令和5年12月26日(31)ねじれ竹と、ひきさき地蔵、そして松尾芭蕉さん | お遍路 の記憶

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大好きな四国八十八ヶ所参りの、写真や日記を整理していきます。

右に曲がれば、裏から太山寺へ

僕は、真っ直ぐ、三の門の方へ行く。

↓2010年2月の写真 門屋(井筒屋)さんと思われる。

続く。

愛媛県生涯学習センターえひめの記憶には、

「本坊から諸堂のあるところまで約200m、その登りの参道に

家が5軒ある。むかし、寺の陸尺(ろくしゃく)(人夫)だった

人が家をもらってそのまま残されたのだそうだ。

うち二軒が宿屋をしていて、一軒の屋号を『ねじれ竹』という。

さらに登っていった反対側(左)の家には、山津波にあったとき

のことを木札に書いて門に掲げていた。

山門の石段下は大樹の海である。」と記している。

「ねじれ竹」とは「布袋屋(昔は布川屋)」のこと、現在も伝説の

ねじれ竹が庭に生(は)えている。また「山津波にあった家」とは、

鉄砲水で宿の半分を消失した「木地屋」のことである。家の傍に、

水害のことを書いた石碑が立っている。

と、記されている。

その、ねじれ竹について、、

伊予の国の霊場の昔話などを見ると、、、

昔、、太山寺の布袋屋に宿を借りた男女がいた。

杖にしていた青竹を、上り口に置いたままにしていた。

杖と言えばお大師様の化身ともされるもの、、

自分の足を洗う前に、杖を洗い大切にするはず。

同宿だった僧侶に金剛杖の扱いを説かれた。

二人は、青竹の杖を洗って部屋に持って行こうとしたら、

なんとその竹はねじれて絡み合ったという。

驚いた二人は、僧侶のもとに杖を持って行きました。

僧侶は、二人に何か罪があり、懺悔しないと四国参りは

出来ないと言われます。

二人は、不義の仲だったという。

正直に告白した二人に僧侶は、心を新たに、別々に遍路を

すれば、罪は許されるであろうと諭された。

後の戒めのために、ねじれた竹は、庭に立てられ、根が付

き、今でも生茂っているという。

そして、青竹は金剛杖としては使わなくなった。

 

後の人にも教えとなる昔話。

大切なことを教えてくれている。

、、、大切なこと。

四国のみちの絵看板ですね

  

九州の御方などは、太山寺裏の三津浜の港から上陸し、

四国巡礼されていた記録ガ多い。

あの、中務茂兵衛様も、山口から松山へ渡り、太山寺から

打ち始めたのではと書く本もあった。

もうすぐ、三の門だ💦

ここに、悲しい物語を伝えるお地蔵様が座られています。

ひきさき地蔵です。

お化粧をされたお地蔵様

昔のこと、、太山寺のお茶屋さんに美しい娘さんがいた。

美しいがゆえに、求婚する男性が多くいたことでしょう。

ある時、力自慢の男二人が、互いに譲らずに、その美しい

娘さんを引っ張り合って、取り合いになったという。

痛がり、苦しむ娘さん、、

それを見ても、さらに引っ張ったのでしょう。。

娘さんは、お亡くなりになってしまったのです。

人の欲とは恐ろしいもの。

自分が見えなくなってしまう。

美しい娘さんは、死んでしまったのです。

その娘さんを供養するお地蔵様。

手を合わせ、、自分の中にもある、欲の恐ろしさを

懺悔します。

南無、、地蔵菩薩m(_ _)m

↓2006年3月撮影

三の門の階段下まで来ました。

手前に二本の石碑

武田徳右衛門道標ですね

「是より円明寺迄 十八丁」

次の53番円明寺さんへの道しるべですね。

こちらは、、𫞉壟(柳塚)

松尾芭蕉の句が刻まれています。

柳壟

八九間空へ雨ふる柳かな

  松尾芭蕉(1644-1694 正保元年‐元禄7年)

   (はせを)

 『續猿蓑』巻頭の歌仙、八九間の巻の発句で、中七は

「空で雨ふる」が正しい。この発句は「高さ八九間もある

柳の巨木がある。しかも葉が茂っているので、その木陰は、

小糠雨ぐらいでは濡れることもない。だから雨はそれより

上の空にしか降っていないように見える」の意。

十月の中の二日や柳つか

  芭蕉老人 竹翁

この柳塚は寛保3年(1743)10月12日芭蕉50回忌に建て

られたもので、久万の霜夜塚とともに県下で、また南海道

で最古の句碑である。竹翁は三津浜の人であるといわれて

いる。

                松山市教育委員会

 『俳句の里 松山』

鳥居に大日如来様そして十三仏が並んでいます。