グローバルシェイパーズというコミュニティーがあります。






 グローバルシェイパーズは、「世界経済フォーラム(通称ダボス会議)のイニシアチブのひとつで、優れた潜在能力、また実績を持ち、社会に貢献する強い意思を持つ33歳以下のメンバー」です。
 
 勤務校の中学3年生対象のキャリア教育プログラムに6名に方においでいただき、それぞれの人生観や仕事観、展望などを語っていただきました。

 「自分は何を考え、どう行動しているのか」について、「すでに成し遂げたこと」ではなく「いま考えていること、取り組んでいること」や「中高生時代のエピソード」を若い尖った(失礼ですが)方々に語っていただくことは、たいへんよい刺激となったと見ていて感じましたし、事後アンケート結果もその通りでした。

 先日、今年度のグローバルシェイパーズ出張授業報告会に出席して、本校での取り組みを報告しました。
 けっこうざっくばらんな会だと勝手に判断したので、「仕事にかかわるキャリア教育を教員の発想と能力のみで作って実施することの無意味さ、あるいは危うさ」と、「だからこそ私が作ったキャリア教育プログラムをグローバルシェイパーズのみなさんの語りと存在が相対化し壊し、生徒たちが再構成してほしいと考えていた」ことを話しちゃいました。
 シェイパーズのみなさまにはおおむね好意的にお受け止めていただけたことが、うれしくもありまた、もっとおもろいことができそうだ!と前向きにもなれた会でした。

 なぜ教員の発想でのキャリア教育に危うさを感じるのか?
 それが、「知識習得型」「生徒個人の適性判断型」といった手法を用いて、教員の知識と経験でスキームが作られて、そのスキームの中で完結するように作られている場合に「危うい」と考えます。
 「知識習得型」はたとえば業種研究などですが、目の前に会社説明会などにエントリーしなければならないリミットが迫っていたりしなければ本気で生徒は取り組むのか疑問です。そもそも、「知識の習得」は「習得した知識の活用場面」があるからこそ、そしてその活用場面で知識が活用できるぐらいのスパンが展望されるからこそなされるはずです。そうでないものに「教養」がありますが、「知識習得型」のキャリア教育の「知識」に教養に足るものがあるとは思えません。
 「適性判断型」ですが、自分自身適性検査で現在の職業に適性があると判断されないんですけど (笑) わたしの乏しい経験だけでもその仕事をしているうちに「面白い、楽しい」と感じたり、まったく想定していなかったことや新たな仕事に出会ったり、つくったり・・・というように、「今の私」との適性判断は参考資料程度にはなるにせよ、判断基準とはなりえないと思います。
 仕事との相性よりは、同僚や上司、顧客などの「人との関係性」の方が仕事をする上でのモチベーション向上ややりがいに結びつくと思いますし。
 その意味でも、「どんな人が、どんな思いで、どんな仕事をしていて、その過程でどう感じてきたのか」に触れること―しかも説明ではなく「語り」で―がよいと思うのです。
 仕事をすることは、「あたえられたタスクを上質で効率よく成し遂げ続ける」という、これまでの日本を支えてきたことスキルや態度も大切と思いますし、それは日本人の良さとも思います。ですが、これまでも仕事でおもしろいことや新たなこと、社会へ貢献をしてきた方々は、上記のことはしつつ、従来の仕事を改良したり、あらたな枠組みや価値を創ったりしてきました。しかもそれは多くの場合「協同して」なされてきました。
 ならば、中学や高校でのキャリア教育もまた、従来の取り組みの良いところは取り入れつつも、従来の(そのプログラムを作った教員の)枠組みを改良したり、作り変えたりされ続けるものでなければいけないと考えます。それは、当該の教員だけではできません。グローバルシェイパーズのみなさまのような方々が参画されることで起きると思います。
 そしてなによりも、当事者である「生徒のみなさん」が、お客さんとしてコンテンツ消費する存在にしてしまうキャリア教育ではなく、生徒の皆さんがキャリア教育のスキームを相対化し、最適化し続けるような目論見と仕掛けが必要不可欠だと思います。だって、当事者だから。(というわたしの目論見も看破してほしいな ニコニコ
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ちょっと前、いよいよ寒くなってきた頃、カーペットをあったかいのに変えました。

「あんまり汚れとか目立たない柄で、掃除機かけやすいのがいいよね」とか言いながら選んだこれ。

敷いたらさっそく犬が来てくつろぐ。

ちょい目を離して、「あれ?犬は?」って一瞬探すほどの保護色! 笑

犬は幸せそうですが、時々、見失う (^_^;)

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お久しぶりの更新です。

 ここ数年、ICT活用や21世紀型スキル、アクティブラーニング、ディープ・アクティブラーニングなどの新たなツール、方法、理念を自分自身の教育活動に取り入れてきました。

 自分自身、ICT機器やツールでこれまでできなかったことができるようになったり、これまで知りあえなかった人たちと知り合いになったり、なによりも生徒たちが熱心に取り組んできくれたり、これまで向上できなかった態度や能力が向上できるようになったりしていることに、すごく楽しい思いでいっぱいです!

 ですが、その中で、しだいに不安感が膨らんできました。

 不安というのは、たとえば・・・こんな「イノベーター」がいたとして・・・


 学校で「イノベーター人材育成!」を目標に掲げたときに、下に書いたみたいにカリキュラムがデザインされ、そのもとに学習活動がデザインされていくわけです。

 1、「イノベーター」(育成すべき人物像)の定義
 2、その人物像をどんな学習方法や学習コンテンツ(国語とか数学とかの授業の組み合わせをイメージするとわかりやすいかも)を組み合わせると育成が可能になるのか計画する(これがカリキュラムデザイン ざっくりですが)
 3、育成がどう「できているのか」図るための評価基準と評価方法を考える(ルーブリックの作成)
 4、ルーブリックで評価する
 5、その評価を生徒個人にフィードバック、教師や教科、学校全体でも評価からカリキュラムや学習活動デザインがうまく機能しているのかどうか把握
 6、うまくいっていればOK,行ってないところは改善(PDCAサイクル)

 それで、わたしの不安というのは、こんな感じで「イノベーター育成できましたっ!」ってちょっと胡散臭いという感じ。
 
 「この方法で、こうやったらイノベーター育成できます!」「イノベーターってこういう人です!」「きみはそういう人になれた、だからイノベーターバッジあげるね!」「イノベーターを育成できた先生にも、イノベーターコーチバッジあげるね!」

 ね、胡散臭いでしょ。(うちの学校でこれをやっているわけではありません)


 ICT活用や21世紀型スキル、アクティブラーニング、ディープ・アクティブラーニングに関しても、同様の心配や不安を感じています。
 「ICT活用や21世紀型スキル、アクティブラーニング、ディープ・アクティブラーニング」ってこういうもので、こんな態度や能力が育成できるもの、と「定義」して、そのための学習プロセスのモデルが提示され、定義づけされた態度や能力がはたして涵養や向上ができたのか測るルーブリックが作られ、みんなでそれに基づいてやっていく。
 
 それは、とても大事。定義づけも必要、学習プロセスモデルも必要、ルーブリックももちろん必要。それらがなければ、PDCAが回らないし、そうした「スキーム」を相対化して改善していくこともできないので。

 でも、もしかしたら、「バッジをあげる」みたいなことになるかもしれない。「バッジをもらうためにそういった学習を作る人や、学ぶ生徒」が生まれるかもしれない。「正解を求めて、得られたらそれでおしまい」みたいなやり方です。
 それは、「高度化複雑化した社会でしなやかに生きる力」や「定まった解のない課題に果敢に取り組む態度」や「問いを見つけて解決していく態度と力」や「ひとりでは解決できないような課題に他者と協同して取り組む態度」などなどが必要だとされ、そのために生み出されてきた新たな学力観である、「ICT活用や21世紀型スキル、アクティブラーニング、ディープ・アクティブラーニング」の在り様と反するやり方です。
 知らず知らずのうちにそうなることがあるのではないか?それが、ここ数年取り組んできた自分自身をメタ認知して不安に思うことです。




 そうならないように気を付けようと、思っています。

 
 さて、先日、総務省の「ICTドリームスクール事業」の成果報告会で報告してきました。


 うちの学校では、ICTを活用した2つの「アクティブラーニング」に取り組んできました。
 「ハイブリッド」がコンセプト。
 1つめは、教育用SNS[ednity」と協同学習ツールの「school Takt」のハイブリッド、
 2つめは、遠く離れた中学校と高校を「school Takt」で結ぶ、遠距離間・異年齢間での協同学習です。PDCAで次年度さらに改善して取り組みたいと考えています。