俳人、お坊様、旅人、遍路人、、、
山頭火さん、、、
遠くから見ていた、送電線の鉄塔脇です。
この鉄塔を目印に来たら、間違いないですね。
正面奥が、御幸寺
その手前、、
『一草庵』到着です。
続く。からです。
山頭火と一草庵
ひょいと四国へ晴れきってゐる
昭和14年(1939)10月1日、ふらりと松山へやってきた
山頭火は、12月15日、支援者の好意により、ここ御幸寺
境内の、のちに「一草庵」と呼ばれる納屋に住んだ。
山頭火は、ここで俳友たちと「柿の会」を結成。賑やかに
句会を催し、代表句集『草木塔』を刊行するなど、自らの
生涯で最も落ち着いた安らかな生活を送っている。
昭和15年10月11日早朝、脳溢血で死去。享年59歳。念願
のころり往生であった。
昭和27年(1952)、一草庵は老朽化が進んだため、山頭火
顕彰会が35万円の浄財を募って改築。昭和55年(1980)、
顕彰会から松山市に寄贈された後、数回の修繕工事が施され、
平成21年、周辺の環境整備に伴う改修によって、改築当時の
面影が蘇った。
一草庵て前に、トイレと、休憩所、
山頭火先生の、資料パネルが、展示されている。
山頭火先生の写真
下に書かれているのは、、、
使われていた自筆を写したものだろう。
こちらの色紙は、、、
『うどんを供へて
母よ
わたくしも
いただきまする
山頭火』
愛媛県生涯学習センター、データベース愛媛の記憶を読むと、
種田山頭火先生の、成育歴の重要な話で、、、
母親の自死に遭遇し、それを背負って生きている。
2度の四国遍路も、母の位牌を伴っていた、、、。
この歌、、とても重い。
写真展示や、、
種田山頭火先生の、松山でのことについて、記されていた。
続く。












