学生時代に重宝した青春18きっぷ!
1日JR乗り放題で2370円の激安。

昔は5枚つづりでバラして使えた(というか金券ショップでバラで売っていた)ので、例えば2枚だけ買って、実家への往復を5000円弱で済ませるということができた(普通に新幹線とか飛行機だとウン万円)。
1996年ごろ今の一枚に5日ぶんが集約された形になっています。

さて、今夏、秋田へ行こうとしていた私は、「関空-仙台をpeachで、仙台-秋田を高速バスにすれば、片道うまくすると1万円ちょいでいけるだろう」と考えてpeachのホームページで検索......「2万円超?片道?」
リムジンバスと高速バスを加えると片道3万円に迫る勢い.....

「そうだ青春18きっぷがあるじゃないか! (ちょっと遠い目)」

で、時刻表片手にJR鈍行(懐かしい響き!)の旅のはじまりはじまり〜

まずは6:22JR奈良駅発の普通列車で京都へ!

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ちょうど一年前のFacebook の投稿から。アクティブ・ラーニングについての私の考えです。

ps:FBとかではあまり気にしてないので一年前の投稿では「アクティブラーニング」と書いてます。中黒いるわけですが面倒なのでそのままで〜す 笑


マイクロ(個人)が取り引き相手になる。

ちょっとズレるし誤解を生むかもしれないけれど、私がFacebook での繋がりで感じていることと似ている。
Facebook では、個人にコミットして実際に会いに行ったり会いに来ていただいたり、研究会やオフ会を開いたり、直接対面でもfb上でも繋がりのネットワークが増えていく。
すると、私個人では知り得なかったことや、出会いに遭遇できる。そこから新たな動き(価値)が生まれる(生まれないこともある)。
このことが、ここほんの数年で出来るようになった。fb以外でも、skype in theクラスルームとか、世界中と繋がることができる。
課題なのは、繋がるというアクティビティではなく、繋がりが何をもたらすのかというアウトカムであり、他者にどう貢献できるのかという利他性だと思う。
私の父は、息子から見ても、宴会や食事などで、同席した人たちを楽しませ心地よく話をさせることができる名人だ。しかも媚びたりすることもない。何度も真似しようとしたけどできない名人芸。
だから父はいろんな人たちとの繋がりを持っていた。
父が利他性を意識していたかはわからないけれど、明らかに父がいる「場」は同席の人たちのパフォーマンスを向上させた。
今、アクティブラーニングと言われているが、何がその場のいる人たちを「アクティブ」にさせるのか?どんな学びをデザインするのか?そして、従来は教員の手にあって絶対に手放そうとしなかった「学びの枠組み」を開放すること、教員が構築した「学び方」を学習者も共有して、「学び方」を作ることができるようにし、さらには、ともにより良いものに作り替えること、そんな運動体に学びの場が変容することが、面白いと思う。
生徒の皆さんが、学びの受容者であり消費者である立場を超えて、学びを創る側へとパラダイムシフトした時に、ディープなアクティブラーニングがはじめて生まれる。「創ること」は鋭く自他を問うことであり、しかも「面白い」。
時代も「創ること」を態度や能力として求めている。「さまざまな知や人」が時系列でも水平にも複雑に繋がる社会へと出るための準備の場である初中等の学校が、受容と消費(しかも必ずしも優良なコンテンツばかりが与えられる訳ではない)の場に終始するのならば、生徒の皆さんに有益とは言えない。

今、本校の中3はスキー行事(修学旅行のようなもの)へ向けて実行委員の皆さんが企画.調整.実施に苦心している。それは小さいながら創造の場であり、自己が鋭く問われる活動でもある。そして誰がどんなふるまいや役割(ほんのちょっとしたノンバーバルコミュニケーションであることもある)をしたかによって、その場のアクティブさが変わる。変わるというか、生じる。
  では、教員のわれわれはどう関わるのか?問いがこちらに返ってくる。当然、「こういうことはクリアしてほしい」というラインはクリアできるように助力するが、まぁ大抵は任せておいてもクリアしてくれる。じゃぁさらにどうするのか?一生懸命考えるしかない。そして教員の「学びの枠組み」を超える状況が生まれる。
 これを、普段の授業でも目論むのが、自分なりの面白い学びの場デザインです。
「できない理由を教える/押しつける大人」に教員は最もなってはいけない立場にある。
じつは新学力観(21世紀型学力)の根幹を成す(そして教員への評価の新たな根幹となる)キーコンピテンシーは、「できない理由を教える/押しつける」から最も遠くにある評価のあり方だ。
コンピテンシーを日本語でうまく表現するのは語学力からも専門知識からも私には困難だが、間違いを恐れずに簡略にいえば、「優れていると認められる人たちに備わっている行動特性」のことだ。
アメリカでは人事評価に一般的に用いられているらしいが、教育でそのようには使われないだろう。コンピテンシーを育成・涵養することが目的であるからだし、コンピテンシーを発揮する場面が教科教育の中には(知識構成型ジグソー法などの考え方や学び方を他者との対話を通じて学ぶような教育方法を除く)ないからだ。特に高校では部活や行事などの特別活動以外にコンピテンシーを育成・涵養する場は無い。
私は、コンピテンシー育成・涵養には(従来型の教科教育でも)、必ず自分のマインドセットや教員を当然含む他者のマインドセットをメタ認知する態度とスキルの訓練が組み合わせられている必要があると考えて、実践している。
メタ認知する態度とスキルがなければ、自分がどんな考え方や捉え方のスキームに囲まれているのかすらわからない。それではどんなに優れた技術や知識を持っていても、他者(考え方や捉え方を含む)の「奴隷」となってしまう結果となるし、社会やコミュニティをより良く継続させていくこともできない。
それはすなわち、教育が目の前の個人に対しても社会に対しても意味を持たないことに他ならない。https://www.facebook.com/tsutomu.uematsu/posts/1101466006598782