令和5年12月26日⑨番外霊場 室岡山薬王院蓮華寺 | お遍路 の記憶

お遍路 の記憶

大好きな四国八十八ヶ所参りの、写真や日記を整理していきます。

真っ直ぐ行ってもいいし、右に曲がってから先を左に行く。

頭ではわかっていたのに。。

、、、行き過ぎて、、戻ってくる(/ω\)

この、、先の方👣

(;^ω^)ふぅ~

9時40分、蓮華寺に着きました。

谷町歴史と文化マップ目キラキラ

伊能忠敬先生も来たんだな。

お寺にも寄ったかも、、。

山門前に頌功碑・頌徳碑が建てられている。

『門屋常五郎君頌功碑』

愛媛県生涯学習センターデータベース『えひめの記憶』には、、 

果樹栽培の先覚者として記されている人に

 潮見地区の門屋常五郎は潮見村役場の助役収入役の要職にあって、

農村の副業には果樹栽培が最良の道と考え、職を辞し自ら道後村に

果樹園を開いて栽培の研究をした。

帰村して私有の山林数町歩(ha)を開墾して梨・桃・柑橘を栽培し、

城北地域の果樹栽培の先導的役割を果たした先覚者で、大正10年

(1921)潮見村園友会員によって蓮華寺境内に頌功碑が建てられた。

と、記されています。

ネットで名前を検索すると、、

『四国霊場案内 再版』(門屋常五郎/著 門屋栄五郎 1925年)

と出ます。
四国関連の御本も出されているのでしょうか。

『門屋禮三郎翁頌徳碑』

愛媛県生涯学習センターデータベース『えひめの記憶』には、、

 

潮見の門屋礼三郎は明治35年(1902)北久米の仙波八三郎から

ネーブルの苗木を入手して栽培した。ネーブルははく皮に不便で

あるが、高級柑橘として歓迎された・肥培管理が集約的で、温州

みかんよりも栽培もむつかしく、病虫害に弱く裂果などの現象も

あって温州ほどには伸展しなかった。

しかし、門屋礼三郎のネーブル園は斯界に光彩を放っていた。

 

門屋 禮三郎 (かどや れいざぶろう)
 明治17年~昭和47年(1884~1972)果樹栽培功労者,政治家。

中予地方における柑橘栽培の先駆的存在として活動するとともに,

果樹組織の育成指導に尽した。明治17年8月27日温泉郡潮見村谷

(現松山市谷町)に生まれる。明治35年梨の全盛期に柑橘栽培の

将来性を予測し,自らその栽培に従事する傍ら,果樹研究会を結成

するなど,柑橘産地形成の基礎をつくった。

大正2年伊予果物同業組合の設立に参画し,昭和12年伊予果物同業

組合副組合長となる。戦後昭和23年温泉青果農協組合長及び愛媛県

青果農協連会長となり果樹農業団体の育成発展に尽した。

その外潮見村長,松山市議会議長,裁判所調停委員などを務め,幅

広い活動の事績を残している。昭和30年藍綬褒章,愛媛新聞賞(第1回),

昭和33年法務大臣表彰,昭和39年勲五等双光旭日章等を受けた。

松山市谷町に頌徳碑が建っている。昭和47年10月9日88歳で死去。

と、記されています。

 

地元農業の発展に、尽力された方々の碑が建てられていた。

さぁ、、いよいよ

 

番外霊場 室岡山(しっこうざん)蓮華寺

本尊 薬師如来

開基 行基菩薩 天平15年

宗派 真言宗豊山派

当寺の山頂には1500年以上も昔の遺跡があり、古くから

当地方の尊信をあつめる霊地であった。現本堂は延宝2年

(1674)建立されたものである。

真念「道指南」によれば「〇たに村、此所にむろおかやま

とてよこ堂、本尊薬師、諸邊路札打也。」とあり、多くの

遍路が納札する番外札所であったことを示している。

(空海の史跡を尋ねて 四国遍路ひとり歩き同行二人 解説編より)

山号額「室岡山」

しっこうざん、、って読むんだな

凄い目力に、、圧倒された

お参りさせていただきます💦

よろしくお願いしますm(_ _)m

  四国八十八ヶ所霊場番外札所

  伊予十二薬師霊場第三番札所

   室岡山薬王院蓮華寺縁起

 当寺は愛媛県松山市谷町にある。真言宗豊山派に属し、伊予

十二薬師霊場第三番の札所である。本尊様は薬師如来である。

「薬師如来」とは、仏の中のお医者であり、病気をなおし、福

徳を授ける仏様である。寺の縁起を記す巻物によれば、「天平

15年(西暦743)年6月17日(人皇45代聖武天皇の御代)行基

菩薩全国行脚の際、当山の山頂において光輝く仏体を発見し、

草堂をつくってお祀りした」のが、今の本堂に安置する本尊

薬師如来であるといわれる。現在の仁王門から北方、約150m

の地点に礼拝坂(座拝坂ともいう)という坂があり、輝く仏体

を恐れかしこんだ村人たちが、この坂から山頂を伏し拝んだ所

であるという。山号の室岡山は、室のある岡の意味で、山頂に

は岩室がある。後述の石棺と関連があると思われる。

 当山は独立した小さな丘で、面積は約2ヘクタール余、樹木・

竹林うっそうと茂り、小鳥相集いてさえずり町民の憩いの場所

となっている。昭和52年に松山市の景観樹林地区に指定された。

岡の中腹にある本堂は、延宝2年(江戸時代1674年)に、時の

松山藩主の後援のもと、近郊の有志・篤志家の浄財を受けて建

立され、今日見る六間四面の優美な建物である。今日まで5回の

大修繕を行っている。本尊を納めている厨子は文安5年(江戸時

代中期の1448年)の作といわれ、当寺の貴重な文化財である。

 半井梧庵著「愛媛の面影」によれば、和気郡蓮華寺の頂に

  「、、、、、。前松山城主加藤嘉明朝臣の免許状あり。その文に曰く、

  『室岡山その方へ預け置き申し候間、

  木茂り悪しき所は、下刈せられよろしき様申し付くべきものなり。

              寛永3年(1626年)5月27日

               加藤左馬之助嘉明 印 室岡宝印』」

とあり、松山城主加藤嘉明公が、当山住職に書状を与え、当山の

山林・竹木を管理するように命じている。思うに江戸時代において

当山は堀江街道の要衝であり、近くの「七曲り」・「要崖」の古蹟

とともに、松山城の要塞防禦地帯であった。そのために、当山は松

山城主の庇護を受け、兵士の屯所であったと思われる。

 次に当山で大切なもの石棺がある。従来は石棺の蓋と信じられて

いたが、昭和51年6月に倉敷考古館館長 間壁忠彦氏が来寺されて、

「これは石棺の底の部分であり、5世紀のもの、九州阿蘇の火山岩

でつくられており、1500年の昔、当地に豪族がいて、九州からこの

石棺を船にのせて運ばせ、山頂に葬ったものである。」と鑑定され、

数多くの新聞・テレビで報道された。今、中門前に安置されている

のがそれである。従ってこの事項からも、1500年前の昔から当山は

霊地・霊場として尊信を受けていたことが分る。当山の各所には時代

の判別できない古い塚が多く発見されていることもそれを裏付けて

いる。

              (昭和57年、先代住職道澄和尚誌)

 当山の住職については、令和3年(2021年)現在、

                 中興以来27世を数えている。

 

山門をくぐり、室岡のお寺へ

(^^;)中門に💦

これが、、九州の火山岩の石棺の部分ですね

、、後で見よう。

中門に、お参りの作法

本堂へはまだ、のぼります。

階段下にお地蔵様

行こう💦

のぼりました\(^o^)/

御水で清めて

鐘を打たせていただき

今日まで5回の大修繕を行ったという、延宝2年(1674)に

建立された、六間四面の本堂。

お薬師様に祈る。

大師堂

続く。