555を読んで

テーマ:

こんにちは。

八王子みなみ野七国にあります、年中無休の歯科医院ななくに歯科

サポートスタッフの平塚です。

 

本日は私が院長の投稿について

感想を述べさせて頂きます。

 

今日の555!!!(第2119回)

「どれだけ高く上ったか」ではなく「どちらの方向を向いているか」
ということに意味があるのではないでしょうか?

...

しかし、ついつい僕たちは、日々の生活の中で、
「どれだけ高く上がったか!」
という「位置」に囚われれてしまい、
自分の「向き」を見失います。

たまたま不運な境遇に生まれた人は、たくさんいます。

家が貧しかった、親に愛されなかった……。

しかし、不幸とは、不運な事実そのものをいうのではありません。

不幸とは、
「自身の不運を受け入れることができず、もがき苦しむこと」
をいうのでは?

人は、与えられなかったものに執着し、
劣等感を埋め合わせるために、
それを過度に求めてしまいがちです。

貧しかった人はお金に執着し、
愛を得られなかった人は愛に執着します。

それは、本当の幸せを求めているのではなく、自身の不安をごまかそうとしているにすぎません。

どれだけ走っても、走っても、ゴールは見えず、精神は疲れるばかりです。

人間にとって大切なことは、「位置」ではなく、「向き」だと思うんです。

「自分の人生は、こんなはずではなかった」
と、自身の不運を認めることができず、
逃げてばかりいる人は、永久に幸福にはなれないと思うの。

不運な目にあったときには、そこから逃げようとするのではなく、
まず、「こういうことも起こりえるのだ」と、
自分の置かれた位置を冷静に認めなるほうがいいんじゃないかな?

経験を積み、成長すれば、つらいことや悲しいことがなくなるわけではありません。

どんなに心の豊かな人でも、悲しい目にあうことはあるし、
世の中の理不尽に憤慨することもあるし、
他人から裏切られることもあります。

予期せぬ不運に見舞われ、どん底に突き落とされることもあるでしょう。

しかし、現在の自分の位置がどこであろうとも、
自分が望む自分の姿を心に描くことができていれば、
迷ったり悩んだりすることはないんじゃないかな?

どれだけ努力しても達成感を得られず、
つねに自分に不満を抱いている人は、
虚栄心と向上心をはき違えているのかも。( ◠‿◠ )

不運を不運としていさぎよく受け入れることは、
けっして幸福の妨げにはなりません。

「どれだけ高く上ったか」ではなく、
「どちらの方向を向いているか」
ということに意味があります。

たとえどん底の状態にあっても、
自分のあるべき姿が判っている人は、
幸せです。

「位置」は変わらなくとも、
「向き」を変えるだけで人生は大きく変わります。

世界中の高級料理を食べ尽くして、どんなうまい料理にも舌が満足できなくなってしまった人と、
一杯のご飯のありがたみを噛みしめながら食べられる人と、
どちらが幸せでしょうか。

本当に幸せな人とは、
特別な幸運に恵まれた人のことではなく、

「当たり前のことに喜びを感じられる人」

のことなんだと思うんだけどなぁ

 

『コメント』

たとえどん底の状態にあっても、
自分のあるべき姿が判っている人は、
幸せです。

「位置」は変わらなくとも、
「向き」を変えるだけで人生は大きく変わります。

という言葉に感銘を受け、こちらの記事を選びました。

 

まずは何事も、

いかに目的が大事なのか、ということを再認識した投稿でした。

 

大きな変化や成果だけを認めるだけではなく、

毎日の小さな変化や成果をも見逃さずに

それに対する感謝や承認、そして、幸せにをも受け止められる器が

自分自身にあると、

本当に幸せな人生を歩めるのだなぁと感じました。

 

当たり前だと思う事こそに

感謝の意を抱ける人でありたいと常に思っています❤

 

できていなこと、ばかりではなく、できていること。

にフォーカスし、物事を捉えることで

大きな一歩を踏み出す勇気にもつながるのだと

自信を貰えたものでした。

 

これからも医院や院長が目指す方向を一緒に向いて

共にお仕事を通じ、沢山の患者様に貢献できる自分で居続けられるように努めたいと思います。

沢山の気づきを、ありがとうございました。

555を読んで

テーマ:
こんにちは( ・∇・)
八王子みなみ野
七国
にある。
年中無休の歯科医院
ななくに歯科 サポートスタッフの松下です。
院長先生の「今日の555!!!」を読んで…


今日の555!!!(第2138回)

ほったらかしにせず、でも余計なことをしないって言う関係を築けていますか?

今の子どもたちは、こういう関係を築いてもらえず、
『ほったらかし』にされているか、
『余計なこと』をされているのか
のどちらかなのかもしれません。

そして、最悪は・・・
余計なことをされながら、ほったらかしにされている子どもも少なくないのかもしれません。

子どもにとって、必用な事は、

『余計な干渉はされたくない、しかし、同時にほったらかしにもされたくない』

ということ。

子どもが主体性を育む環境とは、まさにこの環境のことであり、
遠くから、あるいは、そばに一緒に居て、大人がじっと見守っていてくれて、
じゃまをされないで、
自分がしたいことができ、
しかも、
それが、許されているという『安心感』のなかで、
子どもは、自分と世界を確かめながら、
自分のペースで、主体性を育んていくのであります。

余計な干渉
は、彼らを
『閉じ込める枠』
であります。

ほったらかしにしないで見守る
のは、彼らに安心を与える
『守りの枠』
であります。

教育熱心という名のもとに、
子どもに
『手を出し過ぎる親』
であったり、
心配性という名のものとに、
子どもを
『見守ることができない親』
であったとき、
それは、子どもを窮屈に閉じ込める『枠』を押し付け、
子どもに
見守られているという安心感をもたらす『枠』を与えません。

したがって、こういう子育てのなかで育った子どもは、
自分を閉じ込める『枠』は知っているけれど、
自分を守り、安心されてくれる『枠』を知らずに育ちます。

そして、そんな子どもが、大人になった時、
当り前だけれど、
『守りの枠』をしらないのだから、
さらに、『閉じ込める枠』を相手に提供することが
幸せであると
思ってしまいます。

学校とは、当然、
『守りの枠』
のはずです。

しかし、どうでしょう・・・

いまは、
『閉じ込める枠』
となってはいないでしょうか?

そして、子どもたちにとっては、
大人の『余計な干渉』によって、毎日が予定だらけで、
日々、何かを急いで生活しなければならない状況で
まるで、子どもたちの生活が
『高速道路』
みたいな信号もない時間の過ごし方になっているのではないでしょうか?

そして、いつしか、『余計な干渉』は、
『競争レース』という枠を創りだし、
子どもたちをいつのまにか、枠に閉じ込める
『拘束道路』
という道路を走らせているのではないでしょうか?

何かをせずにはいられない・・・

という今の大人の悩みは、
きっと、子どもの頃のこんなことから始まったのかもしれません。

『守りの枠』をしらない大人にとって、
攻撃こそ最大の防御であると勘違いし、
日々、仕事をせずにはいられない状態となり、
更に、仕事の成果や名誉という枠をつらないと
生きていけなくなってしまうのかもしれません。

自分を自分で認めてあげれない・・・
という自分を肯定できない能力は、
『守りの枠』
という
『安全基地』
が存在しなければ、なかなかつくることができません。

もし、私たち大人が、
ほんとうは、やすみたいんだけれど、
ほんとうは、一回止まりたいんだけれど
ほんとうは、自分を自分で認めてあげたいんだけれど、
と思っているのであれば・・・・

まずは、
『守りの枠』
を大人同士でつくりあい、
子どもの頃に知らなかった枠を
体験して、
これらのことを手に入れ、
そして、その価値を知り、
目の前の子どもたちに
『守りの枠』
の精神で、接していければいいですよね。

【感想】
「ほったらかし」にせず「余計なこと」をしない。とってもむずかいなぁ…と、感じました。
私はきっと後者の方です。
子どもへの期待や心配、もっと○○になどと親の欲が出てしまい、気がつけば口うるさい親、手を出し過ぎる親になってしまっていたという方も多いのではないでしょうか。
子どもの主体性を育むためには、「ほったらかし」にせず「余計なこと」をしない…
見守り・導き・見とどける
「大丈夫だよちゃんと見ているよ。」という安心感。を与えてやる事が大切ですね!

私も、実践してみたいと思います(*´ω`*)


2018/10/17

テーマ:
こんにちは
八王子みなみ野七国にあります
年中無休の歯科医院ななくに歯科のサポートスタッフ大用です

今日は私が院長の555を読んで
感想を述べさせて頂きます




今日の555!!(第2113回)

勇気を出して、
「自分が幸せである理由」を見つけてみませんか?

もう、自分で、自分の不幸をみることを、やめてみませんか?

人にはそれぞれ、恵まれている点とそうでない点があります。

あらゆる点において恵まれている人はいませんし、すべてが不幸な人もいません。

一見恵まれているように見える人でも、その人なりの苦労や悩みがあるのです。

しかし、自分を好きになれない人、自分を卑下してしまう人は、
「私は何もかもが最悪」で、「この世で私だけが不幸」だと思い込んでいます。

そういう人は、幸せが目の前に転がっていても、見えていません。
いえ、見ようとしないのです。

「健康な身体があり、住む家があり、家族がいる。与えられたものに感謝すべきではないですか」
と言われると、
「そんな当たり前のことに感謝などできない」
と反論します。

「世の中には、もっと恵まれない立場の人もいるのですよ」
と言われれば、
「自分より恵まれている人もたくさんいるではないか。不公平だ」と言い返します。

「他人の役に立つことをすればどうですか」
と言われれば、
「自分のことで精一杯で、他人のことを考える余裕はない」。

まるで、自ら幸せになることをかたくなに拒否しているかのようなのです。

自分を不幸だと嘆いている人は、なぜわざと幸せから目を背けようとするのでしょうか。

その理由は、
「自分にも恵まれている点がある」
ということを認めてしまえば、
自分の人生がつまらない(と思っている)ことに対して言い訳ができなくなってしまうからです。

「私は容姿がみにくいから、愛されないのだ」
そう言っておけば、自分が愛されないことについて、
「自分の努力ではどうしようもないのだ。自分が悪いのではない」
と言い訳ができます。

「容姿が美しくなくても、皆から愛されている人はたくさんいますよ」
と言われれば、今度は、
「そういう人は、優しい親に愛されて育ったからだ。私は親に愛してもらえなかったから、自分に自信がもてないのだ」
と、新しい「不幸の理由」を主張します。

「親に見捨てられても、立派に生きている人はたくさんいますよ」
と言われれば、
「そういう人は、たまたま才能に恵まれていたからだ。私には何の取り柄もないのだから、仕方がない」
と、さらに言い訳をつくろいます。

私は不細工で、しかも貧しくて何の取り柄もなく、そのうえ誰からも愛されずに育ち、なおかつ幸運の女神にも見放され……。

自分だけが世界中の不幸を背負い込んでいるかのように、
言い訳に言い訳を重ねてしまうのです。

「自分は何も悪くない」ということを証明するために、
徹底的に自分を卑下するという、矛盾したことをやっているのです。

しかし、そのような理屈は、どうしても筋が通りません。

自分が一番不幸であるなら、もうとっくにこの世にはいないはずです。

いろいろつらい目にあいながらも、
何とか生きてこられたということは、
充分に幸福であったということなのです。

自分の努力が実ったか、
誰かの助けがあったか、
たまたま幸運が重なったおかげなのです。

「不幸である理由」を数え上げればきりがないのと同じように、
「幸福である理由」も探せばいくらでも見つかるのです。

自分を改めようと思えば、
いやでも
「これまでの自分の考え方が間違っていた」
ということを認めざるをえません。

言い訳ばかりして先に進もうとしない人は、
「自分が間違っていた」
ということを認めてしまえば、自分の価値が完全に否定されると思い込んでいるのです。

「自分が間違っている」ということを認めたくないから、他人のせいにする。

他人のせいにしている自分の卑しさを認めたくないから、自分を責める。

その堂々巡りで、いつまでたってもうっぷんは晴れず、心は疲れ果ててしまうのです。

「自分が不幸であること」のどんな言い訳も、
突きつめれば「自分の考え方が間違っている」
という結論にたどり着いてしまいます。

自分を好きになれないという人は、
「間違いを認めようとせず、言い訳をしている自分」
が好きになれないのではないでしょうか。

自分の間違いを認めようとしない人は、正確に言えば、
「間違いをあまりにも深刻にとらえすぎている」
のです。

「間違っていた」といっても、道徳的な罪を犯したわけではなく、
単に「やり方が間違っていた」というだけのことです。

別にそれは怖れるほどのことではないのです。

自分の考え方が間違っていたために、
自分が損をした。
ただそれだけのことで、
悪意をもって他人を傷つけたりしたのではないかぎり、
誰からも非難されるいわれはないのですから、
罪悪感や自己嫌悪を感じることはありません。

数学の公式を間違って覚えていた人が「悪い人」ではないのと同じことです。

間違いに気づいたなら、それを改めればよいだけのことなのです。

うまくいけば、よし。
うまくいかなくても、それもまたよし。

思い通りにならなくても、人間はそこそこ幸せに生きていけるのです。

勇気を出して、
「自分が幸せである理由」を見つけてみましょう。

間違いを改めないことを非難されることはあっても、改めて責められることはないでしょう。



<感想>

私の母は良く
自分の今いる場所は自分にとって1番幸せな場所なんだと思いなさい
と言っていました
本当はもっと辛い場所にいたかもしれないよ?と続けて言います
生きていれば笑って過ごせる事ばかりではありませんが
今の自分を蔑んだり周りを羨んで過ごしても
自分は何も楽しくないと言うことだと思います
沢山を望まず自分の大切な人と当たり前の事を出来る毎日が幸せだという事を
院長先生のブログを読んで
母の言葉を思い出し
幸せを見つけら人でいたいと思いました

555!を読んで

テーマ:

おはようございます。八王子市七国にありますななくに歯科の大内です。

院長の555!を読んでの感想を書きたいと思います。

 

 

今日の555!!!(第2139回)

太陽のような人っていますよね。
つねにキラキラ光り、そして周りを温かくしてくれる人。
皆さんの周りにはいらっしゃいますか?
または過去、自分の人生に大きな影響をもたらした太陽のような人はいらっしゃいますか?

太陽のような人と出会うと
自然とその方に憧れ
あの人のようになりたい!!
と思ったり
あの人に認めてもらいたい!!
と思ったりするものであります。

私たちは、確実に、太陽のような人と出会えば、
ポジティブになり
未来を考えるようになり
そして
元気になります。

結論から言えば、
僕たちは
みんな太陽のような人になればいいんだと思います。

そして、それは具体的に言うのであれば、
ただただ今の置かれた今の状況や環境のなかで
まずは光り輝くということ。

仕事でもプライベートでも。

とにかく
今の自分の役割でまず
太陽のようなキラキラ光り輝く。

そして太陽がこの世に一つしかないように、
自分もまた
大切な人にとって、
世界に唯一無二の存在となり
太陽のようにキラキラ光り輝く
ことが大事ではないでしょうか?

しかし…

私たちは、残念ながら、時に、
今の置かれた今の状況や環境のなかで輝くこと選択せず、
少し遠いところで輝くことを選択することがあったります。

例えば、中小企業の社長が
自分の本業よりも
地域の何かしらの団体で
光り輝こうとしたり、
または、
地域の活性化といいつつ
常に批判的に他者や環境を批判し
誰もがなにかしらもつ
不満や苦痛を引き出し
共感を得て
光り輝こうとしたり…

でも、
それよりも
まずは、
今の置かれた自分の役割で輝くだけでいんだと思うんです。

外で輝かようとせず。

ちなみに、
生まれたての赤ちゃんは
確実に
今の置かれた自分の役割のなかで
輝くことで
多くの人から愛をもらい
実際に
いろいろと助けてもらい
成長していきます。

決して世間の評価や社会貢献なんか
考えておりません。

しかし、
赤ちゃんは
存在そのものが
社会貢献です。

人は、輝いているものに
理屈なしに
惹かれるのであります。

でも、
私たちは時に
ついつい
自分が輝くこと棚に上げ、
誰かと群れることで
社会を変えようとしたり
現状の不満を解決しようとしたりしてしまいます。

本当にそれは効果的なのでしょうか?

僕は
それよりも
まずは
今の置かれた自分の役割で
太陽のようにキラキラ光り輝く
ことが大事だと思うんです。

経営者であれば
まずは
自分の本業で
地域で一番を純粋に目指すこと。

恋人がいるのであれば
まずは
恋人の一番でいつづけること。

ちなみに太陽って、
地球のことなんか考えず
まして
人間一人一人のことなんか考えず
純粋にただただ
自分の役割に徹し、
光り輝いているんです。

でも
全ての人にとって
大事な存在です。

僕はどんな人でも
太陽のように輝くことができると信じています。

だって過去、赤ちゃんの頃、みんなみんな太陽のように輝けていたから。

だから
まずは本業重視。

他のことで輝こうとしないことが大切なことだと思うんです。

だってそれは、どこか
自分が輝くことができない言い訳を探したり
自分が輝くことの責任転嫁を
しているだけだから。

自分が感じた
太陽のようなキラキラ光り輝く人は
ほぼ、
本業で成功している人ですよ。

今の皆さんの

真の本業はなんですか?
本当にそこで輝くことをコミットメントしてますか?

まずは
自分を。

 

<感想>

一緒にいるだけでパワーをもらえる人はいます。その人は常に元気があり、いつも疲れを見せません。でも自分もそうなろうと思ってもなれないのが不思議です。挨拶一つにしてもいつも明るくしていきたいので暗い印象を与えてしまうことがあります。

でも私は常にポジティブな人は裏のネガティブな一面を常に合わせ持っていると思っています。それは悪い意味ではなくて、何かを抱えているからこそ前向きにしようと努力しているのです。それが強さです。強い人間だがらいつもポジティブなのです。その強さを持っている人が、光輝いている人間と呼ぶべき人だと思います。

555を読んで

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こんにちは。
八王子市七国にあります
年中無休の歯科医院ななくに歯科のサポートスタッフ榎本です。

今日の555!!!(第2138回)

ほったらかしにせず、でも余計なことをしないって言う関係を築けていますか?

今の子どもたちは、こういう関係を築いてもらえず、
『ほったらかし』にされているか、
『余計なこと』をされているのか
のどちらかなのかもしれません。

そして、最悪は・・・
余計なことをされながら、ほったらかしにされている子どもも少なくないのかもしれません。

子どもにとって、必用な事は、

『余計な干渉はされたくない、しかし、同時にほったらかしにもされたくない』

ということ。

子どもが主体性を育む環境とは、まさにこの環境のことであり、
遠くから、あるいは、そばに一緒に居て、大人がじっと見守っていてくれて、
じゃまをされないで、
自分がしたいことができ、
しかも、
それが、許されているという『安心感』のなかで、
子どもは、自分と世界を確かめながら、
自分のペースで、主体性を育んていくのであります。

余計な干渉
は、彼らを
『閉じ込める枠』
であります。

ほったらかしにしないで見守る
のは、彼らに安心を与える
『守りの枠』
であります。

教育熱心という名のもとに、
子どもに
『手を出し過ぎる親』
であったり、
心配性という名のものとに、
子どもを
『見守ることができない親』
であったとき、
それは、子どもを窮屈に閉じ込める『枠』を押し付け、
子どもに
見守られているという安心感をもたらす『枠』を与えません。

したがって、こういう子育てのなかで育った子どもは、
自分を閉じ込める『枠』は知っているけれど、
自分を守り、安心されてくれる『枠』を知らずに育ちます。

そして、そんな子どもが、大人になった時、
当り前だけれど、
『守りの枠』をしらないのだから、
さらに、『閉じ込める枠』を相手に提供することが
幸せであると
思ってしまいます。

学校とは、当然、
『守りの枠』
のはずです。

しかし、どうでしょう・・・

いまは、
『閉じ込める枠』
となってはいないでしょうか?

そして、子どもたちにとっては、
大人の『余計な干渉』によって、毎日が予定だらけで、
日々、何かを急いで生活しなければならない状況で
まるで、子どもたちの生活が
『高速道路』
みたいな信号もない時間の過ごし方になっているのではないでしょうか?

そして、いつしか、『余計な干渉』は、
『競争レース』という枠を創りだし、
子どもたちをいつのまにか、枠に閉じ込める
『拘束道路』
という道路を走らせているのではないでしょうか?

何かをせずにはいられない・・・

という今の大人の悩みは、
きっと、子どもの頃のこんなことから始まったのかもしれません。

『守りの枠』をしらない大人にとって、
攻撃こそ最大の防御であると勘違いし、
日々、仕事をせずにはいられない状態となり、
更に、仕事の成果や名誉という枠をつらないと
生きていけなくなってしまうのかもしれません。

自分を自分で認めてあげれない・・・
という自分を肯定できない能力は、
『守りの枠』
という
『安全基地』
が存在しなければ、なかなかつくることができません。

もし、私たち大人が、
ほんとうは、やすみたいんだけれど、
ほんとうは、一回止まりたいんだけれど
ほんとうは、自分を自分で認めてあげたいんだけれど、
と思っているのであれば・・・・

まずは、
『守りの枠』
を大人同士でつくりあい、
子どもの頃に知らなかった枠を
体験して、
これらのことを手に入れ、
そして、その価値を知り、
目の前の子どもたちに
『守りの枠』
の精神で、接していければいいですよね。

感想
子育てしている中で、ハッと気付かされた内容でした。
心配性という名のもとに、子供を『 見守る事が出来ない親』に自分自身がなっていると気付かされました。
子供が1人で頑張って靴を履いたりご飯を食べる時、ついつい手伝ってしまったり、最後まで見守る事が出来ません...。
私のこの行動で子供を『 閉じこめる枠』で育て、その後どうなるのかと考えた時、見守るという事の大切さに気づきました。
これからは『 守りの枠』の精神で接したいと思います。

今日の555を読んで

テーマ:

 

こんにちは。八王子市七国にあります、年中無休の歯科医院ななくに歯科のサポートスタッフの村上です。

今日の555を読んでの感想を書かせていただきたいと思います。

 

今日の555!!!(第2135回)

「自分は、何の取り柄も魅力もない、ちっぽけな人間だ。いったいこんな自分のどこを愛すればいいというのか」
と悩んでいる人もいることでしょう。

愛される人間になるためには、まず自分自身を愛することが必要です。
しかし、自分を愛するといっても、自分に自信のない人は、何をどうすればいいのか判らないと思われるかもしれません。

しかし、
「自分はちっぽけな人間だ」と嘆いている人は、
心の底から自分をちっぽけだと思っているわけではなく、
むしろ、自分をちっぽけな人間だと認めることができないからこそ、
悩んでいるんじゃない?

自分がちっぽけだと思うのなら、謙虚に他人から学び、自分を高める努力を続ければよい。
ただ、それだけのことです。

「自分はちっぽけな人間だ」と悩む必要はありません。

自分だけでなく、すべての人間は、しょせんちっぽけで、はかない存在なのですから。

人は皆、地球上の何十億人のひとりにすぎません。

その一生は、悠久の宇宙の歴史に較べれば、ほんの一瞬のできごとです。

心の底から「自分はちっぽけな存在だ」と認めることができれば、
「だからこそ、些細なことに悩んだり怒ったりしても仕方がない。かぎられた一生の時間を精一杯に駆け抜けて、悔いのないように生きよう」
と前向きに考えられるのです。

「特別な人」はひとりもいません。

ただし、個性は人それぞれに違います。

この世の中で、自分とまったく同じ性格、同じ体つき、同じ経験をしてきた人はいません。

この広い世界で、自分という存在は、後にも先にも自分ひとりだけです。
それだけで充分に特別なのですから、それ以上に特別であろうとする必要はありません。

人は誰でも特別であるという意味において、すべての人は平等であり、一部の恵まれた人だけが特別なのではないのです。

ここで、次のように反論される方がいるかもしれません。

「大金持ちやスーパースター、有名なスポーツ選手、歴史に名を残す人物などは、明らかに特別ではないか。自分と較べて、あまりにも不公平ではないか」

しかし、それはあくまで個人の主観にすぎません。

自分が「運や才能に恵まれ、多くの人々から注目を受ける人」をうらやんでいるから、そういう人たちが特別に思えるのです。

それを特別だと思わない人もたくさんいます。

何に価値をおくかは人それぞれなのですから、
「誰にとっても特別な人」などというのはいないのです。

世の中には、他人から注目を受けなくても、
立派に、誠実に、気高く生きている人もいます。

そういう人たちが、大金持ちやスターよりも価値が劣るなどということは、絶対にありません。

自分を愛するとは、
「自分は特別扱いされるべきだ」と思い上がることではなく、
他人と較べて優越感を抱くことでもなく、ありのままに自分を受け入れるということです。

「自分をありのままに認める」とは、
けっして「努力を怠ってもよい」という意味ではなく、
「自分を実際の自分以上に見せようとしない」ということです。

「自分にできるかぎりのことをやって、その結果を受け入れる」といういさぎよい態度のことをいうのです。

具体的にどういう行動を起こせばよいのか判らないという人は、
まず、特別なことではなく、
「ふつうのこと」を徹底的に行ってください。

礼儀正しくふるまう。
はっきりとあいさつや返事をする。
「ありがとう」「すみません」を素直に言う。
自分のことは自分でする。
決められたルールを守る。
困っている人がいたら、見て見ぬふりをしない。

これら「人間として当たり前のこと」を完璧に実行しようと思えば、
並大抵のことではありません。

私たちは、「ふつうの人間」にさえ、なかなかなれないのです。

「平凡な人生を送りたくない」と言って高望みばかりしている人は、
結局、平凡な人間にもなれないまま人生を終えることになりますよ
( ◠‿◠ )

「ふつうのこと」を心がけてさえいれば、充分に自分に自信がもてるようになるでしょう。

ふつうの生活。ふつうの人間関係。ふつうの仕事。

それに満足できない人は、どんな幸福にも満足できません。

「ふつうであること」以上の幸福はないんじゃないかな?

「自分の人生には何もいいことがない」という人は、
毎朝、目が覚めたら、「きょうは、10年間の入院生活を終えて退院する日だ」と仮定してみてください。
それだけで心は幸せに満たされ、すべてが輝いて見えるはずです。

「ふつうに生きられること」のありがたみを心から実感できるようになるでしょう。

 

感想

この今日の555を読んで、すごく勉強になりました。「自分がちっぽけな存在だ」と認めることが大事なんだと感じ、特別と思うのは個人次第で誰にとっても特別な人はいないということになるほどな、と思いました。”ありのまま”の自分でいることがなによりも大切だと感じました。

来年には就職活動が始まるので、まずはふつうのことを徹底し、当たり前を実行するのを地盤にして、自分に自信を持って挑みたいと思いました。

ありふれた普通を大切に、感謝して生きていきたいです。

 

 

555を読んで

テーマ:

こんにちは。八王子市七国にあります、年中無休の歯科医院ななくに歯科のサポートスタッフの河本です。

今日の555を読んだ感想を書かせていただきたいと思います。

 

 

今日の555!!!(第2133回)

お腹が痛い!!!
そんな時・・・
お腹が痛いせいで、仕事や勉強が手につきません。
おいしいものも食べられず、運動を楽しむこともできず、何をしても気分はすぐれません。
「ああ、お腹が痛いせいで、気分は最悪だ」と、おなかのことばかりが気になってしまいます。
しかし、もし、腹痛と頭痛に同時に悩まされていたとしたら、どうでしょう。

「せめて頭痛だけでも治まってくれれば、どんなに気分がよくなるだろう」と考えるのではないでしょうか?

そして、頭痛が治まれば、
「腹痛だけなら、何とか耐えられそうだ」と、心が安まる時も。

ひとつのことに悩み苦しんでいるときは、
さらに別の苦しみが重なったことを想定して、
「もうひとつの苦しみが消えただけでも幸いだった」
と考えれば、ずいぶん気は楽になります。

安易な気休めのように思われるかもしれませんが、
ふだん人間が感じている幸・不幸というものも、
それと似たような「比較」にすぎないのです。

恋人の優柔不断さに嫌気がさしたとき。

優柔不断の上に、ずる賢くて、わがままで、がみがみ当たり散らす人と較べてみたら、どうでしょうか。

ほかの欠点がない分、よい人に思えます。

「優柔不断だけど、誰でも何かひとつぐらいは欠点はあるから、それぐらいは大目に見ようか」
という気になるのではないでしょうか。

仕事がなかなか見つからない。

それでも、身体が健康なだけ、よかったといえます。

仕事が見つからない上に、病気やケガで思うように身体が動かなかったら、どれだけ悔しくてもどかしい思いをしているでしょうか。

病気やケガをして、自由に働けない。

それでも、献身的に世話をしてくれる家族や勇気づけてくれる友人たちがいるだけ、よかったといえます。
身体が自由にならない上に、天涯孤独だったら、どれだけ不安で淋しいことでしょうか。

職場に虫の好かない人がひとりいる。

それでも、嫌いな人がひとりしかいないだけ、よかったといえます。

給料が安くて生活が厳しい。

それでも、借金がないだけ、よかったといえます。

不満と満足は表裏一体です。
ひとつの不満が際立って感じられるのは、ほかの問題が解決されているからです。

ふつう、私たちは、無意識のうちに呼吸をしています。
風邪をひいて鼻がつまったり、はげしく咳き込んだりしたとき、はじめて、楽に呼吸ができることがどれだけありがたいかが判ります。

すんなりと思い通りになっていることは、手応えを感じないので、特に意識されていないだけなのです。

これまで、どんなにつらいこと、悔しいこと、悲しいことがあったとしても、何とか生きてこられたということは、
自分でも気づいていない数多くの幸運に恵まれていたからです。

「嫌なことばかりで、自分の人生はつまらなかった」
と嘆くのではなく、
「つらいこともあったけど、それに耐えて生きてこられたということは、自分には充分に生きる力があるのだ」
と、自分を肯定的に受け入れることもできるのです。

不満は、人を進歩させる原動力ともなります。
不満を無理に抑えたり、ごまかしたりしてはいけません。
不満を感じてもよいのです。
ただ、
「この不満が解消されなければ、自分は幸せになれない」
と考えてはいけないのです。

人は、何らかの不満を抱えながら生きていくものです。

ひとつの不満が消えても、また新しい不満が次から次に生まれてくるでしょう。

その不満をバネにして、少しずつ前に進んでいくのだ、と考えればよいのです。

幸せに生きている人とは、
不満のない人のことではなく、
不満も自分の一部として受け入れている人のことなのです。

 

感想

これを見て心に響いたのは

「幸せに生きている人とは、

不満のない人のことではなく、
不満も自分の一部として受け入れている人のことなのです。」

というところです。

幸せそうな人をみると「この人は悩みや不満がないのだろうか?なぜいつも幸せそうに出来るのか?」と思い、悩みを抱え込んでしまうタイプの私にはできないな、などと考えることが多かったです。

しかしこの555を読んで気づいたのは、やはりみんな悩みや不満を抱えて生きているが、それをどう捉えているかの違いだという事です。

不満を不満で終わらせず、それをバネに前向きに考えていく事が大切なんだと気付きました。

555を読んで

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こんにちは。

八王子市七国にあります年中無休の歯科医院ななくに歯科のサポートスタッフの前田です。 

院長のブログを読んで印象に残ったことを書かせていただきます。

 

今日の555!!!(第2135回)

「自分は、何の取り柄も魅力もない、ちっぽけな人間だ。いったいこんな自分のどこを愛すればいいというのか」
と悩んで

いる人もいることでしょう。

..

愛される人間になるためには、まず自分自身を愛することが必要です。
しかし、自分を愛するといっても、自分に自信のない人は、何をどうすればいいのか判らないと思われるかもしれません。

しかし、
「自分はちっぽけな人間だ」と嘆いている人は、
心の底から自分をちっぽけだと思っているわけではなく、
むしろ、自分をちっぽけな人間だと認めることができないからこそ、
悩んでいるんじゃない?

自分がちっぽけだと思うのなら、謙虚に他人から学び、自分を高める努力を続ければよい。
ただ、それだけのことです。

「自分はちっぽけな人間だ」と悩む必要はありません。

自分だけでなく、すべての人間は、しょせんちっぽけで、はかない存在なのですから。

人は皆、地球上の何十億人のひとりにすぎません。

その一生は、悠久の宇宙の歴史に較べれば、ほんの一瞬のできごとです。

心の底から「自分はちっぽけな存在だ」と認めることができれば、
「だからこそ、些細なことに悩んだり怒ったりしても仕方がない。かぎられた一生の時間を精一杯に駆け抜けて、悔いのないように生きよう」
と前向きに考えられるのです。

「特別な人」はひとりもいません。

ただし、個性は人それぞれに違います。

この世の中で、自分とまったく同じ性格、同じ体つき、同じ経験をしてきた人はいません。

この広い世界で、自分という存在は、後にも先にも自分ひとりだけです。
それだけで充分に特別なのですから、それ以上に特別であろうとする必要はありません。

人は誰でも特別であるという意味において、すべての人は平等であり、一部の恵まれた人だけが特別なのではないのです。

ここで、次のように反論される方がいるかもしれません。

「大金持ちやスーパースター、有名なスポーツ選手、歴史に名を残す人物などは、明らかに特別ではないか。自分と較べて、あまりにも不公平ではないか」

しかし、それはあくまで個人の主観にすぎません。

自分が「運や才能に恵まれ、多くの人々から注目を受ける人」をうらやんでいるから、そういう人たちが特別に思えるのです。

それを特別だと思わない人もたくさんいます。

何に価値をおくかは人それぞれなのですから、
「誰にとっても特別な人」などというのはいないのです。

世の中には、他人から注目を受けなくても、
立派に、誠実に、気高く生きている人もいます。

そういう人たちが、大金持ちやスターよりも価値が劣るなどということは、絶対にありません。

自分を愛するとは、
「自分は特別扱いされるべきだ」と思い上がることではなく、
他人と較べて優越感を抱くことでもなく、ありのままに自分を受け入れるということです。

「自分をありのままに認める」とは、
けっして「努力を怠ってもよい」という意味ではなく、
「自分を実際の自分以上に見せようとしない」ということです。

「自分にできるかぎりのことをやって、その結果を受け入れる」といういさぎよい態度のことをいうのです。

具体的にどういう行動を起こせばよいのか判らないという人は、
まず、特別なことではなく、
「ふつうのこと」を徹底的に行ってください。

礼儀正しくふるまう。
はっきりとあいさつや返事をする。
「ありがとう」「すみません」を素直に言う。
自分のことは自分でする。
決められたルールを守る。
困っている人がいたら、見て見ぬふりをしない。

これら「人間として当たり前のこと」を完璧に実行しようと思えば、
並大抵のことではありません。

私たちは、「ふつうの人間」にさえ、なかなかなれないのです。

「平凡な人生を送りたくない」と言って高望みばかりしている人は、
結局、平凡な人間にもなれないまま人生を終えることになりますよ
( ◠‿◠ )

「ふつうのこと」を心がけてさえいれば、充分に自分に自信がもてるようになるでしょう。

ふつうの生活。ふつうの人間関係。ふつうの仕事。

それに満足できない人は、どんな幸福にも満足できません。

「ふつうであること」以上の幸福はないんじゃないかな?

「自分の人生には何もいいことがない」という人は、
毎朝、目が覚めたら、「きょうは、10年間の入院生活を終えて退院する日だ」と仮定してみてください。
それだけで心は幸せに満たされ、すべてが輝いて見えるはずです。

「ふつうに生きられること」のありがたみを心から実感できるようになるでしょう。

  

 

ふつうのことを徹底的にやる。もしかしたら、

それさえきちんと出来ていないかも。

当たり前は当たり前じゃない、そうおもいました。

健康で毎日美味しくご飯が食べれること。

家族が元気におうちに帰ってきてくれること。

自分の布団で寝れること。

毎日をきちんと見直して、自分を見直し、認められるようにしようと思います。

555を読んで

テーマ:

八王子みなみ野 七国にあります年中無休の歯科医院 ななくに歯科サポートスタッフの助川です。

~深沢院長のFacebookの投稿より~

今日の555!!!(第2128回)

こんな相談をいただきました。

わたしのことを、相手がちっとも、受け入れてくれません・・・...
どうして、こんなに、私は、相手のために、してあげているのに、相手は、私を粗末にするのでしょう・・・・なんのために、私は、相手の為にいるのでしょうか・・・自分がむなしくて、むなしくて、心苦しいです。

さて、みなさんに質問です。

大切な人は、あなたのものですか?

私たちは、どうして、大切な人を、自分のものと思い込んでしまうのでしょうか?

大切な人・・・・
って想えば想うほど、
大切だからこそ、
自分のものと思ってしまうし、
自分のものと思ってしまうからこそ
さらに
自分のものだからこそ、
大切にできる
とさえ思ってしまいます。

でも、
残念ながら、
決して、大切な人は
僕らのものではありません。

僕らは、
大切な人に対して、
ついつい、
『所有の錯覚』をしてしまいます。

所有できないのにもかかわらず、
自分のものである
という錯覚を。

付き合った・・・
結婚した・・・
就職した・・・
人と人と出会いは、プライベートでも、ビジネスでも色々な所に存在し、
御互いが密な関係になればなるほど、
『所有の錯覚』
をしてしまいます。

男と女も・・・
親も子も・・・
上司も部下も・・・
生徒も教師も・・・
従業員と会社も・・・。。。

私達の多くが、
大切な人、または、大切な組織との関係が良好でないと
幸せでない
と感じるのですが、
そのきっかけとなるのが、
所有できないものを、
所有できると錯覚することから
始まっているのかもしれません。

だからこそ、僕たちは、
『所有の錯覚』
ということを知っているほうが、
今よりももっともっと、幸せになること間違いなしであります。

だって、
今、抱えている、その問題。
どうでしょう?
もとをたどれば、
相手、または、組織に対して
『所有の錯覚』
をしていませんか?

自分の大切なパートナーのことを、
自分のもの
と錯覚していませんか?

相手に何かをしてあげたい!!
相手に愛を与え続けたい!!
相手に幸せになってほしい!!
相手に対して、自分しかできない事がある!!
という思いそのものは尊いものであり、
事実、
あなたにしかできないことであり、
相手もあなたにしてほしい!!
と思っていることでしょう。

でも。
だとしても。
相手は、あなたのものではありません。

そして、あなた自身も相手のものではありません。

私たちは、
無意識に、自分のものだから という理由で
大切に大切にしよう
と思ってしまうものであります。

まぁ・・・
自分のものになった!!
という喜びそのものは、
うれしいものですし、
やる気が出ることは
否定はいたしません。

でも、
そもそも、残念ながら、根本的に、そこが違うのであって、
だれしも、他人を、自分のものにはできず、
『所有の錯覚』
をしてしまうのであります。

恋人も、配偶者も、子も、親も、会社も、従業員も
みんなみんな、
あなたのものでもないし、
もちろん、
他人のものでもありません。

所有しているって言う感覚は、確かに、
『自分だけのもの』という特別感をいただせてくますので、
相手と自分で、お互いが、この『特別感』をもつことによって、
絆を深めることができるので、幸せな気持にさせてくれることでしょう。

でも!!
その偽りの『所有の錯覚』から生まれた不幸感を、今、体感しているのではないでしょうか?

大切な相手にたいして、
わたしのものなのにぃ・・・・
どうして、私の気持ちをわかってくれないの・・・・
って。

どう、地球がひっくり返っても、
自分のものにならないものを
自分のものであると
『所有の錯覚』
をしていることに気が付かない限り
改善策をいくら考えても
解決しないのは
『当たり前』
なのであります。

私達が、今、抱えているその不幸感の多くは
大切な人との人間関係の不調和です。

そして、
その原因の多くが・・・
『所有の錯覚』
であり、
そのためにおこる
『私が、相手を変えることができる』
という思い込み
が、そもそもの原因。

どうか、ちょっと、立ち止まって、
『所有の錯覚』
をしていないか
振り返ってみてください。

つかむことができないものを、
つかもうと、必死にあがいていた自分を
やっと、
休ませてあげれますよ。

(感想)

私にとってタイムリーな話題だと思ったので、この投稿を選びました。

親子の関係において、「所有の錯覚」をしてしまうことがあるからです。

特に母親にとっては、自分が産んで育てた我が子に対して、愛する気持ちが強いために、

心配する気持ちが強いために、子どもが自分の思い通りの行動をしてくれないと、イライラしてしまったり、がっがりしてしまうことがよくあります。私もそうでした。

でも、院長の投稿にあるように、子は親の所有物ではないのです。所有できないものを所有できると錯覚してしまうことで、それが思うようにならないと悩んでしまうのだと思います、悩む必要のないことで、悩んでいることになるのです。

ただ、頭ではわかっていても、実際の子育ての場面では、ついつい「こんなに心配しているのに、何でわかってくれないんだろう…」と思ってしまう自分がいます。

息子に言われたのが、「思っていることがあれば、言ってよ。気づいていないかもしれないから。」という言葉でした。何で気づいてくれないんだろうと、ヤキモキするよりも、相手に素直に伝えることも大切だと思いました。そして子どもの人生は子どものものであるし、親はアドバイスすることはできても、最終的には自分で決めて責任をもって行動してほしいと思っています。

そのためにも普段からのコミュニケーションが大事だと思いました。

 

 

 

 

 

こんにちは、八王子市七国にあります年中無休の歯科医院ななくに歯科の大牧です。院長の555!を読んでの感想を書きたいと思います。

今日の555!!!(第2106回)

 

自分を優先した方がいいのですか?

でも、周りとうまくやっていくほうも大切ですよね?

 

両方大切である・・・ということはわかっているのですが・・・・

 

でも、両方大切にするって、矛盾していませんか?

そんなご相談をいただきました。

 

たしかに、

自分を大切にするという学びを知った時、

誰しも、

周りに対して自分がどんな行動をとったらいいのか、

わからなくなってしまう人も。

 

ちなみに、

心の安定には、

自分を大切にするという「独立性」と

周りとうまくやっていけるという「順応性」のふたつが必要です。

 

精神が独立しておらず、他人に依存ばかりしている人は、

つねに他人の賞賛を求め、承認がえられなければ激しい不安に悩まされてしまいます。

 

また、まわりに順応できない人は、

頑固で融通がきかず、他人と衝突しても自分の主張を譲ろうとせず、孤立してしまうことになります。

 

「独立性」と「順応性」は、相反することのように思われそうですが、

これらは、互いに深く関わり合っており、両立しうるものなんですよね。

 

独立している人だけがまわりに順応することができ、

また、順応ができなければ独立することもできないの。

他人に言いたいことがはっきり言えず、

ストレスをため込んでいる人は、

「独立」と「順応」を秤にかけ、

どちらか一方を選ばなければならないと考えているのではないでしょうか。

 

他人から嫌われることを覚悟ではっきりと自己主張をするか、

自分を押し殺して迎合するか。

 

どちらを選んでも、心の安定はえられません。

どちらも間違っているのです。

 

確固として独立し、

なおかつ柔軟に順応できる道を探らなくてはなりません。

 

人間は、誰でも欲求をもっています。

 

その欲求が他人とぶつかり合ったとき、心の葛藤が生じます。

 

しかし、欲求そのものが悪いのではありません。

 

欲求を捨て去ってしまえば、

意志も向上心もないのっぺらぼうのような人間になってしまうだけです。

 

多くの人を苦しめているのは、

「他人からの承認を得たい」という欲求でしょう。

 

他人から認められたいと願うのは、人間として自然なことです。

それが、自分を磨こうとする意欲

恥ずかしくない行動をとろうという責任感となります。

しかし、他人からの承認を得ること自体を目的とするのは間違いになっちゃうかも。

 

他人からの承認を頼りに生きても、

それは、しょせん他人の人生を生きることにすぎないの。

 

冒頭に挙げたように、

自我を独立させることと、うまくまわりに順応することが必要です。

では、どうすれば、両方を持ち合わせることができるのでしょう?

 

それは・・・

「独立」と「順応」の鍵となるのは、「自発性」でしょう。

 

欲求があるかぎり、誰にでも自発性は備わっているはず。

 

いくら強く生きようと自分を鼓舞しても、

強迫的な義務感にかられているだけなら、

いたずらに精神を痛めつけるだけです。

 

いくら自分をまわりに順応させようとしても、

拒絶されることの不安から逃れるためだけなら、

それは順応ではなく、服従。

 

刃物は料理にも使えますが、

人を傷つける凶器ともなります。

 

刃物自体が問題なのではなく、それをどう使うかということが問題なのです。

 

欲求に苦しんだなら、

自ら欲求をコントロールし、うまく利用してやろうと考えればよいのです。

 

まず、静かに自分の欲求と向き合ってください。

 

欲求とは、本来、自分を活かすために与えられたものです。

 

なぜそうしたいのか、ということを自問してみてください。

 

怒りに苦しみたいわけでも、不安に悩みたいわけでもないはずです。

 

自分の心の奥深くに光を当ててみれば、

尊き自分への愛しみ、侵しがたい誇りが見えてきます。

 

人間はもともと、

悪よりは善を、

偽よりは真を、

醜よりは美を求める本能的な欲求があります。

 

欲求とは、成長しようとするエネルギーであり、

それ自体はすばらしいものなのです。

 

まずは、自分のありのままの心を信じましょう。

 

自己嫌悪に陥ったり、

嫉妬に苦しんだり、

欲求が自分を苦しめるのであれば、

怖れや不安などによってゆがめられているのです。

 

欲求は、すぐにかなうものばかりではありません。

 

簡単に手に入るものであれば、

欲求として意識することもないでしょう。

 

たとえかなわなくても、

自分には欲求をありのままに自覚する権利があるのだと、

自分の気持ちを尊重し、

大切に温めてやればよいのです。

 

それが、自分を大切にするということです。

 

自分の気持ちを大切にすることができれば、

必ず他人からも大切にしてもらえます。

 

つらいからといって、

やけをおこして、

ふてくされたり、

他人を責めたりすれば、

かえって自分の首をしめることになります。

 

むしろ、苦しいときこそ、人間の真価が問われるときです。

 

生きる意味は、

往々にして、

悩みや苦しみの中から見出されるものなのです。

 

どんなにつらいときでも、「自分を認めること」だけは放棄してはいけませよぉ( ◠‿◠ )

 

《読んだ感想》

自分を優先させるか、周りに合わせるか?

今までの私は、周りに合わせるタイプの人間でした。

自分を優先させる=わがままと思っていたのです。自分の考えていることを周りに押し付けているようで、自分の意見すら言えずにいたのです。

でも、そうすることで自分の中にはいつもモヤモヤした感情がありました。

それは、院長がおっしゃっていた「自分の気持ちを大切にする」ということをおろそかにした結果でした。自分を大切にしなければ、不満のかたまりが生まれて、周りにもやさしい気持ち、思いやる気持ちを持つことはできません。八つ当たりもするかもしれません。そうすれば、お互いにギスギスして不仲になってしまいます。周りと幸せに過ごすために自分を優先することをやめて、周りに合わせたのに、それでは意味がありません。

自分の気持ちを大切にして、自分は何をしたいのか、何を伝えたいのかということと向き合い、過ごしていきたいと理解できたことに感謝します。