令和6年4月20日(41)古くなる道 | お遍路 の記憶

お遍路 の記憶

大好きな四国八十八ヶ所参りの、写真や日記を整理していきます。

石屋さんのディズニー

ミッキーとミニーのカップル

おっ(#^.^#)

阪神キティかな

ジャパンキティかな

可愛いね。

続く。からです。

大阪で働いているので(泉州地域です)広島ファンですが、職場では

阪神ファンと言っています。

(/ω\)

まぁ、、阪神が勝つと、関西の景気も雰囲気も⤴ので、いいことなん

ですが、、心を偽っています。

 

そう、、見せかけの自分を作って、本当の自分を隠している。

どうして?

、、、、、人に、○○のように見られたい、思われたいから、、、。

なのだろうか。

自分でない、、自分を見せれない、、

本当の自分は、、、。

 

、、、う~ん。

真っ黒。

 

かわせみのような、美しい青色が好きだけど、、

僕は、、どろどろな、きちゃない色。

 

あぁ、、きれいになりたい。

 

泥に咲く、蓮は美しいが、、、僕は『泥』

汚い心の男の旅、、です。

 

野球キティちゃんのあった石屋さんの向かいに、石碑と仏様が

並んでいました。

    一里塚

 一里塚は道を行く人に距離がわかるように立てた道しるべである。

松山の札の辻(現在の松山城西堀端地点で、もとここに松山藩の札場

=制札を掲示する場所があった)を原点として、一里(約4Km)ごとに

立てられたものである。

  この付近の一里塚は

    菊間町佐方に           八里

    今治市(乃万農協の所の四っ辻)に 十里

    波方町の樋口(沢の大池の所)に  十里

    波方小学校の所に        十一里

の一里塚の石標が立っていたが、今は紛失して見られない所もある。

この一里塚は当初は木の柱であったが、寛保元年(1741)祐筆水谷半蔵が

達筆をふるい、石柱になったという記録が残っている。

                   大西町教育委員会 

寛保元年(1741)祐筆水谷半蔵が達筆をふるい、石柱になったという

『松山札辻より九里』の石碑だな。

 

横に、武田徳右衛門道標

是より延命寺ヱ一里

越智郡上朝倉村御料弥蔵  願主 同所 徳右ヱ門

長い道標の下に、仏様方が並ぶ。

墓石もあるようだ。

こちらの仏様、、、お大師様の姿に見える。

上に指型も、、

歩き出そうと、、石屋を振り返る。

歩き出す後ろから、見ていてくれるようだ。

、、、駅は、まだかなぁ

昭和を感じる建物だな

隣組、、地域で守る、、

向こうに、、

国道が沿う道。

買い物があれば、寄れるな。

銀行もある。

今治も近いと、賑やかだな。

交差点を渡る。

1200Kmの、一瞬。

渡る時に、脇を見ても、、

次に、いつ見れるのだろう、。

駅に向かう、地元の道。

国道の無い頃は(、、あったのだろうか?)

メインロード??とも、思われる。

大昔の、お遍路さんは、、、

こっちだろうな。

電気屋さんの前の辺りが、、

神社です。

『大井八幡大神』

愛媛県神社庁のページによると、、

神社主祭神様は

 

品陀和氣命(ほむだわけのみこと)
帯仲津日子命(たらしなかつひこのみこと)
息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)
底筒男命(そこつつおのみこと)
中筒男命(なかつつおのみこと)
表筒男命(うわつつおのみこと)
玉依比売命(たまよりひめのみこと)
他二柱

とのこと

頭を下げて、、前を通らせていただく、、

 社伝によれば、第42代文武天皇の詔勅によって大宝2年8月(702)

国司散位乎智宿禰玉純が奉行となって神殿を造営し、風早の国造であった

阿佐利命と怒麻の国造若弥尾命の二柱を崇祀して大井宮とした。

が、始まりとの神社。

門前の、、、横の建物、、和菓子屋さんだったと思う。

(↓2016年3月の写真)

(↓2008年12月の写真)

(↓2006年‎3‎月の写真)

その時に、食べたら良かったな、、

もう、食べられない。。

コロナのせいだろうか、、

職人の高齢化だろうか、、、、、

もう、味わえないんだろうか。

たった、1人の僕の記憶の中でも、、

景色は変わっていく。

開いてない薬屋さん。

、、、土曜日、休みかな。

おっつ、、目

ドームが見える

すご~い

大きな望遠鏡だろうな。

大きな望遠鏡

お空に、夢を求めたんだろうな、、、

僕も、、この道に、夢を見出だそう。。

ここは県道163号。

僕は、歩く凡人。

小さなお遍路の夢。。

続く。