人の弱さがきしみ合う音楽、シューマンの歌劇「ゲノヴェーヴァ」の鬱屈と銀のしずく。 | 奏鳴する向こうに。

奏鳴する向こうに。

18の頃から集めたクラシックのCDを、それに合わせた絵や本とともに聴いていく、記録。と、イッカピ絵本。

イッカピ戯画

海中にのびていった線路からトロッコは崩れ落ち、ミッカはあたかも母神として海底に堕ちていく。運命というものは予感はできても予想はできないからだ。しかし底からさかさまにみる朝は新しい水平線にも見え。イッカクとイッカピ父子はいつもわくわく必死に前衛をつらぬく。アカマンボウとライギョは最初から廃虚な街を無関心にいく。
つづく



バルヒェットとヴェイロン=ラクロワによるバッハ、第4番ハ短調。



バウマンとアーノンクールによるモーツァルト、第3番と第1番。



ウィーン ムジークフェライン四重奏団によるベートーヴェン、第9番ハ長調。



オールソンによるウェーバー、「舞踏への誘い」ほかの小品3曲。



ベルノルトとカバッソによるシューベルト、「しおれし花」主題の序奏と変奏。



マズア指揮によるシューマンの歌劇「ゲノヴェーヴァ」全曲。

この鬱屈した、しかし同時に深沈と燃えるような歌劇。個人的に後年のチャイコフスキーの「マゼッパ」と双璧な、全場面美しい、アンチヒーローアンチクライマックスドラマで、音も音量も少ない場面にこそ緊迫した核心がある。

人に信頼された騎士を本質的に闇落ちさせたのは魔女の悪意というよりは聖女の無垢さであるという皮肉。このいらいらさせる無垢にこそ、この歌劇の最も美しい音楽があてられているという真っ直ぐな屈折。

「幸せ」は、内心の葛藤のないおめでたい者たちにしか訪れず、しかもその幸せを描くことがこの歌劇の主眼とは思えないという鬱屈。

相対的にそういえるに過ぎない「幸せ」。ある者はこの「幸せ」によって弱く、ある者は悪意によって、またある者は葛藤によって弱さを抱えている。

そういう様々な弱さが、静かにもつれてそれぞれに燃え合う、舞台受けなどまず望めない歌劇。時代がまだ追いつけないどころか、人はこんなにみずからの弱さを認められるほど強くはなれないという意味でも、多くの人の支持はついに得られにくい歌劇かもしれない。しかし私はこの善悪を決めつけない、動機も伏線も一切回収しない、主人公さえも本質的に不在な、空洞を抱えたドラマを、本当に素晴らしいと思う。「前衛」であろうとはしていないのに、人の心のその淵を目指すなら結果的に本当の前衛ともいうべき荒涼たる地に危うく立ち続けることになるであろう歌劇。知れば、どうして無視できようか。


屈折を繊細に追うアーノンクール盤も素晴らしかったが、マズア盤は往年の大物歌手たちに存分に仕事させながら、迷いも葛藤もなくこれこそがドイツ本流なのだとでも言いたげな堂々たる表現。往年のこういう描き方だからこそ浮かび上がる屈折というものもある。



フカチョヴァーとクランスキーによるブラームス、ニ長調作品78(チェロ版)。


最晩年のノイマン指揮チェコフィルによるマーラー、第5番。



中学生の時夢中になった「アイヌ神謡集」、その出版から100年目とのことで、新装版を求めた。