「こたえ」などない冬空の紙を綴じる。 | 奏鳴する向こうに。

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18の頃から集めたクラシックのCDを、それに合わせた絵や本とともに聴いていく、記録。と、イッカピ絵本。

イッカピ戯画

地上のどんなトーナメントにもセメントにもコンクリートにも居場所がなくなれば、微塵子の尾につかまって、ごった煮の世界をさかさまに見、傷だらけのイッカピを見分けて、地図記号を使って架空の街に棲息する太陽を暴こう。心臓も深層も真相も見失ったのなら、またそれを捜す楽しみが生まれる。そうやっていつも楽しく息をしていたいだけの、素晴らしい世界。

つづく



 菊池洋子氏の音楽を聴くのは初めてだったが素晴らしかった。

古今の作曲家による子守歌と、伝承の子守唄を、ピアノだけで聞かせる。最初の10曲を聞いたが、中でも「江戸子守歌」。私の原初記憶としてあるメロディはこれだった。

 


同時期録音のヘンデル「リチャード1世」でも共演していた2人による二重唱。

 


 オスカー シュムスキーとロビン サザーランドによるバークレイでのライヴ録音から、バッハの比較的珍しいホ短調ソナタとタルティーニのいわゆる「悪魔のトリル」。

 


 タルティーニのヴァイオリン協奏曲全集より2003年録音の2曲。比較的少人数で、第2ヴァイオリンが右から聞こえるのがうれしい。

 


 ギーゼキングによるワーナー録音を集成した箱より、モーツァルトの小品集を聴く。弾きとばさない、モーツァルトへの敬愛を感じ取る。

 


 ザ ハノーヴァー バンドによるベートーヴェン交響曲全集より第2番ニ長調。柔らかい音がする。

 


 アンヌ ケフェレックによるベートーヴェンのソナタ第32番ハ短調。乾坤一擲の呻きとともに始まり、走馬灯が天地を駆け巡って断ち切れる、その地点まで。かなしいという言葉を遥かに超えていく、澄み渡った「かなしみ」の音楽。

 


 ラインスドルフ指揮によるシューベルトのミサ曲第6番変ホ長調。

 


 田中希代子氏による1964年のライヴ録音で、ショパンの24の前奏曲集と、下記所収のシューマン「クライスレリアーナ」。

後者は私には開始の音が大切だが、さすが伝説の名手とされた方の入りは素晴らしかった。つまり溜めをつくらずいきなり渦中に飛び込んでくる。

そして終曲、酔っぱらった道化を蹴散らかす破滅的な嵐の凄まじさは、ホロヴィッツの破滅感が忘れがたいが、ここでの演奏も素晴らしく、当時の放送時間の関係で短くも荒々しい第3曲が省かれたのが本当に無念でならない(CDでは余裕の収録時間なのだが)。しかし聴後の完全燃焼感はその事実を忘れさせるほどであった。

 


 ヴィルトナー指揮によるシューマン録音は、とりわけRCAレーベルからの「ピアノと管弦楽のための作品全集」が、第2ヴァイオリン右の画期的で素晴らしいものだったし、NAXOSレーベルからの素晴らしい序曲集は長年愛聴してきた。これと同時期、同レーベルに交響曲も下記の2曲が録音されていたと知り、聴いた。重心の低い響きが素晴らしい(ちなみにこれとセットということかは不詳だが、交響曲1,3番はストリヤ指揮でオケも異なるようだ)。

 


 トリオ フォントネによるブラームスの第3番ハ短調。ごつごつした美しい岩を見ている思いがする。

 


 フォルデシュによるバルトークのピアノ曲。「ルーマニアのクリスマス キャロル」「ルーマニア民俗舞曲集」ほか。

音楽に耳を傾けることは、そのまま時空と人の心を旅すること。それを自分勝手にできるし、実際の旅には伴うのが必定の移動時間や不都合や不愉快も避けられるのがいい。出不精で面倒がりの私にはありがたいのである。不都合や不愉快も含めて「旅」の楽しみだといえるほど旅する人間として私は出来ていない。その分想像力をたくましくして、音楽から、汲み取れるものを存分に汲み取りたい。

 


 ワイセンベルク独奏、小澤征爾指揮パリ管弦楽団によるプロコフィエフの第3番。快刀乱麻の素晴らしさ。

 


 ダネル四重奏団によるヴァインベルクの弦楽四重奏曲全集より第10番。

 


 クレーメルとそのチームによるヴァインベルクの室内交響曲第1番。