令和5年6/11(21)通り過ぎないで、、 | お遍路 の記憶

お遍路 の記憶

大好きな四国八十八ヶ所参りの、写真や日記を整理していきます。

石碑が見えました。

桑原八幡神社・三島神社です。

続く・

行こう!!

からです。

大阪の泉州地域に住んでいます。

雨戸を閉め、台風対策をして、閉じこもり中。

同じ大阪でも、停電の場所もあるようです。

早く回復すればいいけど、電気工事屋さんも、、命懸けだな。

母と無事に家で待機できることは、喜びだな。

神棚の米・塩・水を新たにし、祈りました。

仏様にも、線香とロウソクに火を点け、感謝しました。

どうか、、皆様が、無事でありますように。

 

繁多寺から下り、八幡神社の横に来ました。

浄土寺横の日尾八幡神社で見た説明に、

『慶長八年加藤嘉明公勝山に御引移りの節、新に築

 かれた城の固めとして、城山の四方にあたる、近郷の八幡宮八社を

 選び定められ、各社に武運長久を祈願せられて以来、世にこれを、

 八社八幡と称するようになった。』

とあります。

ここ、桑原八幡神社は、松山八社八幡の二番のようです。

郷社 桑原八幡大神

三島大明神

松山市教育委員会による説明板

桑原八幡神社

 松山の八社八幡の二番社。祭神は誉田別尊(応神天皇)・足仲彦尊

(仲哀天皇)・息長足姫尊(神功皇后)・姫大神である。

 源頼義が伊予の国の鎮護として八社八幡を定めたとき、第二番社と

下と伝えられている。平安から鎌倉時代にかけて、源頼義が下向して

八幡宮を勧請・造営したという伝承の陰には、地方武士の協力があっ

たといわれる。

『豫章記』に「伊予入道頼義、当国の国司として在国あり、親経と同

志にて、国中に四十九ヶ処之薬師堂、八ヶ所八幡宮建立せらる」とあ

り、河野家代々の崇敬を受けていたとみられる。

 万治2(1659)年、松山藩主松平定行が東野へ隠居所を建設したと

き、当社を祈願所に定めたとある。なお、当社は、はじめ桑原町古宮

にあったが、寛治2(1088)年に今の地に移したという。移動の理由

などはつまびらかでない。

                   松山市教育委員会

いつも、、先を急いで、通り過ぎるばかり。

遍路道にある八社八幡の二番社。

参らせて頂こう。

「奉り、、造る、、」

下は埋もれている。

文政八年酉、、1825年

髄神門の建てられた年だろう

狛犬様

お参りさせていただきます、、。

よろしくお願いします。m(_ _)m

こちらは、、

落ち着いて髭の生えた、左大臣様

反対側には、、

若々しく力強い、右大臣様

正面 蟇股

門をくぐらせていただく

髄神門をくぐり、本殿に向かう階段下に「百度石」

神様の御社が見えてきました。

続く。