落書きされた世界の果てで、冬ざれて、からくりのともしびをともす暁の歌もある、ということ。など | 奏鳴する向こうに。

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好きなものを書いていく覚書

イッカピ戯画

時計草はからくりのともしび。かなしみの付いた風船の咲くすぐそばで、火のような受難と熱情を生む、にがくもすっぱくもあまくもある命の割れ目。ばかとか、ないてろとかいう落書きばかりの世界の果てで、ミカヅキを負ったミッカが見つけた冬ざれたよろこび。叶えたい願いがもしあったら、自分すら忘れてしまうような胸雪の奥に、それを植えるのだ。種は、土の中に匿われてこそ、一切を叶えるのだから。
つづく


パユとピノック他によるバッハ、より2曲。



キース ジャレット他によるモーツァルト、ピアノ協奏曲第21番とフリーメーソンのための葬送音楽。



グールドによる1970年のベートーヴェン、「プロメテウスの創造物」主題の序奏と変奏。

グールドのベートーヴェンは素晴らしい。解体されていく曲が、剥き出しにされた心臓の力で、もう一度みずからの肉体を再構築していく。

とりわけ熱情、テンペスト、そして5つの協奏曲など。



マズア指揮による1973年のベートーヴェン、第3番。



ライプツィヒ弦楽四重奏団によるシューベルト全集よりD.173ト短調。



デームスによる1992年のシューマン作品集、「予言の鳥」と題されたアルバムより「森の情景」と「夕べの歌」

ローゼンベルガーという名の1835年製のハンマーフリューゲルが使用されている。古雅な透明感が素晴らしい。「ピアノ」ではなく「ハンマーフリューゲル」という響きが実に似合う。デリケートなハンマーで、澄明に飛翔する鳥の翼が打ち出されていく。
ライナーには貴重にもデームス自身の各作品へのコメントが邦訳されてある(池田明子氏訳)。

ジャケットの絵は一昨年没された詩人画家、平野充氏による。この終わってしまった世界の沈鬱で気高い響きに魅せられる。これをこのシューマン作品集のジャケットにしようと決断された方(Produced by Haruko Ikedaとあるがライナーの邦訳などもされている池田明子氏?)に敬意を表したい。

あらためて平野充氏の詩集「海の庭」を開いたが、9年前よりはるかに心に刺さる。
誰の作であれ、小説や評論は花屋にある花だが、詩は高山にしかない花。経験と覚悟をもって探さねば、希薄な空気で懸命に生き、本来的に永遠の断片として存在するその真実は得られない。

「わたしは/わたしより遥かに遠い沙漠で/すでに わたしを放置した空である。

おのれとは無関係に 光は必ずさす/その暴力に対処するには ただ一つ/空しかない。/だから 飛躍したのだとおまえは言う。/そうかも知れない。」

「地に落ちた空を踏んで とどまるもの/遠い殺戮の春から砂をもたげ/残された草を噛み/囚われの鳥を放ち/骨を編む」

「見知らぬもののために えぐられた空があり」

「釘打たれた夜明け」

「諦めの上に せめて偽りの 花々の挿話をまとひ/燃えのこりの償いを掌に/夜明け。/精子のように虚しく滅んでゆくのである。」

廃虚の周りに結界を張る、何を守ろうとするのか、ただつき刺さる、鉄条網のような言葉。



ペーター フランクルによるシューマン、「天使の主題」による変奏曲。デームスは先のアルバム解説でこのメロディがシューマンで最も美しいと書いていた。



私の胸を打つシューマンの旋律はほかにも多い。「ウィーンの謝肉祭の道化」の「間奏曲」、ピアノ四重奏曲の第3楽章。チェロ協奏曲、「ライン」交響曲、ヴァイオリン ソナタ第1番の各第1楽章。「おとぎの絵本」。「色とりどりの小品」の前奏曲とおどけた行進曲。「暁の歌」の第4曲。歌曲「ミニヨン」。そして「子どものためのアルバム」の「シェヘラザード」など。



Brilliantレーベルのシューマン集成にはより大規模なものもあるが、これはピアノ独奏作品だけを集成した箱。クララ ヴュルツやフランクルを中心に、思いがけないほど素晴らしい演奏が揃っている。



生誕90年を迎えたプラッソンによる、カルメン全曲。



チェホーヴァによるスメタナ、チェコ舞曲第2集より。

リスト、ブラームス、ドヴォルザーク的な「舞曲」を想像していると全く違う世界に驚く。彼らよりはるかに内向するシューマンに近い。



オイストラフとロジェストヴェンスキーによるブルッフ、スコットランド幻想曲。


ダルベルトによるフォーレ、夜想曲第6番と、主題と変奏作品73。ベヒシュタインというピアノの、薄く温かい透明感が沁みる。



ボールト指揮によるバヴァリア舞曲ほかの小品集。



パールマンによるクライスラー。



ホーレンシュタイン指揮による1952年のヤナーチェク「シンフォニエッタ」