こんにちは、私は東京都八王子みなみ野七国にあります年中無休の歯科医院ななくに歯科サポートスタッフ河本です。

院長の555を読んだ感想を書かせて頂きます。

 

 

今日の555!!!(第2935回)

甘やかす。

この言葉にみなさんんはどんなイメージをお持ちでしょうか?

...

ちなみにですが

子供のころに親に充分に甘えさせてもらえなかった人は、
大人になって人格にさまざまな問題が生じてくることをご存知でしょうか?

むしろ、甘やかすことの方が、大人になって、さまざまな問題があると信じて、甘やかすことは

悪いこと

だと思っているでしょうか?

「もっと甘えさせてもらいたかったのに」

と、心にしこりを残しながらも、大人になれば甘えは許されないのだ、という葛藤に苦しみます。

その結果、甘えたい欲求の反動で、他人に心を閉ざしたり、攻撃的になったりしてしまいます。

しかし、人間は誰でも、他人に甘えながら生きているのです

甘えることは恥ずかしいことではありません。

甘えを自覚していないことの方が、よっぽど恥ずかしいことです。

「甘える」と言っても、恋人同士が猫なで声でじゃれ合うのとは、少し意味が違います。

大人としての責任や義務を放棄して権利ばかりを主張する、
いわゆる「甘ったれる」のとも違います。

ここでいう「甘え」とは、
「他人と互いに依存し合って生きているということを自覚する」
ことです。

人間は誰でも、他人との関わり合いの中で生きがいを見出して生きています。

無人島で一生ひとりぼっちで生きていかなければならないとしたら、
何の喜びも感じられないでしょう。

人は、他人に依存しなければ生きていけないのです。

暴走族は、決して街外れの人のいないところで暴走行為をしたりしません。

必ず、人の目に付くように行います。

社会に背を向け、世間を敵に回すのであれば、
自分たちだけで好きなように生きていけばいいものを、
結局はそれだけの強さもなく、
社会との関わりの中でしか自己を認められないのです。

他人に迷惑をかけることで、姑息な優越感を得ています。
すなわち、大いに他人に依存し、甘えているのです。
妻に暴力を振るう夫も、甘えています。

普通、赤の他人に暴力を振るえば、
警察に捕まり、罰せられます。
妻だから許してくれる、と甘えているのです。

許されることで、自分が受け入れてもらっているという錯覚を起こしています。

家出や非行を繰り返す少年少女も、
まわりの人間がどこまで自分のことを真剣に心配してくれるかを試しています。

わざと問題行動を起こすことで、
「こんなにまで傷ついた自分の気持ちを誰かに理解してほしい」
と望んでいるのです。

店員に偉そうにする客や、
会社でふんぞり返っている上司も、
本当は劣等感が強いから、
立場上自分に逆らえない人間に対していばることで、
ちっぽけな自尊心を保っています。

いくら偉そうにしたくても、
無人島でひとりきりでは、
偉そうにできません。

自分を誇示する対象としての他者を必要とするのです。

他人をバカにしておきながら、
実は、
「偉そうにさせてくれる相手」
として、他人を必要とし、依存しているのです。

(自分に偉そうな態度をとる人に対しては、
「この人は、自分に認めてほしくて甘えているのだな」
と思っておけばよいでしょう)

どんなに強がっていても、
いばっていても、
人は誰でも、
他人に甘えて生きています。

世の中には、適切な甘え方を知らない方々が沢山いるのです。

「自分は誰にも甘えることなく生きている」
という人がいたら、
それは思い上がり。

ただ甘えを自覚していないというだけのことです。

そういう人は、他人の甘えも許すことができません。

自分は他人に依存しておきながら、
他人に感謝する気持ちもありません。

大人だって、素直に甘えていい。(^∇^)

「甘えたい」という欲求を素直に自覚することで、
多くのストレスや悩みは解決するでしょう。

自分を他人に受け入れてもらうかわりに、
自分も他人を受け入れてあげる、

それが人間関係の基本です。

上手に他人に甘え、また他人にも甘えさせてあげましょう。

 

感想

 

甘えるというのは簡単そうで難しい事だと思います。もちろん、誰でも甘えたい気持ちがあるのはあたり前だとおもいますが、それこそ暴走族のように攻撃的な甘えになってしまう人は多いと思います。しかし、それをしっかりと理解して受け入れれば、違った形の甘えになるのでしょうか。

そういった経験がないのでわかりませんが、そうなればとてもいいなと思う555でした。

こんにちは。

八王子市みなみ野七国にあります

年中無休の歯科医院

ななくに歯科サポートスタッフの谷崎です。


今日の555!!!(第2936回)

もし、ラグビーをする時、ボールを前にパスできない事に文句をいうでしょうか?
もし、サッカーをする時、ボールを手で触れない事に、文句をいうでしょうか?
もし、俳句を作る時、5・7・5と文字制限があることに、文句をいうでしょうか?

むしろ、これらのルールがあるから、ラグビーも、サッカーも、俳句も、面白いのではないでしょうか?

そして、これらのルールがあるから、「上手な人」が際立つのではないでしょうか?

さて、世の中には、
他人の気持ちを先回りして読み取ってしまい、
他人に気を遣ってばかりで、自分はいつも損をしている、
という人がいます。

しかし、そういう人は本当は、他人の気持ちを思いやっているのではなく、

「自分が嫌われていないか」
「自分が変に思われていないか」

と、自分のことばかり気にかけているのではないでしょうか。

本来、他人の気持ちを読み取ることができる能力というのは、
悩むべき欠点どころか、長所であるはずです。

本当に他人の気持ちがよく判るのであれば、それはすばらしいことであり、自信をもってよいことなのです。

他人が傷ついたり落ち込んだりしているとき、
冷静に的確なアドバイスをしたり、
はっぱをかけて励したりするよりも、
何よりも重要なことは、その気持ちに共感してあげることです。

人間の優しさとは、どれだけ他人に共感できるかということであると言えるでしょう。

傷つくとはどういうことか、
悲しみとはどういうことかを知っているということは、
まさにすばらしい長所です。

傷ついた経験のある人でなければ、他人に優しくすることはできません。

その能力をおおいに活かす方がいいんじゃないでしょうか?

すぐに自分と他人を較べては、
自分は他人よりも劣っていると卑下し、
自己憐憫に浸ってしまう人がいます。

しかし、自分を劣っていると思うこと自体は、別に悪いことではありません。

自分にはまだまだ知らないこと、学ばなければならないことがたくさんある。

他人のいいところを学び、もっともっと自分を成長させよう。

つねにへりくだり、他人を立て、他人を敬う姿は、美しいものです。

逆に、自分は優れた人間だと慢心し、他人を劣った存在だと見くだすことのほうが、人間としてみにくいことです。

劣等感に悩んでいる人は、本当に自分を劣っているとは思っておらず、
実は・・・
無意識な

「自分は他人よりも優れた人間であるべきなのに、誰もそれを認めてくれない」

というごう慢さに苦しめられているのではないでしょうか。

それは単に、努力を怠っていることの言い訳にすぎないのです。

人は、自分の中の卑しい感情を認めたくないとき、
それを打ち消そうとして、
まったく正反対の感情を抱いているかのように思い込もうとすることがあります。

自己中心的なところを認めたくないために、
「他人に気を回しすぎてしまう」と思い込んだり、
ごう慢さを認めたくないために、
「劣等感に苦しんでいる」と思い込んだりしてしまうのです。
人それぞれに長所、短所があります。

重要なことは他人との比較ではなく、自分をどれだけ活かしているかということです。

誰にでも、自分なりの最高の生き方というものがあるはずです。
それを見出すのが人生の目的だといってもよいでしょう。

サッカーは手を使わないからおもしろいのだし、
俳句や短歌は字数に制限があるから工夫のしがいがあります。

まったく自由に、何でも思い通りになる人生に、何の楽しみがあるでしょうか。

障害や制約があるからこそ、与えられた条件のもとで最善をつくすことに充実感があるのです。

それを「苦労」だと受け取るか、「味わい」だとみなすかの違いです。

悩みをなかなか解決できず、
苦しみから逃れられないときは、
はたして自分が目指している方向は正しいのだろうか、
と見直してみる必要があります。

どんな悩みも、悪いことばかりではありません。

少なくとも、
「同じ悩みに苦しんでいる人に共感してあげられる」
という長所に変えることはできるのです。
悩みは、うち勝とうと必死で努力するよりも、
「それを活かす方法はないものだろうか」
と考えてみたほうが、うまく解決できることが多いものです。

みなさんは、
ラグビーで、ボールをいかに、前にパスするか、考えませんよね?
サッカーで、ボールをいかに、手で触るか、考えませんよね?
俳句で、文字数を、5・7・5を、いかに、オーバーするか考えませんよね?

むしろ、その自由のなさに、面白さを想い、
そして、
「それを活かした方法」
で、「上手さを目指す」
ことをしていますよね? (^∇^)


感想
この555に共感するので選びました。

脳は自然と自分が楽な方向に考えると聞いたことがあります。
考え方の癖を変えるというのはとても大変なことですが、まず、自分の考え方の癖を知り、自分が成長する糧だと思い、(プラスに)捉えることが大切かなと思います。
わたしはネガティブだねと人から言われますが、ネガティブな気持ちがまずなければ、次に進むこともできないと思っているので、自分ではそれは自分の一つの特徴だと捉えています。
そして、そういう時こそどう考えて、どう行動するかが大切かなと思っています。
そうすると自然とポジティブになっていたりします。笑

悩んで、自分で答えを出せなければ、人に相談したりすると答えが出せたり、納得ができる時があります。なので、そういう環境があること、作ることも大事だなと思います。



こんにちは!

東京都八王子みなみ野七国にあります年中無休の歯科医院ななくに歯科サポートスタッ平塚です。

 

本日は私が院長の投稿を見ての感想を述べます。

 

今日の555!!!(第2934回)

子育てで、子どもを抱っこをする男性は多いみたいだけど、
『抱きしめる』
っていうことをしている男性は少ないみたいだよ。

...

子どもと一緒にいて
お母さんが
抱っこするのに疲れたから
代わりに
お父さんが
抱っこすることもあるよね。

でも。

それだけで、満足してる男性も多いとか。(笑)

それって
場合によっては
ただ
荷物としてもってあげているだけ
ってこともあるからね。

どうだろう?

『ちょっと、あなた、変わってくれる??』

『はい。はい。』

みたいな感じで
抱っこしてるってこと
あるんじゃない?

もちろん、しないよりかは、したほうがはるかにいいと思うよ。

でもね。

心と心の会話をしたくて
『抱きしめよう』
と思って
抱っこしようとする人も
いるんだよ。

『抱っこ』
ってただの移動手段だけじゃないんだよ。

だから
あえて
なーーーーんにも移動する時でない時に

『大好きだよ』

『愛しているよ』

『生まれてきてくれてありがとう』

『あなたには価値があるよ』

っていう想いを
ぎゅーーーーー
って
表現してあげることだって
男性だってできるのにね。

(^^)/

じゃぁ
抱きしめることをしない男性が悪い?

いやいや
それも違うの。

ただただ
知らないだけだから。

抱っこは
一種の移動手段
と思わせてしまっている
家族関係

みんなで改善すればいいだけ。

もっともっと
意識しよう。(^^)/

抱っこ


抱きしめる

ってことは
意味が違うってことをね
(^^)/

 

(感想)

『大好きだよ』

『愛しているよ』

『生まれてきてくれてありがとう』

『あなたには価値があるよ』

っていう想いを
ぎゅーーーーー
って
表現してあげることだって
男性だってできるのにね。

に共感し選びました。

 

誰でもできる!ということに納得しました。

 

何かと何かの違いに気づくだけで

明日からもできることが大きく変わるなぁという

気付きにもなりました。

 

{違いに気付く}

そのセンサーを持って今日も一日頑張ります!

八王子みなみ野 七国にあります、

年中無休の歯科医院 ななくに歯科 サポートスタッフ阿部です。

555を読んでの感想を書きます。

 

 

今日の555!!!(第2927回)

いい子でも、わるい子でもどっちでもいいじゃない!!!

って勇気をもって言えますか?

不登校になったり、家に引きこもったりする若者は、

けっして不真面目なわけではなく、

むしろ完璧主義なほどに生真面目な性格で、知能も高い場合が多かったりします。

幼いころから「明るくて勉強もできるいい子」であることを親に強要され、

その理想に向かって精一杯努力し、演じ続けてきたのですが、

とうとう力尽きて、張りつめていた心の糸がぷっつりと切れてしまった。。。。

当人にとって、学校にも行かず、仕事もせずにだらだらと過ごす自分は、

典型的な「悪い子」にほかなりません。

そして

「いい子」をやめれば楽になれるという願望と、それを許せないという自己嫌悪との葛藤で苦しんでいます。

心配する親は、我が子を何とか立ち直らせようと、

「がんばりなさい」と励まします。

しかし、それは子供にとっては、

「いい子をおりることなど許しませんよ」という脅迫に聞こえます。

がんばりすぎて身も心も疲れ果ててしまったのに、

なおも「がんばれ」と急き立てられることは、あまりにも厳しく、情け容赦のない仕打ち。。。。。

子供を「いい子」という鋳型にはめ込もうとする親もまた、

「いい親」でなければならないという責任感にとらわれている。。。。

「熱意をもって接すれば、いつか判ってくれるだろう」と、

積極的に子供に干渉することが愛情だと信じこんでしまうのですが、、、

「悪い子をいい子に引き戻す」という押しつけを改めないかぎり、

子供はよけいに心を閉ざすばかりで、まったく逆効果に終わってしまう。。。。

「いい子」を演じてきた子供が、

実は自分は悪い子なのだという罪悪感に苦しんでいるのと同じように、

「いい親」もまた、立派に子育てをしてきたつもりだったのに、

もしかすると自分の愛情の示し方が間違っていたのかもしれないということを認めるのは、とてもつらいことでしょう。

こうして

親も子も、悪意があるわけではないだけに、事態は複雑にこじれてしまうのです。

こういう場合って

親は、「いいことか、悪いことか」という理屈を一時捨て、

子供のすべてを受容することが解決への一番の近道だと思いませんか?

「学校に行きたくなければ行かなくてもいい、仕事をしたくなければしなくてもいい」と、とりあえず受け入れてみるのです。

かといって、本当に何もせず家に引きこもり、社会と断絶して過ごすことがいいことだとはいえません。

怠惰を増長させることになるのではないかという疑問を感じる方もいるでしょう。

しかし、心配はいりません。

そういう子供は、もともと責任感の強いがんばり屋さんです。

もっともっと「いい加減さ」を覚えてもいいくらいなのです。

誰だって、自分の人生は大切です。

わざわざ好きこのんで自分の人生を台なしにする人などいません。

そうせざるをえないほどに追いつめられた子供の気持ちになって考え、苦しみに共感し、温かく見守ってやってください。

ちなみに

『ラスト・ストロー(最後のわら)』

をご存知でしょうか?

限界まで重い荷物を背負わされたラクダが、最後にわらを1本乗せられただけで潰れてしまった、というたとえ話です。

不登校や引きこもりの直接の原因は、

「友人や先生に嫌なことを言われた」

「仕事で失敗をした」など、

ささいなことである場合が多いものです。

他人は、そのラスト・ストローだけを見て、

「なんだ、それしきのことで」

と非難したり、励ましたりしてしまいがちですが、それまで耐えに耐えてきた重みがあるのです。

子供もまた、自分自身を受容しなければなりません。

「相手が変わらなければ、自分も変われない」などと甘えたことを言えるのは、親に対してだけです。

友人や恋人、同僚など、他人にそんな身勝手な要求をすることはできません。

「いい子」から脱するためには、「悪い子」という通過点を経験することが不可欠です。

けっして「悪い子」を奨励するわけではありませんが、

少なくとも自分の意志と欲求に目覚め、堂々と自己を主張している分だけ、「いい子」よりも積極的な生き方だといえます。

「悪い子」を経験することによって、

はじめて「いい子」だった自分と比較し、冷静に見つめ直すことができます。

「いい子」を演じるのがつらいのと同じように、開き直って「悪い子」に徹するのもまた、苦しいものです。

では、どうすればよいのか。

他人に屈するのでもなく、我を押し通すのでもなく、

「自分の気持ちを大切にしながら、他人も尊重する」

という第三の道が見えてきます。

どんな子供も、自分の気持ちを理解してもらい、受け入れてもらえば、やがて自分の足で幸福に向かって歩み始めます。

自分の心に正直に生きている人は、

けっして自己主張の激しいわがままな性格にはならず、むしろますます謙虚に、他人を尊重することができるようになるものです。

親は、子供を信じるというのであれば、

「親の気持ちを判ってくれる」ことを信じるのではなく、

「いつか自分の意志に目覚めるときがくる」

という子供自身の能力、生命力を信じるのはいかがでしょうか?

人に強要され、人の期待に合わせるだけの人生は、

どれだけ努力しようとも、充実感はえられず、虚しさだけが残るものです。

「いい子でも悪い子でも、どちらでもいいじゃないか」

と、

こだわりを捨ててはじめて、活き活きとした前向きな人生を送ることができるのではないのかなぁ。。。と思う今日この頃です。

 

 

~感想~

娘が小学4年生か小5年生だったころ、学校の宿題の丸付けをしていて、

答えが間違っているので〇を付けずに、「ここ間違ってるよ?直してね。」

というと、「は?間違ってないし…、答えが間違ってんじゃん?」と連日、

逆切れされる時期がありました。どうも、宿題があること自体にも不満があり、

しかも、やったのに間違っていて、もう一度やり直さなければいけないなんて、

あり得ない!ということらしいのですが、当時の私は、「何言ってんの?

宿題なんだから、ちゃんとやりなさい!遊びに行くのは終わってからね!(怒)」

と答えておりました。

ちょうどその頃、小学校の先生をしている友達と会う機会があり、

最近うちの子ね…と相談してみたところ、先生は、

「ねぇねぇ、仕事してるとき、出勤途中、あー今日は会社行きたくないな~

って日あったよねぇ。その時、友達に今日は仕事したくないなぁ~って言ったら、

「何言ってんの?仕事なんだから、ちゃんとやりなよ。」って言われたらどうする?」

と言うのです。「そりゃ、そんなことわかってるよ~。いや、仕事には行きますよ。

ちょっと言ってみただけじゃん。」と言ったら、「娘ちゃんもそれと同じだよ」と言うのです。

ただ、面倒だね~、大変だよね~って共感してほしいだけ。

やらなきゃいけないこともわかってるし、やらないわけでもない。

ちょっと言ってみただけなのだと。

 

『どんな子供も、自分の気持ちを理解してもらい、受け入れてもらえば、

 やがて自分の足で幸福に向かって歩み始めます。』

 

そうなんですよね。受け入れること、大事だな、と改めて感じました。

 

こんにちは、八王子市七国にあります年中無休の歯科医院ななくに歯科サポートスタッフの中山です。

今日は私が感想を書かせて頂きます。

 

今日の555!!!(第2910回)

昨日も誰かと自分を比較して、凹んだり、自信をなくしたり、嫉妬したりしませんでしたか?

人と自分を比べてしまって、自分のダメなところばかりが気になってしまうという人は少なくありません。

「自分は自分、人は人」
そう自分に言い聞かせて、自分と人をを比べるのを止めようとしても、
友達に会う度に、誰かに出会う度に、町中で見知らぬ人とすれ違うたびに、気づけば、
「あの人は○○なのに、私は・・・」
と思ってしまう。

でも、
人と自分とを比べること、それ自体は自然なことです。

あなたの見た目も中身も、他の人と違っているわけですから、
人と自分の違いを感じるのは自然なこと。

問題なのは、人と比べて人との差を感じたときに、
自分が人より劣ってるとか優れてるといった、
関係のない話に結びつけてしまうことなのです。

亀とウサギでは、ウサギの方が何倍も足が早いですが、
だからと言って、ウサギの方が優れた存在だと言えるでしょうか?

犬とハムスターでは、犬の方が頭がいいですが、犬の方がハムスターよりも優れた存在だと言えるでしょうか?

それぞれ違う特性を持っているだけで、
優れるとか劣るとかの問題ではありませんよね。

動物を例に出すと、すんなり納得出来ますが、
人は自分のこととなると、ついつい、
自分と人との違いを、優劣に結びつけてしまうようなのです。

例えば、
あなたより優しい人、
あなたより美人な人、
あなたよりスタイルがいい人、
あなたより頭がいい人、
あなたよりモテる人と自分とを比べて、

「自分なんかダメだ・・・」

と思ってしまった事があるのではないでしょうか?

あなたが世界一美人でスタイルが良くて頭が良くて仕事もできて・・・・な完璧な人間でない限りは、
自分より優れた部分のある人など、世の中に沢山いるものです。

人と自分の違いで、自分の優劣を決めてしまう習慣がある限り、人と比べて、落ち込んだり疲れてしまう・・・という状態からは抜け出せないのかもしれません。

では、どうして人との違いと自分の優劣とを結びつけてしまうのでしょうか?

多くの人が、「自分はこうありたい」という願望を持っています。
キレイでありたい、かしこくありたい、豊かでありたい・・・・。

ですが、
キレイであるかどうか、
かしこいかどうか、
豊かであるかどうか、
という判断に絶対的な基準があるわけではないため、
どうしてもこのような願望は、特に、競争社会で生きる私たちですから、
「人よりも」キレイでありたい、
「人よりも」かしこくありたい、
「人よりも」豊かでありたい・・・
という願望にすり替わりやすいのです。

「人よりも」◯◯でありたいと思っているからこそ、人と自分を比べて、
「私はこの人よりも◯◯だ」→OK
「私はこの人よりも◯◯でない」→NG
という判別が、無意識に行われてしまうのですね。

冷静に考えれば、
「人よりも」◯◯でありたいという願望が完全に叶うことなどありえません。

たとえ、人よりもキレイでありたいという願望を胸に、ミス・ユニバースに輝いたとしても、それが、世界一キレイであることの証明になるでしょうか?

そうは思えませんよね。

世界一キレイであるためには、何が必要でしょう?
そもそも世界とは、何でしょう?

考えればキリがなく、そこに答えは存在しません。

そんな風に頭ではわかっていても、
「人よりも」優れていたい、
「人よりも」◯◯でありたい、
という願望が、クセのように体に染み付いているために、誰かと出会う度に自分に点数をつけ、一喜一憂を繰り返してしまうようです。

人と自分を比べて、苦しむことの原因は、
「人よりも」◯◯でありたい、という願望にあるとしたら、
苦しみをなくすには、この願望をなくす必要があると言えます。

「人よりも」○○でありたいという願望に対処するのは難しいのですが、
有効な方法として、
「ナンバーワンより、オンリーワンを目指す」考え方があります。

例えば、あなたが「キレイでありたい」という願望を持っているなら、
「他の誰よりもキレイ」より、
「他の人にはない、独特のキレイ」を目指す方向へ、意識を向けてみるんです。

「万人に認められるキレイさ」よりも、
「一部の人に愛されるキレイさ」を、

「優れている」ことよりも、
「個性的である」ことを
目指す。

「最優秀賞」よりも、「審査員特別賞」を目指す感じ(笑)

これはどういう事かというと、
「相手と比べて自分の方が優れている」と言えるかどうかは、
相手がどんな人であるか?に依存しているため、
一喜一憂する事になりますが、
「相手と比べて、自分の方がより個性的である/独自性がある」
と言うことは、相手がどんな人であっても、ほとんどの場合可能なのです。

私たち一人一人には、必ず個性、人と違う部分があるのですから、これは当然と言えば当然ですね。

その結果、人と自分を比べても、落ち込む事が圧倒的に少なくなるんです。

自分より何倍も綺麗な人を目の前にしても、
自分が負けているとかみじめだとか思う前に、
「この人は、最優秀賞をもらう程キレイだけど、私は審査員特別賞を目指しているから、この人は私の敵ではない。」
といった風に、さらりと受け入れる事が出来るようになります。

また、「オンリーワンを目指す」ことが定着すると、人と自分を加える回数も、自然と少なくなっていくはずです。

「ナンバーワンから、オンリーワンへ」。

気持ちの切り替えは難しいかもしれませんが、
ただ単に「人と比べるのを止める」よう努力するよりは、
はるかに現実的な対処法ではないでしょうか。

 

(感想)

多くの人は他人を見て自分と比べ、

その対象の良いところばかりが目に入り

自分のマイナスの部分を思うばかりで

なかなか自分の良いところに注目することが

難しい状況に置かれています。

しかし、

自分が思うように他人にもそんな悩みがあり、

自分から見た他人、

他人から見た自分というように

状況を見てみれば多くの人と

同じ場所に立っていることと

同じなのかもしれない。

そう考えれば

少しは気が楽になるかもしれません。

そんな事を考えるきっかけになりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こんにちは。

東京都八王子みなみ野七国にあります年中無休の歯科医院ななくに歯科サポートスタッフ平塚です。

 

本日は私が院長の投稿を見ての感想を述べます。

 

今日の555!!!(第2935回)

甘やかす。

この言葉にみなさんんはどんなイメージをお持ちでしょうか?

...

ちなみにですが

子供のころに親に充分に甘えさせてもらえなかった人は、
大人になって人格にさまざまな問題が生じてくることをご存知でしょうか?

むしろ、甘やかすことの方が、大人になって、さまざまな問題があると信じて、甘やかすことは

悪いこと

だと思っているでしょうか?

「もっと甘えさせてもらいたかったのに」

と、心にしこりを残しながらも、大人になれば甘えは許されないのだ、という葛藤に苦しみます。

その結果、甘えたい欲求の反動で、他人に心を閉ざしたり、攻撃的になったりしてしまいます。

しかし、人間は誰でも、他人に甘えながら生きているのです

甘えることは恥ずかしいことではありません。

甘えを自覚していないことの方が、よっぽど恥ずかしいことです。

「甘える」と言っても、恋人同士が猫なで声でじゃれ合うのとは、少し意味が違います。

大人としての責任や義務を放棄して権利ばかりを主張する、
いわゆる「甘ったれる」のとも違います。

ここでいう「甘え」とは、
「他人と互いに依存し合って生きているということを自覚する」
ことです。

人間は誰でも、他人との関わり合いの中で生きがいを見出して生きています。

無人島で一生ひとりぼっちで生きていかなければならないとしたら、
何の喜びも感じられないでしょう。

人は、他人に依存しなければ生きていけないのです。

暴走族は、決して街外れの人のいないところで暴走行為をしたりしません。

必ず、人の目に付くように行います。

社会に背を向け、世間を敵に回すのであれば、
自分たちだけで好きなように生きていけばいいものを、
結局はそれだけの強さもなく、
社会との関わりの中でしか自己を認められないのです。

他人に迷惑をかけることで、姑息な優越感を得ています。
すなわち、大いに他人に依存し、甘えているのです。
妻に暴力を振るう夫も、甘えています。

普通、赤の他人に暴力を振るえば、
警察に捕まり、罰せられます。
妻だから許してくれる、と甘えているのです。

許されることで、自分が受け入れてもらっているという錯覚を起こしています。

家出や非行を繰り返す少年少女も、
まわりの人間がどこまで自分のことを真剣に心配してくれるかを試しています。

わざと問題行動を起こすことで、
「こんなにまで傷ついた自分の気持ちを誰かに理解してほしい」
と望んでいるのです。

店員に偉そうにする客や、
会社でふんぞり返っている上司も、
本当は劣等感が強いから、
立場上自分に逆らえない人間に対していばることで、
ちっぽけな自尊心を保っています。

いくら偉そうにしたくても、
無人島でひとりきりでは、
偉そうにできません。

自分を誇示する対象としての他者を必要とするのです。

他人をバカにしておきながら、
実は、
「偉そうにさせてくれる相手」
として、他人を必要とし、依存しているのです。

(自分に偉そうな態度をとる人に対しては、
「この人は、自分に認めてほしくて甘えているのだな」
と思っておけばよいでしょう)

どんなに強がっていても、
いばっていても、
人は誰でも、
他人に甘えて生きています。

世の中には、適切な甘え方を知らない方々が沢山いるのです。

「自分は誰にも甘えることなく生きている」
という人がいたら、
それは思い上がり。

ただ甘えを自覚していないというだけのことです。

そういう人は、他人の甘えも許すことができません。

自分は他人に依存しておきながら、
他人に感謝する気持ちもありません。

大人だって、素直に甘えていい。(^∇^)

「甘えたい」という欲求を素直に自覚することで、
多くのストレスや悩みは解決するでしょう。

自分を他人に受け入れてもらうかわりに、
自分も他人を受け入れてあげる、

それが人間関係の基本です。

上手に他人に甘え、また他人にも甘えさせてあげましょう。

 

(感想)

ここでいう「甘え」とは、
「他人と互いに依存し合って生きているということを自覚する」
ことです。

人間は誰でも、他人との関わり合いの中で生きがいを見出して生きています。

に共感し選びました。

 

私(人)は、「他人や環境に甘える生き物だ」という事を素直に認め、

「甘える」行為を健全な方法で満たさないといけないなぁと思いました。

素直に甘えられない状況の中では、

ストレスが溜まり、それにより不健全な方法で満たそうとしていくことは避けなくてはいけないと感じます。

 

最後の文章の、

自分を他人に受け入れてもらうかわりに、
自分も他人を受け入れてあげる、

それが人間関係の基本です。

上手に他人に甘え、また他人にも甘えさせてあげましょう。

とあったように・・・

何事も、ギブアンドテイク!(*^^)v

まずは自分から与えてから、自分にも与えてもらう💕

 

今日も沢山甘させてもらい、

それ以上に、

沢山甘えさせてあげたいと思います。

こんにちは。

東京都八王子みなみ野七国にあります年中無休の歯科医院

ななくに歯科サポートスタッフ平塚です。

本日は私が院長の投稿を見ての感想を述べます。

 

今日の555!!!(第2916回)

こんな時だからこそ。。。。。

輝く人になりたい!!...
と思うことは誰しも人生のなかで、一度は思うことがあるかもしれません。

光り輝く人
希望を与えてくれる人
勇気をくれる人

僕らの周りには、このような、
人にいろいろな力を与える人が必ずいます。

そして、僕らは、
いつか、自分もそのような人になれれば・・・
と思うわけであります。

でも、
そのようになりたいと思っても、
そう簡単になれないなぁ・・・・と
僕たちは、思ってしまいがち。

それは、なぜかと言えば、
光り続ける難しさや、
光の孤独さを感じたからかもしれません。

あなたが、日々、いろいろな事をとりくんだり、
仕事をしたりすることは、
暗闇の中でたいまつを灯すようなことかもしれません。

たいまつの光は、確かに明るいけれど、
そんなに先まで、明るくなることはありません。

そして、たいまつを持っていること自体が
熱いし
重たいし
大変かもしれません。

先も見えず
持っている自分もつらい。

自分が光となって灯せる範囲も
こんなもんか・・・
と凹むかもしれません。

しかし、みなさんは、知ってらっしゃるでしょうか?

たいまつの灯が、
遠い遠いところにいる人に
見えていることを。

光とは
ほんと、不思議なものであります。

自分が持っているたいまつの灯は、
そんなに広く明るくさせていなくても、
遠く遠くにいる人にその灯の光を届けているという事実に気がついほしいのであります。

太陽と地球の間も暗闇です。
光のぶっとい道があるのではありません。

光を発している自分自身は、
自分の光がどこまで、光っているのか
本当は、わからないのであります。

光になりたい!!
と僕らは思います。

しかし、光になるために、
いざ、光ってみると気が付きます。

想像以上に、
周りが明るくならないことに。

想像以上に
遠くを照らせず暗いことに。

そして、
宇宙の中で、ポツンと存在する
太陽のように
孤独なのであります。

光を見た人とにとっての光
光を発している人にとっての光

それぞれの光の見え方は
とんでもなく、違うのであります。

光になることを憧れた人ほど、
その自分のまわりの暗さに苦しみ悩み孤独を感じるこでしょう。

それはそれは、
先ほど言った暗闇の中で灯す
たいまつのようなもので、
それが、もし、夜の山の闇の中であれば、
数歩先までしか、
灯せないのであります。

でも、その灯は、
今、たいまつを持っているあなたが、見える明るさの範囲の人しか見えないのではなく、
遠く遠く離れた人に、
確実に
光り輝いて見えているのであります。

光は、孤独です。
光は、孤独なのであります。

でも、
本当に光り続ける人は、
この孤独さには、興味もなければ、
孤独だとも思っていません。

たいまつも
太陽も
みんなみんな光っているそのものの人は
光をどこまで届けるかには
興味がないのであります。

光を孤独だと思うのは
あくまで、光を見ている人の立場からの視点。

光を孤独だと思うのは、
あくまで、光に憧れた人の立場の視点。

本物の光の光源は、
ただただ、
周りにお構いなく
燃え盛るもの
なのであります。

光源は、
誰かに見られるために
誰かに見られることを
エネルギーとしているのではなく
今そこにある
燃やすものをもやすこと!!
にしか興味がないのであります。

決して、どこまで、光が届いているかで、
自分がこれからまだ、光るか光らないかを決めていはいません。

本当にもし、
光り輝く人生を歩むことに憧れているのだれば、
光っている灯の範囲を気にするのではなく、
ただただ、
自分のすぐそばにある燃やせるものを
燃やしまくることが、
大切なんでしょうね。

 

(感想)

光を発している自分自身は、
自分の光がどこまで、光っているのか
本当は、わからないのであります。

に共感し選びました。

 
輝いている人は、
自ら、輝こうと思って輝いているのではないだと思います。
その人の前向きな考え方、他人を思いやる心、謙虚な気持ちなど・・・
内面的な美しさがそのように表現されているのかと思います。
 
私の周りにも
なぜか分からないけどキラキラと輝いている人がたくさんいます。
しかし、ずっと輝き続けている人は少ないのかなぁと感じました。
何事も「継続」は難しいものです・・・。
 
周りの人に
勇気や感動、感謝など、愛を与えられる人間であり続けたいと思うからこそ、
まずは自分がどうありたいのかを追求し、日々探求し続ける必要があると感じました。

 

こんにちは。

八王子市みなみ野七国にあります

年中無休の歯科医院

ななくに歯科サポートスタッフの谷崎です。



今日の555!!!(第2934回)


子育てで、子どもを抱っこをする男性は多いみたいだけど、

『抱きしめる』

っていうことをしている男性は少ないみたいだよ。


子どもと一緒にいて

お母さんが

抱っこするのに疲れたから

代わりに

お父さんが

抱っこすることもあるよね。


でも。


それだけで、満足してる男性も多いとか。()


それって

場合によっては

ただ

荷物としてもってあげているだけ

ってこともあるからね。


どうだろう?


『ちょっと、あなた、変わってくれる??』


『はい。はい。』


みたいな感じで

抱っこしてるってこと

あるんじゃない?


もちろん、しないよりかは、したほうがはるかにいいと思うよ。


でもね。


心と心の会話をしたくて

『抱きしめよう』

と思って

抱っこしようとする人も

いるんだよ。


『抱っこ』

ってただの移動手段だけじゃないんだよ。


だから

あえて

なーーーーんにも移動する時でない時に


『大好きだよ』


『愛しているよ』


『生まれてきてくれてありがとう』


『あなたには価値があるよ』


っていう想いを

ぎゅーーーーー

って

表現してあげることだって

男性だってできるのにね。


(^^)/


じゃぁ

抱きしめることをしない男性が悪い?


いやいや

それも違うの。


ただただ

知らないだけだから。


抱っこは

一種の移動手段

と思わせてしまっている

家族関係

みんなで改善すればいいだけ。


もっともっと

意識しよう。(^^)/


抱っこ


抱きしめる


ってことは

意味が違うってことをね

(^^)/



感想

わたしの持っている情報として、抱きしめるという行為はストレスを半減させる効果があると聞いたことがあります。

そして、愛が伝わる行為だと思います。


お子様の成長は早いと思います。

ぎゅーっと抱きしめてあげてぜひ、たくさんの愛をお子様に伝えていただきたいと思いました。そうしてたくさん愛を伝えてもらったお子様は成長したときに、今度は同じように愛を伝えられる側の人になっているんじゃないかと思います。


わたしもお母さんと言われる時がくるのであれば、たくさん抱きしめてあげたいな〜とこの555を読んで思いました(*´ェ`*)ポッ

こんにちは。八王子市七国にあります年中無休の歯科医院

ななくに歯科サポートスタッフの中石です。

 

今日の555!!!(第2934回)

子育てで、子どもを抱っこをする男性は多いみたいだけど、
『抱きしめる』
っていうことをしている男性は少ないみたいだよ。

...

子どもと一緒にいて
お母さんが
抱っこするのに疲れたから
代わりに
お父さんが
抱っこすることもあるよね。

でも。

それだけで、満足してる男性も多いとか。(笑)

それって
場合によっては
ただ
荷物としてもってあげているだけ
ってこともあるからね。

どうだろう?

『ちょっと、あなた、変わってくれる??』

『はい。はい。』

みたいな感じで
抱っこしてるってこと
あるんじゃない?

もちろん、しないよりかは、したほうがはるかにいいと思うよ。

でもね。

心と心の会話をしたくて
『抱きしめよう』
と思って
抱っこしようとする人も
いるんだよ。

『抱っこ』
ってただの移動手段だけじゃないんだよ。

だから
あえて
なーーーーんにも移動する時でない時に

『大好きだよ』

『愛しているよ』

『生まれてきてくれてありがとう』

『あなたには価値があるよ』

っていう想いを
ぎゅーーーーー
って
表現してあげることだって
男性だってできるのにね。

(^^)/

じゃぁ
抱きしめることをしない男性が悪い?

いやいや
それも違うの。

ただただ
知らないだけだから。

抱っこは
一種の移動手段
と思わせてしまっている
家族関係

みんなで改善すればいいだけ。

もっともっと
意識しよう。(^^)/

抱っこ


抱きしめる

ってことは
意味が違うってことをね

 

感想

男性が子供を抱っこするのは時代が違うのか?自分の子育て時代にはあまり

見たことがないかも知れません。子供と手を繋いで歩く、、、はあります。

男性も積極的に子育てに参加することは良いことだと思います。

八王子みなみ野 七国にあります、

年中無休の歯科医院 ななくに歯科 サポートスタッフ阿部です。

555を読んでの感想を書きます。

 

 

今日の555!!!(第2934回)

子育てで、子どもを抱っこをする男性は多いみたいだけど、
『抱きしめる』
っていうことをしている男性は少ないみたいだよ。

子どもと一緒にいて
お母さんが
抱っこするのに疲れたから
代わりに
お父さんが
抱っこすることもあるよね。

でも。

それだけで、満足してる男性も多いとか。(笑)

それって
場合によっては
ただ
荷物としてもってあげているだけ
ってこともあるからね。

どうだろう?

『ちょっと、あなた、変わってくれる??』

『はい。はい。』

みたいな感じで
抱っこしてるってこと
あるんじゃない?

もちろん、しないよりかは、したほうがはるかにいいと思うよ。

でもね。

心と心の会話をしたくて
『抱きしめよう』
と思って
抱っこしようとする人も
いるんだよ。

『抱っこ』
ってただの移動手段だけじゃないんだよ。

だから
あえて
なーーーーんにも移動する時でない時に

『大好きだよ』

『愛しているよ』

『生まれてきてくれてありがとう』

『あなたには価値があるよ』

っていう想いを
ぎゅーーーーー
って
表現してあげることだって
男性だってできるのにね。

(^^)/

じゃぁ
抱きしめることをしない男性が悪い?

いやいや
それも違うの。

ただただ
知らないだけだから。

抱っこは
一種の移動手段
と思わせてしまっている
家族関係

みんなで改善すればいいだけ。

もっともっと
意識しよう。(^^)/

抱っこ


抱きしめる

ってことは
意味が違うってことをね
(^^)/

 

~感想~

先日、3歳の姪っ子を一泊二日で預かる機会があり、

5歳の末娘が一生懸命お姉ちゃんらしくお世話をしていました。

5歳の小さいお姉ちゃんなので、至らない点も多く、

その度に中学生の長女がサポートに入っていました。

その内、3歳の姪っ子が長女と一緒にいた方が

自分のやりたいことができると思ったか思ってないかはわかりませんが、

末娘より長女を選ぶ、

「末娘ちゃんじゃなくて、長女ちゃんと遊ぶ!」というような発言がでてきて、

しばらく我慢していた末娘が、とうとうしくしく泣きだしてしまうという事がありました。

 

姪っ子がいる間は、それでも頑張った小さいお姉ちゃん。

姪っ子が帰った後、疲れ果ててソファでぼーっとしている末娘に、

「こっちおいで、抱っこ。」と、一泊二日ぶりにぎゅーっとして、

「お姉ちゃん頑張ったね。」と言うと、「大変だった~。」と一言。

ほんの数秒でしたが、何とも言えない幸せな数秒でした。

 

555を読んで、

そういえば、子どもが大きくなると、ほとんどぎゅーっとしなくなったな…

と気付き、何だか恥ずかしくてハードル高そうですが…

大きくなった子ども達にもチャンスを見つけて、ぎゅーっとしてみようかな…

と思いました。