弘法大師の誓い | ♫ラジオ寺子屋・高野山♫ 南山坊のブログ

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本日は気温3℃の中で旧正御影供が執り行われました。例年に比べると参拝者は極めて少なかったですが、寒い中のお参りありがとうございました。

さて、今年は旧正御影供(旧暦の3月21日)がイエス・キリストの復活祭であるイースターと1日違いになりました。
‬どちらとも毎年の暦の変動によって日は一定していません。ちなみに来年は5月2日が旧正御影供にあたりますので、どうか無事に行えますよう願うばかりです。



写真はいつも撮っていただくカメラマンの方からいただきました。



キリストの「復活」が少し気になったので、大学院時代の友人ペテロ神父の著書『イエスと空海 不二の世界』を紐解くと、このように述べていました。

キリスト者もイエスは死んでいないと信じています。イエスは復活され、神と共に聖霊を通して人々を救い続けています(カトリック神学の立場)。‪つまり、宗教学的に言えば、「留身信仰(空海の入定)」と「復活信仰」は同じような宗教現象で、本質的に両者とも死を超えた隣人愛のしるしなのです。
このように両者共に、生物学的な死を超越した宗教的信仰によって今なお、生きていらっしゃいます。
隣人愛を仏教では「慈悲」に値しますが、大師の入定はいかなる「慈悲」によって衆生済度(すべての人々を救う)されているのでしょうか。

そのヒントは奥之院の燈篭堂正面の両柱に架けられている聯(れん)に示されています。

昼夜に万民を愍んで普賢の悲願に住す

肉身に三昧を證して慈氏の下生を待つ

【現代語訳】

私(空海)はいかなる時も、あらゆる人々を哀れみ、普賢菩薩の慈悲による誓いを胸に抱き続ける。

この身このままに心を一処に定めて、弥勒菩薩が遥か未来にやって来られる(下生)まで待ち続けよう。

この文は弘法大師号(諡号)が下賜された時、帝の勅書の返答として伝えられている一部です。

大師信仰に伝わるものなので、その信憑性は別として信仰上極めて重要なものです。

この中、昼夜に万民を愍んで普賢の悲願に住すとありますが、大師の誓いは普賢の悲願を基壇とすることがこの一文から分かります。

では、普賢の悲願とはいったい何でしょう?

簡単にいうと、普賢菩薩の実践行=慈悲行(普賢行願という。あまねくすぐれた誓いのこと)であり、さらに踏み込むと智慧を代表する文殊菩薩が誓願した慈悲の行が普賢行とよばれるようになり、それを実践する代表者が普賢菩薩なのです。

つまり、大乗仏教の菩薩を代表する菩薩の優れた誓いが、すなわち弘法大師の誓いなのです。

普賢行願は大乗経典の『華厳経』「入法界品」が根拠となり、大師も華厳の教えを重んじています。例えば、諸宗の教えを比較した大師の主著『十住心論』には密教の次に華厳を配当しています。

さて、現在、真言の僧が日々修法するどの次第(拝む仏様によって異なる)にも、必ず「普賢行願皆令満足の為」という文言が冒頭に出てきます。
続いて唱える五悔(ごかい)という懺悔の法も普賢行願(普賢十願)を元としてるように、大師の教え、つまり真言密教がいかにそれを大事にしているかが行法次第(拝む実践の方法)から理解できます。
事相に関することなので、一般の方には分かりにくく申し訳ありません。

最後に、大師の誓願の文言をご紹介します。
奥之院へ向かう中の橋入口に一対の大きな石柱に彫られているので、次回ご覧になってください。

虚空尽き 衆生尽き 涅槃尽きなば 我が願いも尽きなん

この世界とそこに人々がいる限り、またすべての人々がさとりへ赴くことができれば、私の願いもようやく終えるだろう。

※過去写真。高野山の桜はもう少し先になります。

世界中の人々が再び平安に暮らせますように。

南無大師遍照金剛

南無当年行疫流行神