令和5年12月27日(39)あはれ、、と詠む | お遍路 の記憶

お遍路 の記憶

大好きな四国八十八ヶ所参りの、写真や日記を整理していきます。

寒くても、咲いてくれたお花さん

(*^_^*)

昔ながらの建物も残っている

いい雰囲気だね

続く。からです。

県道に沿う脇道のへんろ道。

県道を行ってもかまわないと思う。

へんろ道って、、お遍路に行ったときに歩いた道。

昔ながらの道もある、今の新しい道もある、

地図を見て、、人に尋ねて、、

自分で決めて歩く道。

札所に向かって進む道。

いつか、、辿り着く。

自分の『結願』に。

スズキ自動車さんの看板

うちの車は大半がスズキだったな。

僕も今はスズキ

海沿いの工場

働いて、対価をもらう、、

生きることって、、何をすることだろう。

翌日の帰宅した後の勤務などを、考えていたら、、

県道に戻った。

何の生業だろう、、

水産会社の直売所だった

自分が、、どこに行くか、試される。

自分は、、なんなのか

左、、九州太宰府天満宮の分社があるんですね

郵便局の脇に、大きな石碑

柳原バス停前の郵便局

柳原館跡、、と刻まれているのだろうか。

愛媛県生涯学習センターデータベース『えひめの記憶』によると、

柳原は、天正年間(一五七三~一五九二)に得居半左衛門の居館

である柳原館が存在した所

とあります。

歴史好きの方には、興味深いだろう。

、、、僕にはこっちの方が、興味深い

造り酒屋さん『雪雀酒造』

目覗いちゃった

いい雰囲気(*^_^*)

どんなお酒だろう。

父と来たら、味わってみたかった。

生前の父が言う、酒の名を思い出した、、、。

横にある、醸造元直売所

道向かいの古い看板

松山専門店会 北条日専連加盟店

懐かしいであろう店舗

地面に咲くお花

松山市の市の花「ヤブツバキ」

神様の宮だろう

頭を下げて、、前を通らせていただく。

ちょっとの距離にも、いろんな景色がある。

流れる水の上を、、渡らせていただく

橋、、船、、渡る。

こちらから、向こう側へ

渡してくださる存在がある。

橋は仏様と、、聞いたことがある。

河野川を渡るんだ。

向こう、、何かの先へ、、

渡った先に、御堂が見えました。

愛媛県生涯学習センターデータベース『えひめの記憶』によると、

河野川を渡ると左手に高浜虚子の句碑と胸像が見える。

道の角には昭和48年(1973年)に枯れたという巨大な松の切り株

が残っている。「遍路松」の名残である。

横には二代目も植えられている。句碑の右側には大師堂がある。

風早四国八十八ヶ所四十七番である。

高浜虚子は8歳までをこの風早郡柳原村西(にし)ノ下(げ)

(北条市柳原西の下)で過ごし、この地を故郷としてこよなく

愛していた。大正6年(1917年)帰省の折、幼い時遊んだこの

大師堂を訪ね、遍路松の下で詠んだ句が「この松の下にたたずめ

ば露のわれ」である。昭和3年(1928年)、その句碑を建立、

数ある虚子句碑のうち最初のものだという。その後、このほとりに

あっていつの間にか失われた遍路の墓の哀れを「道の辺の阿波の

へんろの墓あはれ」と詠い、句碑側面に併刻したという。

現在大師堂前に後世の作である「阿波のへんろ之墓」と刻まれた

墓石が古い石仏と並んで立っている。ほかに句碑の西側には大きな

石仏と「備中□阿智□本屋□女墓 文政十一年子七月六日」と刻ま

れた墓石が残っている。

とあります。

高濱虚子と西の下

 この松の下にたゝずめば露のわれ

旧国道196号線、河野橋北のたもとに昭和8年まで松の老木が

あったが枯れてしまった。

現在、安山岩の句碑とブロンズの胸像が建っている。

この句碑は昭和3年10月に建立された。俳人高濱虚子が幼少期

を過ごした西の下へ、大正6年10月15日に帰省し、この地に立

ち寄り、この句を詠んだものである。

 

 道の辺に阿波のへんろの墓あはれ

昔四国遍路でこの地まで巡ってきた阿波のお遍路さんが死亡し、

その墓があった。虚子が昭和10年4月25日帰省した時に、この

句を詠み、昭和30年に「この松の、、、」の句碑に併刻した。

虚子は明治7年2月22日、松山市長町新丁(現在の松山市港町

4丁目)に生まれた。

8歳まで柳原で育ち、この地を懐かしく思い、東京からの帰省の

際に何度か訪れている。

            河野地区まちづくり協議会

令和5年度 松山市地域の宝みがきサポート事業補助金により制作

四角い御堂

お大師様ですね

正面よりカメラキラキラ

風早八十八ヶ所 第47番 大師堂

西ノ下大師堂なんですね

 

、、、覗かせていただきました💦

左、、お大師様なのでしょう。

右は、、わからないな。

大師堂前の常香炉。

瓦のような材質ですね。

角にある、お遍路さんのお墓と、仏様

右のお遍路さんは、

文政11年、、、1828年、、196年前

幕末に、、お遍路されたんだな

右の墓石は、備中西阿智の女性と、、

岡山県倉敷市にある地域のようです。

m(_ _)m

、、、読めないな(+o+)

ここにまた

  住まばやと思ふ春の暮

   高浜虚子(1874-1959 明治7年ー昭和34年)

 昭和15年、父の50年忌のために松山に帰省、旧居跡を尋

ねたときの感慨を読んだもので、句は「高浜虚子像」の基

壇にはめ込まれた石板に刻まれている。句の後に「旧居の

跡を訪ねて 七十六歳虚子」とある。胸像は、昭和62年3月

に建立。

 なお、西ノ下大師堂の北にある近くの空き地に「虚子先生

生家池内邸址」の碑が建てられている。

                  松山市教育委員会

  『俳句の里 松山』

端に建つ、、阿波の遍路墓

 

並ぶ仏様と墓石

m(_ _)m

お地蔵様、、

手を合わす仏様

戒名の刻まれた墓石

命懸けで廻られたお遍路さんがいた。。

昭和天皇御手蒔の虚子の松

(↓2008年12月撮影)

(↓2016年3月撮影)

虚子の松の横に

句碑

この松の下にたゝずめば露のわれ』

『道の辺に阿波のへんろの墓あはれ』

この場所で、高濱虚子さんが育ったんだな

今は、

交通安全のお地蔵様が見守ってくださる

生きていく道

命を懸けて生きて歩いた御方もいた。

行こう

続く。