人工透析は希望 | 現在と未来の狭間

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文芸と自転車、それに映画や家族のこと、ときどき人工透析のことを書きます。

時間延長が良いのか、血流増加が良いのか、おそらく体格や年齢、体力的な問題もあり判断が難しいところである。

自分自身のことで言えば、身長170センチ、体重69キロということで言えば長時間透析などを目指すべきと考えて、現在に至っている。

時間が長いのはきついとか、血流をあげれば負担があるのでは、という不安があるのは当然だと思うが、所謂4時間の標準透析では自分の場合は不調を感じていたので「それではダメだ」という判断をした。

判断をした当時は何が一番大変だったかといえば、当時の会社の理解が得られなかったこと。会社には産業医もいたが会社よりの判断をされてしまった。いや、愚痴や不満をこぼそうということでは無いのだが、それくらい「標準透析」というものが強かったと言えるだろう。

それさえクリアできればあとはどうにかできるという気でいた。都内で5時間以上の透析をやっているクリニックはいくつかあったし、自分が動けばどうにかできるということだ。通い慣れているクリニックを離れるのは抵抗があるのでは、という考え方もあるが、今となっては転院慣れしてしまったという感もある。

当時、自転車に乗っていたということもある。自分の足で走ったりするのは足腰へのダメージが大きくてできなかったが、自転車だとダメージが少ない。漕ぎ続ければどこまででもいけるという感覚は、病気をしてから知った感覚として重要だったと思う。すでに透析はしていたが、自転車さえあれば肉体強化もできると思えたことは大きい。今は完全無尿状態となってしまったので暑い時期はオフシーズンとしてしまったが。

自転車はしっかりと整備をするとすこぶる走りが良くなる。チェーンのゴミを洗浄しオイルを塗り直し、タイヤチューブに空気を入れれば見違えるような走りができるのだ。この自転車整備の経験が自分の場合、透析につながっているようにも思える。つまり時間を4時間から5時間にするとか、血流をもっと多くするとか、自転車の整備と同じく体をメンテナンスしてやれば、もっと調子良く体が動くようになると思えたのである。

結局、転職をして仕事を変えたりしてしまったり、腎臓癌の疑いで入院したりと様々な出来事があったことで、5時間、高血流の透析を検証する時期を逸してしまったが、今現在の会社生活を振り返ってみて判断すると、その効果はしっかりと出ていると思う。支障なく仕事ができ、日常生活もごく普通である。透析に行っているということ以外では、普通の健常者と変わらない。時に不調なこともあるけれど、おそらく二日酔いのレベルで考えたら普通の人にもありうる不調だと思う。

4時間の透析は生きる上で最低限のレベルのもの、というのは坂井瑠実クリニックの坂井先生の言葉だ。体格的にその最低限のレベルでも問題の無い人もいるとは思う。食事制限をしつつ運動もある程度セーブして、4時間透析でこなすというのも一つの方法かもしれないが、制限をしながら普通の人と同じ生活をするということは自分にとっては無理があるとも思えた。それは長く保存期の中でタンパク制限をしていた時から考えていたこと。タンパク質を分解すると窒素ができそれが毒素になるということは理解できるが、体を作るものもやはりタンパク質なのだ。最低限の透析をしながらなお、タンパク質の制限を続けるということはどこか体に無理を強いるようにも思える。

できる限り、普通の人と同じ生活をしたい。食事でも仕事でも運動でも。もちろんできないことは仕方がないのだけれど、できることが少しでも残されているのであれば、できるだけ長く継続していきたかった。透析は仕方が無いにしろ、でも透析をすることで何かできることが残されるのであれば5時間でも良しということになったのだ。

生きるため、自分のやりたいことのために透析を受けている。5時間半の透析でもそこから得られる恩恵はとてつもなく大きい。こういう体の条件でも仕事をさせてくれる会社に恵まれ、自分の持つスキルをしっかりと活かせる。仕事から得られる充実感、達成感は大きい。それも透析によって生きることができているからだ。

だから自分にとって透析に負のイメージを今は感じていない。

5時間半の透析で、自分の体はすこぶる良く走るロードバイクのよう。もしかすると透析時間を6時間にすればもっともっと走るかも。まだ打つ手があると思えれば、まだまだ生きることへの希望が持てる。こんな体をもたなかったら、こうした考えも持てなかったかもしれない。

だから私にとって「透析は希望」なのだ。日々、生きることを実感できてよかったと思っている。

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