令和4年12/27(24)番外霊場 青岸山 札始大師堂➁ | お遍路 の記憶

お遍路 の記憶

大好きな四国八十八ヶ所参りの、写真や日記を整理していきます。

お参りさせていただきますm(_ _)m

続く。からです。

僕は、占いなどで、すぐ信じ込んでしまう馬鹿者です。

今日は注意の日だったので、、休みだけど、家を出ないでいようと、、

思ったけど、近場の神社にお参りに行きました。

以前、大変お世話になった(と、思っている)ので、ありがとうを

言いに行きました。

お参りが終わり、神社の近くに駐車していた場所で、、

車、、汚れているので、フクピカキラキラで、拭いていて、

タイヤのホイールをくるっとしたら、、、、、

「ぷしゅ~」((+_+))

空気の漏れる音

チューブレスタイヤの空気を入れる部分のゴムが劣化していました。

休みの日で、昼前で、、気付いて良かった。

結局、部品交換と、タイヤも交換です。

 

ここで、、今日はどう思ったか。

①やっぱり、占い通り悪い日だ。修理代もかかる。

 せっかくの休みなのに、時間も取られた。

➁休みの日で、落ち着いて行動できた。

 仕事の日なら、大変だっただろう。

 お参りもできて、良かった。

 

結果は同じ、、どちらも同じ。

気持ち、、心が違う。

 

今、家に帰って来て、落ち着いてお茶熱いお茶を頂いています。

(^^♪

 

 

お堂の左に貼られていた縁起

 

小村大師堂の縁起

天長元年(甲辰)「西暦824」空海上人四国の行と共に産業振興の為

予州浮穴の郡に来錫せられある大河をお通りになる時、日は暮れてしまい、

しかたなく河の中州の大松の下に露宿されました。(この川は慶長年間

松山城主加藤嘉明の家臣足立重信によって工事がなされ久谷川と重信川

とになるそれまでは伊予川と呼ばれた)おりからのにわか雨の為大水が

あふれ御身の置所なく上人は法力を以ってにわか作りの草庵を結ばれた。

これを後世小村に伝わる大師堂と名づけられた。上人はこゝに仮り宿と

定められ近傍各地を接化せられたと云う。こゝに荏原の郷に衛門三郎と

云う富豪があり、彼は一般の庶民から強欲非道慍慍貧邪見の人のゝしら

れていた。上人は一日彼を済度(又は相談)しようと門前に立って鉢を

乞い給うた。彼は乞食として追いはらわせた。その後も何日か同様な事が

続いた。最後の日彼は立腹して竹箒で上人の持たれた鉄鉢に打ちかゝった。

鉄鉢は地に落ちて八つに破れ不思議にも大空高く舞い上がったという。

落ちた山を八降山(鉢降山)破片が地に落ちた窪地を八窪という。(現在

も残っている)どうした事かその後、次々と日を追って八人の子供が死ん

でいった。子供の墓を土段原の土をもって造られたと云う。(現在の八塚

に合祠されたと伝えられる)その後の彼は天をのろい地をのろって苦しんだ。

そして無常を悟った時ふと乞食姿の旅僧の事を思い出した。或はあのお方は

今都で有名な生神様生仏様とあがめられておられる空海上人ではなかったか

そう思うと上人は私に何か相談する事があったのではないか、おもい上がっ

た自分を反省しながら考えた。(上人は当時の伊予川の治水に目をつけられ

たものと思われる。此の時衛門三郎が大師と共に工事をしていたら衛門川とか

三郎川とかなっていると思われる)そして大勢の者に命じて近傍を探させた

が居りたまわず彼は決心して家を整理させて上人の跡を追う事となった。

荷俵を背負い三衣を首に足中草履にて杖笠を携えて(今日の遍路姿)上人に

面会して行いを詫びようととぼとぼ小村の中州までやって来た。老松の下に

小さな庵が中には大師の像が有るのをみて俯仰百拜ついに三郎は一夜を明か

した。(この大姉の尊像は香木の流れたるもので両刀の鎌でご自像を刻まれ

たと伝えられ現在のご本尊のお大師様であります)翌日名じるしに名札(木

のそぎ)を附記して御跡を尋ねて旅路についたと伝えられている。(大老松

は三代目と云われていたが昭和17年秋、台風でたおれた。伝説の中州もその時

実際に証明された大戦前の5万分の1の地図には大松のしるしがのっております)

この故に小村の大師堂は大昔から遍路の開祖衛門三郎札始め大師と申します。

                 四国番外霊場 札始大師堂

            (真言宗 大蓮寺境外仏堂)

お堂の扉を、開けさせていただきます。

こちらは、拝むお堂で、

奥にもう一つ建物があり、大師様自ら、両刃の鎌で刻まれた香木の

大師像が納められていると思われる。

衛門三郎様が俯仰百拜、一夜を明かし、翌日名じるしに名札を附記

して御跡を尋ねて旅路に向かった、、、。

大師様と衛門三郎様の話が掲げられている

衛門三郎様が、、大師様に竹箒で、、

鉄鉢が八つに割れ、、

天長甲辰年 大師空海上人は三郎の門前に立ちて幾度か鉢を行し

玉いければ三郎大に立腹し此執念深き坊主かなとて僕の箒を取り

て上人の眉間をしたゝか打ちければ大師上人は鐵鉢をもて之を受

け玉ふ、鐵鉢は八ッに破れて大地に落つると光明を赫と放ちて天に

舞上れり暫くして降ちたる所是鉢降山なり、八ッのくぼみを生し

所八窪の地なり、其翌日より三郎の八子は順を逐ふて頓病頓死せ

り八子を埋めたる所八塚の古跡なり

三郎は○に於て大に發心し大師上人の御跡を尋ね廻りたる事是

遍路の初めなり。

大松下の草庵で俯仰百拜の衛門三郎様

衛門三郎遍路となりて小村の大師堂迄來り見れば大師空海上人は

三郎が尋ね來るを預め知り玉ひ流木を拾ひ上げ両刃鎌を以て御自の

像を刻み残し置きて既に立ち去り玉ひき三郎は上人の居無けれど

良く似たる尊像のあるを見て杖笠をとり至心に合掌して懺悔する樣

是れ當堂納経の御姿なり而して上人の歸來を待つ爲め堂外松樹の下

に端座合掌して露宿して一夜を明したり是當額の圖なり

三郎暁天に至るも、大師の御歸來無きを以て紙片を以て國所姓名

年月日を記して札を張り納めたる故當堂を衛門三郎札始所、と称す

る所謂なり。

 是れを見て結縁の介ともなれば幸甚なり。

 奉献志主記す

大師像の左右に、和紙の納札で作られた仏像

左に脚の不自由な方が巡礼に用いた車でしょうか。

納められているので、、、たぶん、脚は回復されたのですね。

(2008年3月の写真)

(2008年3月の写真)

お堂の壁に、色々掲示されています

毎月、大師堂でお念仏があるようです

稚児大師様の絵ですね

南無大師遍照金剛m(_ _)m

2022年1月22日愛媛新聞朝刊

県歴史文化博物館蔵の版木の記事

版木の図

「伊予国下浮穴郡 小村大師堂」と刻まれているとのこと

このお堂で使われていたのだろうか

地元の方により、お堂が守られている。

札始大師堂正面 常香炉

東京市本所区だろうか

扇のような模様が刻まれている

お堂を見せていただきます。

正面 蟇股

裏面

正面 右

(2010年2月 大師堂裏のお堂)

隣の建物で、御トイレを借りました。ありがとうございました。

大師堂前のベンチで、空気をいっぱい味わいました。

バスまで、、残り40分位かな、、、。

道向かいに六地蔵様

次の次、、ここからスタートかな。

続く。