ちょうど一年前のFacebook の投稿から。アクティブ・ラーニングについての私の考えです。

ps:FBとかではあまり気にしてないので一年前の投稿では「アクティブラーニング」と書いてます。中黒いるわけですが面倒なのでそのままで〜す 笑


マイクロ(個人)が取り引き相手になる。

ちょっとズレるし誤解を生むかもしれないけれど、私がFacebook での繋がりで感じていることと似ている。
Facebook では、個人にコミットして実際に会いに行ったり会いに来ていただいたり、研究会やオフ会を開いたり、直接対面でもfb上でも繋がりのネットワークが増えていく。
すると、私個人では知り得なかったことや、出会いに遭遇できる。そこから新たな動き(価値)が生まれる(生まれないこともある)。
このことが、ここほんの数年で出来るようになった。fb以外でも、skype in theクラスルームとか、世界中と繋がることができる。
課題なのは、繋がるというアクティビティではなく、繋がりが何をもたらすのかというアウトカムであり、他者にどう貢献できるのかという利他性だと思う。
私の父は、息子から見ても、宴会や食事などで、同席した人たちを楽しませ心地よく話をさせることができる名人だ。しかも媚びたりすることもない。何度も真似しようとしたけどできない名人芸。
だから父はいろんな人たちとの繋がりを持っていた。
父が利他性を意識していたかはわからないけれど、明らかに父がいる「場」は同席の人たちのパフォーマンスを向上させた。
今、アクティブラーニングと言われているが、何がその場のいる人たちを「アクティブ」にさせるのか?どんな学びをデザインするのか?そして、従来は教員の手にあって絶対に手放そうとしなかった「学びの枠組み」を開放すること、教員が構築した「学び方」を学習者も共有して、「学び方」を作ることができるようにし、さらには、ともにより良いものに作り替えること、そんな運動体に学びの場が変容することが、面白いと思う。
生徒の皆さんが、学びの受容者であり消費者である立場を超えて、学びを創る側へとパラダイムシフトした時に、ディープなアクティブラーニングがはじめて生まれる。「創ること」は鋭く自他を問うことであり、しかも「面白い」。
時代も「創ること」を態度や能力として求めている。「さまざまな知や人」が時系列でも水平にも複雑に繋がる社会へと出るための準備の場である初中等の学校が、受容と消費(しかも必ずしも優良なコンテンツばかりが与えられる訳ではない)の場に終始するのならば、生徒の皆さんに有益とは言えない。

今、本校の中3はスキー行事(修学旅行のようなもの)へ向けて実行委員の皆さんが企画.調整.実施に苦心している。それは小さいながら創造の場であり、自己が鋭く問われる活動でもある。そして誰がどんなふるまいや役割(ほんのちょっとしたノンバーバルコミュニケーションであることもある)をしたかによって、その場のアクティブさが変わる。変わるというか、生じる。
  では、教員のわれわれはどう関わるのか?問いがこちらに返ってくる。当然、「こういうことはクリアしてほしい」というラインはクリアできるように助力するが、まぁ大抵は任せておいてもクリアしてくれる。じゃぁさらにどうするのか?一生懸命考えるしかない。そして教員の「学びの枠組み」を超える状況が生まれる。
 これを、普段の授業でも目論むのが、自分なりの面白い学びの場デザインです。