令和5年12月26日(30)昔の風景 蒟蒻つつじ | お遍路 の記憶

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大好きな四国八十八ヶ所参りの、写真や日記を整理していきます。

目の霊仏 一畑薬師堂です。

四国24番の最御崎寺にも、一畑薬師様が勧請されていたな。。

↓2023年7月

 島根県出雲市小境町にある一畑薬師様に行ってきました。

↓一畑薬師 本堂

こちらから勧請されたのですね。

続く。

からです。

今、生きているからには、何事かを成したい。

あきらめて、やらされて、気持ちの暗い状態ではなく、

同じことをするにしても「やりたいからやる」

そんな気持ちになりたい。

、、、自分は、何がしたいのか。

見つけに行こう。

 

四国霊場第52番札所太山寺の参道

一畑薬師堂の脇にも句碑が建つ

『春雨や

   王朝の詩タ今昔』 松根 東洋城

  松根 東洋城

(1878-1964  明治11年-昭和39年)

 東洋城は本名豊次郎、東京に生まれる。

宮内省に勤務、父は宇和島藩城代家老であった。漱石、子規に

俳句を学び、大正4年(1915)「柿渋」を主宰刊行する。

 昭和25年太山寺本堂にて句会の時、境内に見つけた碑石に

近詠を刻んだ。「詩」を「うた」と読ませるため「詩タ」と

書いてある。

                  松山市教育委員会

  『俳句の里 松山』

坂を上ろう、、

僕には、まだまだ、、まだまだ、、

句の意味が、感じられない。

こんなに、、50年以上も生きてきたのに、、

、、、感じようとして、生きてこなかったのか。

神社仏閣の貴重な杜

大切にしないとな。

多くの生き物たちの生活の場でもある。

絵のように、泣かせないようにしないと。

本坊を過ぎると、寺との間に四軒のお茶屋があった。

今では想像するしかない、かつての遍路の風景だ。

『四國徧禮道指南』『四国遍礼霊場記』にも記されている

という。

お茶屋であり、遍路宿でもあった様子が、松山市教育委員会

発行の『おへんろさん・松山と遍路の民俗』で、知ることが

できる。

坂の下から、崎屋・布袋屋(布川屋)・木地屋・門屋(井筒)

という屋号だったという。

宿屋業とともに、「あんころもち」や「こんにゃく」などの

土産物を売り、お茶屋も兼ねていたらしい。

 

愛媛県生涯学習センターえひめの記憶には、

「明治期には『灘屋』『吉田屋』『崎屋』『布袋屋』

『門屋(井筒屋)』の5軒のお茶屋があったが、『灘屋』は

明治10年(1877年)ころ、『吉田屋』は同20年ころ廃業して

山を降り、代わって『吉田屋』の離れを買い『木地屋』が開業

したと聞いている。」と元お茶屋「木地屋」の**さん

(大正7年生まれ)は語る。

4軒のお茶屋の屋号は参道下手から、右側に「崎屋」「布袋屋」、

坂を上がった左側に「木地屋」「門屋(井筒屋)」があった。

とある。

正岡子規の句碑が建てられtれいる。

『菎蒻につゝじの名あれ太山寺』 子規

 

つつじがきれいで、また名物であったであろう蒟蒻を、

詠まれたのでしょうか。

愛媛県生涯学習センターえひめの記憶には、

「本坊から諸堂のあるところまで約200m、その登りの参道に

家が5軒ある。むかし、寺の陸尺(ろくしゃく)(人夫)だった

人が家をもらってそのまま残されたのだそうだ。

うち二軒が宿屋をしていて、一軒の屋号を『ねじれ竹』という。

さらに登っていった反対側(左)の家には、山津波にあったとき

のことを木札に書いて門に掲げていた。

山門の石段下は大樹の海である。」と記している。

「ねじれ竹」とは「布袋屋(昔は布川屋)」のこと、現在も伝説の

ねじれ竹が庭に生(は)えている。また「山津波にあった家」とは、

鉄砲水で宿の半分を消失した「木地屋」のことである。家の傍に、

水害のことを書いた石碑が立っている。

と、記されている。

記録による、山津波で宿の半分を消失したことのある、

4軒のうちの「木地屋」さんの庭と思われる。

山津波、鉄砲水の様子を記してあるであろう石碑。

こちらにも、、

豪雨、、巨木、、轟音、、嗚呼、、天変地異、、。

右に曲がれば、裏から太山寺へ

僕は、真っ直ぐ、三の門の方へ行く。

↓2010年2月の写真 門屋(井筒屋)さんと思われる。

続く。