”見方を変えて物事を見ると、新しい発見があるかも!?
その発見をどのように活かし、伝えるか。
難しいけれど、難しいで終わらないように。
そして、発見や想いを、継続してつなげていこう!
「今」を戦前としないために…”
2017.12.9-10、@長崎県佐世保市ほか、なないろベースからの参加:2名(ゴン太・タカッチ)
こんばんは、事務局タカッチです!
今回は、長崎県佐世保地域で行われた青年団平和集会の模様をご紹介いたします☆
※文字数の都合で、2回に分けてご紹介ですm(__)m
戦後、戦争の反省から、青年は銃を持たないと近い、平和運動を進めてきた青年団。
日本青年団協議会では、毎年、青年団平和集会を開催。
戦跡を実際に巡り、戦争体験者から直接お話しを伺い、感じたことや学んだことを青年団員同士で語り合います。
なないろベースでは過去2回参加あり(2013沖縄その1・その2、2014長崎)。
今回は、ゴン太とタカッチの2名が参加です!
今年のフィールドは、長崎県佐世保地域。
過去、長崎市内の戦跡については学習あり。
しかし、実は佐世保にも戦績があることを初めて知りました。
そして、今回は初めて加害者側について学びました。
これまでの原爆・空襲被害側とは異なる視点での学びです。
そして、今年は初めての冬開催。
この時期に行う意味とは…。
以下、平和集会&その後の団員交流の模様をご紹介!
<目次>
【1日目(※今回の記事)】
(1)開会
(2)フィールドワーク
1)佐世保無線電信所(針尾送信所)
2)殉国の碑・資料館
3)魚雷発射試験場跡
4)浦頭埠頭
(3)交流会(ささいずみ本店)
【2日目(※次記事)】(1)戦争体験者に学ぶ(2)ディスカッション(3)閉会【おまけ】佐賀県団との交流
【1日目】
佐世保には、ゴン太と前夜入り。
夜の市街地を歩きながら、佐世保の雰囲気を感じます♪
全国各地のフィールドを知ることも実は大切☆
佐世保の夜は賑やかですね♪
▽道中記動画→https://youtu.be/APfg_GuiTJ4
(1)開会
私たちは佐世保駅で集合。
▽佐世保駅はJR日本最西端の駅。
なお、9月の九青祭in沖縄では、団長のざきちと、日本最南&最西端の駅を制覇!(←いまだにこの時の記事が未完成という。。。)
その後、長崎大村空港で次陣を迎えました。
その後はバス移動。
開会式、自己紹介、昼食が行われました。
長崎では、ハレの日(お祝い)には寿司で寿ぐ文化だそうな。
大村寿司の特徴は、酢飯の上に野菜と卵を敷きつけること。
昔、大村領主の大村氏が島原の有馬氏に追われ唐津へ逃亡→その後大村氏は反撃し、無事大村へ帰還→それを祝うため、領民がこのお寿司を作ったといわれます。
青年団活動では、こうしたご当地グルメを味わえるのもありがたい♪
(2)フィールドワーク
さあ、現地学習です。
まずは佐世保市。
1)佐世保無線電信所(針尾送信所)
▽動画
某テーマ―パーク沿いを走ると、何か高い塔らしきものが複数見える…何だろう??
これは、針尾送信所という戦跡です。
大きな塔が3本経っています。
某テーマパークの近くに、なんと戦績があるとは。
(参加者のひとりの感想「修学旅行ではテーマパークに行くことばかりだが、一歩足を延ばして、この針尾送信所まで来るのも大切なのでは」)
針尾島にある海上保安庁の無線送信所。
太平洋戦争開戦を告げた暗号「ニイタカヤマノボレ1208」はこの送信所発とよくいわれますが、実際に送信したかは不明とのこと。
当時の関係資料が見つかっていないためです。
おそらく、軍事機密として、戦後に資料が破棄されたのではという説あり。
詳細について、地元ガイドの説明を頂きました。
・1918(大正7)年に着工、1922(大正11)年に完成。
総工費:当時155万円(現在で25億円)
・高さ:136m("イサム"と覚えよう♪)
・2013(平成25)年:国重文へ→一般入場OKへ。
・歴史的経緯:明治の日露戦争→日本軍は無線の大切さを知る。
→千葉やこの佐世保などに送信所をつくる。
・地理的経緯:(1)軍港だった、(2)九州で一、二番に硬い岩盤あり、(3)視界を遮るものがない地形
・3本立っている理由:各方面に長波を飛ばすため。
[2.塔の見学]
1つの塔は一般公開されております。
中に入り、上を見上げるに、とにかく高い!
後日動画で紹介予定ですが、みんなでいっせーので大声を出すと、しばらくの間こだまが聞こえるほどです。
3か月に1度、保守点検も行われているそうです。
[3.電信室]
大正期に建設。
3本の無線塔の中心地にあり。
近い将来、保存工事が行われるそうです。
廃墟マニアにはたまらないでしょうね(笑)
これにて針尾送信所見学は終了。
ガイドありがとうございましたm(__)m
次に、川棚町へ。
2)殉国の碑・資料館
▽動画
太平洋戦争中、この地域には海軍訓練所あり。
この小串湾から3千人もの若き隊員が戦地に赴き、米艦に特攻。
そして南海の果てに散りました。
彼らを顕彰・鎮魂するこの殉国の碑は、旧隊員の呼びかけで、昭和42年に建立。
川棚町史談会の方にガイド頂きましたm(__)m
(参加者の感想から「このガイドさんは、おそらく戦争未体験者でしょう。なぜ彼女がガイドを行っているのか、その想いを知りたいね。きっと何か伝えたい強い気持ちがあることだろう。」)
[1.川棚に魚雷艇訓練所ができた背景]
・魚雷艇→アメリカがいち早く導入し、日本は苦戦した
⇒日本はアメリカに対抗するため、魚雷艇を導入。
・横須賀の訓練所の分校として川棚に誕生(×横須賀→川棚に移転ではない。)
・3つの理由で川棚に開校。
→①広い大村湾の存在(内海=高波起こらず)
②佐世保軍港&鎮守府に近い(軍艦をすぐに修理できる立地)
③さほど名の知れた土地ではない(機密を守りやすかった)
・昭和18年、訓練所建設実行委員会を立ち上げ、すぐに着工→翌春に竣工
・日本が苦戦・敗戦ムードに…→魚雷艇特攻も重要作戦入り。
[2.魚雷艇や兵士について]
・この地では、「震洋」という特攻艇が訓練。
わずか全長5.1m、時速50kmで、大きなアメリカ艇に挑んだ。
▽戦艦の大きさ比較。
下の大きな戦艦がアメリカ艇。
特攻艇は、右中央の小さな船。
おもに、その左にある移動支援艇に特攻した。
(戦艦は大きすぎて港に入れない→小さな移動支援艇で港までピストン輸送→その輸送を狙って特攻)
・震洋隊は、99の隊列からなる。
→・1~68隊:一人乗り、先騎隊。
・101~147隊:二人乗り、援護隊(二人乗りは荒波でも安定)
▽兵士の格好。
本来は航空隊志望だったわずか15~16歳の少年が多かった。
彼らはどのような思いで戦地に赴いたのだろうか。
・いよいよ日本も敗戦濃厚ムードとなると、人間魚雷回天や伏竜といった、人間の命をかけた特攻作戦も導入。
▽伏竜。モリを持ち、敵艦の底を突くという戦法。
また、近くには資料館あり。
あいにく、当時の資料がほとんどなく、引き継ぎが喫緊の課題とのこと。
全国の遺族などから情報を集めている。
行政の力も必要だと主張。
そして、殉国の碑が眺める穏やかな小串湾。
実はこれも戦跡。
この海で、海軍の魚雷艇訓練が行われました。
穏やかな海で、少年たちはどのような想いで訓練したことだろうか…。
さて、川棚の次の戦跡へ。
3)魚雷発射試験場跡
▽動画
大崎半島の対岸にある片島。
こちらでは戦時中、海軍工廠で造られた魚雷の試験が行われました。
もともと島でした。
半分に割った形=断崖のよう→「片島」という地名に。
陸続きにして、陸からも通えるように整備しました。
片島は佐世保の三菱重工の試験場となり、魚雷がいかにまっすぐ進むのかを実験しました。
▽遠くに見える建物が発射試験場跡。
この建物は、「佐世保海軍工廠造兵部川棚魚雷距離發射場」。
まさに魚雷が発射された場所です。
▽近寄って見学。
月日が経ち、朽ちつつあります(基本的にはこのままで保存との方針のようです)。
次に、こちらの建物。
この建物は、本部跡とのこと。
魚雷発射動力のための空気をここから送っていたそうです。
▽本部跡の横にある小屋は、トイレ跡。
さらに離れた会場にも建物が。
「探信機領収試験場」というそうです。
あいにく桟橋がなく、建物には近づけません。
その後、来た道を引き返し、トンネルへ。
「隧道格納庫」とのこと。
片島は以上。
これをもちまして、川棚町の戦跡めぐりは終了。
史談会のみなさま、ガイドをありがとうございましたm(__)m
4)浦頭埠頭
▽動画
川棚から再び佐世保に戻ります。
太平洋戦争で敗戦後、中国や朝鮮半島から引き揚げてきた多くの方々が、この佐世保浦頭に上陸。
当時、厚生省佐世保検疫所があり、約140万人もの人々が上陸。
収容先である佐世保引揚援護局までは7kmの道のり。
この山道に行列ができるほどだったそうです。
(3)交流会(ささいずみ本店)
さあ、夜は参加者との交流♪
学び+全国の仲間と楽しい時間を過ごすことも大切☆
▽会場は、ささいずみ本店様。
長崎の料理はうまし♪
また、2次会も♪
めったに会えない全国の仲間と楽しい時間を過ごします☆
そして、夜が明ける…。
さて、2日目は次記事にて!
以上1日目でした^^
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