彫刻の表現」『原色日本の美術』6、小学館、1969
伊東史郎「平安時代の彫刻史-唐風の消長-」『平安時代彫刻史の研究』、2000
中野玄三「密教阿弥陀像から浄土教阿弥陀像へ」『日本仏教美術史研究』、思文閣出版、1984
『伝教大師1200年大遠忌記念特別展 最澄と天台宗のすべて』、東京国立博物館等、2021