石橋 (家プロジェクト)
昨年、新しく改築して公開された「石橋」に行きました。
前回の倍以上の広さになり、作品も襖絵が2点ふえました。
最初に目に入るのは、庭からの光がやわらかく差し込む座敷の襖絵。
これは、千住さんが直島の風景を絵にしたいと、ヘリコプターで空から直島を見て、描いたそうです。
山があり、崖があり、水墨画のようで色彩は柔らかいけど、意外とハードな印象の絵でした。
実は私が持っている直島のイメージとはちょっと違うもので、私自身は共感はできませんでしたが、天空から見たことはありませんからもしかしてそんな機会があったら納得するかもしれませんね
その時の天候もあるし、季節、気温、湿度、精神状態などなども反映されるのが絵ですもんね
次に進むと、丁度座敷の裏にも襖絵があります。
この写真の左側のガラス戸のあたりです。
そこには、水平線が描かれています。表のハードな印象とは反対の、とても静かな絵。
少し銀が入った絵の具を使っているそうで、表の絵もこの絵も時間の流れとともに銀が酸化して色が濃くなり、その変化もまた楽しめるのだそうです。
そして、蔵へ。
ドドドドド・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
静かで暗い蔵の中へ入った瞬間、そんな音が聞こえてくるような圧倒感。
そう。去年もここを見るたびにそう思ったなあと、思い出しました。
壁いっぱいに描かれた滝の絵。滝つぼから流れる勢いのある水流が私の方に押し寄せてくるような、私をすり抜けて流れていくようなそんなちょっと息苦しさも最初は感じました。
でも、じっと見ているうちに、だんだん静かな、精悍とした空気も感じられるようになって、しばらく絵の前で時間を過ごしました。
絵も含め、アートは人それぞれ感じ方が違いますが、何か心に引っかかったらその前でじーーーっとしていると心の中から湧き上がってくるものが時として具体的に自分の言葉で表せることがあります。
私がブログの中でそれを表せているかはわかりませんが、書いてみると、意外と自分の中でモヤモヤしていたものがはっきりしたり、新たに気づくこともあります。私にとっては文章を書くというのが、自分の中の整理でもあるのかもしれません。
画家はそれが絵で表すという手段になるのでしょうね
「見えて見えず 知って知れず」 ウォルター・デ・マリア part2
朝早くベネッセのアートサイトに行くと、まだこの作品はガラス扉の中にあります。
ガラスに映る海とそれを見ているような二つの球。
朝見るのと夕方見るのでも雰囲気が違います。
ふと、二つ並んだこの作品を見ていたら、夫婦が寄り添っているような気になりました。
間は離れていても、常に傍らにいる。毎日毎日変わらずそこにあり続けている。
ずっといることによって今まで見えなかったものが見えてきたり、知らなかった相手のことがわかってきたりする。
そして、どんなにずっと一緒にいても、お互いの知らない部分は必ずあって、毎日見ているようでずっと気づかず見過ごしてしまうこともある。
「見えて見えず、知って知れず」
人と人のかかわりってそういうものなんでしょうね
そんなことを思いながら階段を上り、ビーチの方に歩いていくと、大竹さんの「シップヤード・ワークス」が哀愁を込めたような背中を見せて海に臨んでいました。
なんだかいいなあ
少し離れて見るっていうのもいいものですね。
「もうひとつの再生2005-N」 三島喜美代
この作品は、実はとてもわかりにくいところにあるので、見逃す方も多いんじゃないかと思います。
地図で見ると、直島ダムの横を通る道沿いにあるのですが、一番わかりやすい行きかたは、
本村から宮浦への道を行き、朝しか開いていない山本うどんさんを通り越して一番最初の左に入る細い道を行く方法です。
山道で、道幅が狭いので、対向車には十分注意してください。
さて、作品。このゴミ箱の作品は、豊島の産廃、スラグなどで作られています。
ゴミとして出されたものから作るゴミ。
それを本当に汚いものではなく、スーパーなど、何故か生活用品のセールチラシにされているところがユニークで身近に感じます。
しかし、このゴミ箱のことを考えてみると、毎日の生活の中で、
「その日にとって有益な情報=セールちらし」が、一日経つと「不要な情報=ただのゴミ」になってしまう。
それが毎日毎日繰り返され、何気なく私たちが捨てているゴミの量たるや、生まれてから今まで、私はどれだけのゴミを出してきたのだろう。
チラシだけではなく、どんなゴミも、ゴミになる前はなんらかの存在意義があったはず。
そういうことが、こんなにも巨大なゴミになり、存在感を発揮してメッセージを発しているような気がしました
そんなふとした日常、何の意識も払われないほどの些細な日常への振り返りから気づくことは沢山あるんですね