真夏の冬の旅。 | 奏鳴する向こうに。

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好きなものを書いていく覚書

ベンヤミンとデリダに寄せる日。


コレギウム アウレウムというチームの1970年代半ばの演奏によるヘンデル録音集成箱より合奏協奏曲作品6より2曲。

この楽団の響きはとてもシックに落ち着いていて素晴らしいと思う。

過渡期にあった表現者たちはいずれも素晴らしいが、考えてみたら、歴史上に何らかの「過渡期」でなかったような時期などあるだろうか。

よって私にとって「過渡期の表現者たち」とは時間上の立ち位置ではなく、意識的に新たな挑戦上にいた人々への敬意と共感を込めたおくりなを示している。

 


カール リヒターのアルヒーフレーベルへのバッハのオルゲル作品集成箱より2曲。

10年以上をかけて3つのオルゲルを使い分けているが、デンマークのオルゲルの響きがハスキーで荒々しく、好みである。

オルゲル作品ほど聴く前に抵抗があるのに聴き出すと圧倒されるものはない。

カオスとロゴスの狭間に一種のトランス状態となる。

 


ユリア フィッシャー独奏によるモーツァルトのヴァイオリン協奏作品全集より小品3曲。

 


イゴール レヴィットによるベートーヴェン全集より作品14の2曲。ルドルフ ゼルキンへの尊敬を語っていた音楽誌上の奏者の言葉に興味を覚えて聴き進んでいるが、今のところまだ彼の良さに気付けないでいる。ゼルキンのあの朴訥単純で木彫りの生き物のような、現実の生き物よりはるかに生きているあの木彫りの感じは、目指しても探しても得難いものだったのだ。

 


ブラウティガム独奏によるベートーヴェン協奏曲全集より第5番。信じられないぐらい薄い。入ってこない。しかし自分の耳への今の聞こえ方というものはもっと信じられない。同じ演奏が、時と体験を経て聴き直すと全く違って聞こえるという事実に何度も遭遇してきたから。

 


高橋悠治のピアノと栃尾克樹のバリトンサックスによる「冬の旅」全曲。ライナーには高橋悠治による訳詞がある。

声で歌われない冬の旅だが、初めてこの曲集を聴いた時の切々とした暗さにしびれる感じを久しぶりに味わった。

18の頃だったか、ドイツ語も何も分からず、ただの響きとして聴いた感覚に近かったからであろう。

長年フィッシャー=ディースカウとホッターに育てられたが、私のこの曲への理想は何故かテノールかソプラノで、知る限り素晴らしかったと思い返すのが、ヘフリガーとデーラーによるクラーヴェス盤か、今は手元から失われているが、クリスティアーネ シェーファーが歌った録音があった。

この曲を歌うには軟弱さはあってはならないが、ごりごりの低音も要らない気がするのだ。

凛として、絶対に折れないがしかしふとしたことで折れそうな、そういう、懸命過ぎて矛盾を抱え込んでしまっているような、繊細な魂の強さと透明な肌の色香が要ると思う。

つまりそれを出すのは肉声では難しいということになる。

 


バレンボイムとシュターツカペレ ベルリンによる2021年の録音。素晴らしい。若々しく、思い入れたっぷりだが全然伝わってこない、と最初感じるにも関わらず、いつの間にか本当に美しいと思わせてくれる。するとつまり実は何もかも一切が、しっかり伝わってきていたのだといえる。

 

カガンとリヒテルによる1985年3月フライブルクでのライヴ2枚組よりブラームスの第1番。

もって回らない速さは実はブラームスの指示に忠実なのかもしれない。第1楽章は「過度でなく」の留保付きとはいえvivace、ヴィヴァーチェといえば明らかにアンダンテとかアダージョではなく、個人的な感覚だがアレグレットより速いイメージがある。

単なる速度というよりもっと内面の指示なのかもしれないが、弾きまた聴くからには速度を無視するわけにはいかない。

ここでの2人の表現は全編に渡って知る限り最も落ち着かない。それが独特の羞恥、抒情への羞恥にも聞こえるから音楽というのは不思議だ。

 

 

グリーグの弦楽四重奏曲ト短調を愛している。メルク(モルク?)のチェロとその仲間たちによる、このワーナーの箱所収の演奏は本当に素晴らしい。初出はフィヨルドに突き出した尖った崖のジャケットだった。

 

 デイヴィッド ロバートソン指揮モンテカルロフィルによるサン=サーンスの管弦楽曲集よりニ長調の組曲とブルターニュ ラプソディ。

手持ちのディスクはAmazon掲載のものとジャケットと曲目が違っていて、ニ長調の組曲の代わりにアルジェリア組曲が入っているようである。

ジャケット違いはまだしも、曲目を入れ替えるのはやめてもらいたい。2枚組になってもすべて入れてほしかった。