令和5年12月27日(22)松山市教育委員会さんの本『おへんろさん 松山と遍路の民俗』を見て、、 | お遍路 の記憶

お遍路 の記憶

大好きな四国八十八ヶ所参りの、写真や日記を整理していきます。

53番札所の円明寺さんとお別れ、、(>_<)

先に進む。

そう、、僕は、お遍路さん。

続く。からです。

書き終わった部分ですが、、、

松山市教育委員会の『おへんろさん』を、読み返しました。

円明寺について書かれている部分があり、、

もう一度、書きます。

『円明寺は創建されてより勝岡の坂浪にあったというが、再

 三の火災ののち、江戸時代初期の寛永年間に須賀重久に

 よって現在地へ移転造営されたものであるといわれる。境

 内入口の八脚門は室町期のものといい、県指定文化財であ

 る。門をくぐって左手に大師堂、右に観音堂・鎮守堂があ

 り、正面の中門の向うが本堂である。その右手には遍照堂

 があって、客殿および茶堂になっている。なお茶堂はもと、

 八脚門の右側にあったという。また、四国遍路最古の銅板

 納札が現存し、先年、市の文化財に指定された。』

四国第53番札所 円明寺の過去帳の中からと、記されてい

ますが、

『享保13(1728)年より明治17年に至る150年ほどの間に

 21人の行き倒れ遍路の名前を載せている。これの出身地

 および戒名などを表に示すと次のようである。』

『この表によると、巡拝途中で死んだ遍路の戒名には、特に

 なにがしかの傾向があったわけではないが、奥州会津若松

 の伊藤総衛のように巡拝の途次に空しく散って行った姿を

 象徴したようなものも見うけられる。また、文化10

 (1813)年4月に死亡した上野国利根郡沼須村の智禅院

 随道房峰舜の場合には、同行と思われる同村吉左衛門が

 願主となって当寺へ奉納した鰐口が伝えられている。』

、、、とあります。

『さて円明寺においても、かつて盛んな接待が展開されて

 いた。広島県三津口町の接待講(大師組とも称した)は、

 三津口・竹原のあたりで米を集めて訪れ、芳野衛さん方

 を常宿としながら円明寺で接待を行った。文久年号の幟

 をさし立て、一週間以上に亘って小豆飯と味噌汁を接待

   し、交代で七ヵ所参りもやっていたという。今も芳野さ

 ん方には、ハンポや桶、バケツが保存されている。また

 岩国からは、毎年餅の接待に来る人もいた。』

『そうしたなか、北条市新開の小村兵蔵爺さんは、生前、

 50年に亘って餅の接待を続けた人で、テレビやラジオも

 買わずにお接待を終生の生きがいにしたという。死後も

 その遺言によって、遺産はすべてお接待に供されること

 になり、当寺において履行されたものである。』

      おへんろさん 松山と遍路の民俗

             松山市教育委員会編  より

本堂前の子育・水子地蔵菩薩立像

その台座に書かれていた、、刻まれていた、、

小林兵蔵翁、、、

テレビもラジオも買わず。

遺産も全て、お接待に、、、。

この地に、記録、記憶される、お遍路さんと、関わられた

方々がいた。

それを、、見続けた、樹木。

歩き始めた、、

不思議な木の神社が見えました。

「恵美須神社」m(_ _)m

右です

朝の円明寺からの、へんろ道

おばあさんに、導かれつつ行く。

、、、ワオ(≧◇≦)

ランボルギーニのスーパーカーキラキラ

 

、、何を見ているんだか(;^ω^)

大きな道に出ました。

へんろみち保存協力会の矢印シール

(*^_^*)

いつもありがとうございます。

続く。