吾妻鏡抄 第一 治承四年(1180年)八月 その2 | 徒然名夢子

徒然名夢子

日々此々と過ごしけるに
東に音楽の美しきを聴けば、其処何処に赴き
西に優れたる書物のあると聞けば、其処何処に赴き
其処においても何処においても
心楽しからむことのみを願い生きることは
我の本心にほかならず

治承四年
 八月小

  二十日(庚子・かのえね)
   三浦介義明の一族をはじめ、かねてより源頼朝に味方する意思を示していた武士がいたのだが、未だ遅参していた。おそらく海路が風波が荒れて、または遠路ということで、苦労しているからだろう。そこで、源頼朝は、まず伊豆、相模両国の御家人(ごけにん)だけを率いて、伊豆国から相模国土肥郷に向けて出発された。付き従ったのは以下の武士である。
   北条四郎時政  子息三郎宗時  同四郎嘉時   平六時定
   安達藤九郎盛長 工藤介茂光   子息五郎親光  宇佐美三郎助茂
   土肥次郎実平  同弥太郎遠平  土屋三郎宗遠  同次郎義清
   同弥次郎忠光  岡崎四郎義実  同余一義忠   佐々木太郎定綱
   同次郎経高   同三郎盛綱   同四郎高綱   天野藤内遠景
   同六郎政景   宇佐美平太政光 同平次実政   大庭平太景義
   豊田五郎景俊  新田四郎忠常  加藤五景員   同藤太光員
   同藤次景廉   堀藤次親家   同平四郎助政  天野平内光家
   中村太郎景平  同次郎盛平   鮫島四郎宗家  七郎武者宣親
   大見平次家秀  近藤七国平   平佐古太郎為重 那古谷橘次頼時
   沢六郎宗家   義勝房成尋   中四郎惟重   中八惟平
   新藤次俊長   小中太光家

   彼らは皆、源頼朝が頼みとする武士達だった。それぞれが命を受けて、決死の覚悟を抱いた。

  二十二日(壬寅・みずのえとら)
   三浦次郎義澄・十郎義連、大多和三郎義久・子息義成、和田太郎義盛・次郎義茂、多々良三郎重春・四郎明宗、筑井次郎義行をはじめとする武士達が、精兵を率いて三浦を出発してこちらに向かってくる報が届いた。

  二十三日(癸卯・みずのとう) 曇
   夜になり降り注ぐように激しい雨が降った。今日の寅の刻、源頼朝が北条時政父子、安達盛長、工藤茂光、土肥実平以下、三百騎を率いて相模国石橋山に陣を構えた。
   この時、あの令旨を源頼朝の御旗の横上に取り付けて、中原中四郞惟重がこれを持っていた。永江頼隆が白い幣(しで、ぬさ)を上矢(うわや、上差の矢のこと。箙(えびら・矢を収める容器)の最初の矢のことで、鏃(やじり)に雁股(かりまた)を用いる)に付けて、源頼朝の後に控えていた。
   この頃、相模国の住人である大庭三郎景親(関東の平家一門のまとめ役)、俣野五郎景久、河村三郎義秀、渋谷庄司重国、糟屋権守盛久、海老名源三季貞、曽我太郎助信、滝口三郎山内首藤(やまのうちすどう)経俊、毛利太郎景行、長尾新五為宗・薪六定景、原宗三郎景房・四郎義行、熊谷次郎直実をはじめとする平家被官の三千余騎が、同様に石橋山の辺りに陣を構えた。
   二つの陣は、谷で隔てられていた。大庭景親の兵の中で飯田五郎家義は、志を源頼朝に寄せていたので、頼朝陣に向かおうとしたが、大庭景親の軍勢が道を塞いでいたため、心ならずも大庭景親の陣に居た。
   また、伊藤祐親法師、三百騎は源頼朝陣の背後の山にたどり着き、源頼朝を襲おうとしていた。(これは石橋山に陣取ったため、前後の谷を挟んで、大庭(平家)軍に囲まれて、頼朝軍は身動きが取れなくなった)
   三浦の者達は、夜になったので丸子川の辺りに宿り、郎従らを使って大庭景親一党の家屋を焼失させた。その煙が空の半分を覆うほど立ち上り、これを見た大庭景親は、すぐに三浦の者どもの仕業だと思った。そこで大庭景親等は話し合い、
   「今日はすでに黄昏時になろうとしているが、合戦を行うべきだ。明日になれば三浦等が源頼朝の軍勢に加わり、強敵となってしまうだろう」
   と軍議をした。そこで数千の強兵が、源頼朝の陣に襲いかかった。源家に従う兵は大庭景親等の大軍とは比べものにならないくらい少なかったが、皆昔からのよしみを重んじて死を怖れなかったため、佐那田(さなだ)余一義忠、武藤三郎、またその郎従である豊三(ぶんぞう)家康らが落命した。大庭景親はいよいよ勝ちに乗じてきた。明け方になって、源頼朝は杉山(現在の神奈川県足柄下郡湯河原町付近)に撤退した。その時、疾風と暴雨にも悩まされていたが、大庭景親が矢を放ったとき、あの飯田家義が大庭軍に加わっていて、源頼朝を逃れさせるために、自分の家来の内六人を大庭景親軍と戦わせた。その隙に源頼朝は杉山に逃げおおせた。

  二十四日(甲辰・きのえたつ)
   源頼朝は杉山の堀口辺りに陣を構えた。大庭三郎景親は三千余騎を率いて追って来たので、源頼朝は後方の峰に逃げた。この間に加藤次景廉と大見平次実政が源頼朝が逃げた後にとどまり、大庭景親軍を防いだ。そして加藤景廉の父である加藤五景員と、大見実政の兄である大見平太政光は、それぞれに子を思い、弟を憐れんで、前線には進まず馬をとめて矢を放った。
   この他にも、加藤太光員、佐々木四郎高綱、天野藤内遠景・平内光家、堀藤次親家・平四郎助政らが同様に、馬を並べて防戦した。加藤景員らが乗っていた馬の多くは敵の矢に当たって斃れた。源頼朝は馬を廻らして百発百中の弓技を見せながら、何度も闘いに及んだが、その矢は外れることがなく、多くの敵を射殺した。矢が尽きたので加藤景廉が源頼朝の馬の轡をとって、山深くに引き連れたところ、大庭景親軍が四、五段近くまで迫ってきた。そこで、佐々木高綱、天野遠景、加藤景廉等は数段戻って矢を放った。北条父子三人(時政・宗時・義時)は大庭景親と戦っていたため、次第に疲労困憊し、山の峰に登ることができず、源頼朝の近くに従うことが出来なかった。加藤景員・光員・景廉、宇佐美祐茂、堀親家、大見実政は、北条父子の供をすると申した。北条時政は、
   「それはだめだ、早々に源頼朝殿を探せ」
   と命じたので、彼らは数町(一町は条里制で六十歩、現在では約109メートル)の険しい道をよじ登ったところ、源頼朝は倒れた木の上に立っていて、土肥実平が傍らに控えていた。源頼朝は彼らの到着を喜んだ。土肥実平は次の様に言った。
   「各々無事に参上したのは喜ばしいことではありますが、これだけの人数を引き連れては、この山に隠れることは難しいでしょう。殿だけは、どれだけ時間が掛かっても、私が計略をめぐらして隠し通します」。
   しかし、彼らはお供したいと申し上げ、源頼朝もこれを許そうとした。すると土肥実平は再び次の様に言った。
   「今の別離は後の大幸のためです。共に生きながらえて別の計略をめぐらせれば、会稽の恥(かいけいのはじ、中国春秋時代,越王勾践が会稽山で呉王夫差に敗れたが,後年に、この恥を雪いだという故事。)を雪いで復讐を果たすことが出来るのです」。
   この言葉で、各々が分散することになった。悲しみの涙に目が遮られて、歩くべき道が見えないほどだったという。その後、飯田家義(大庭景親軍に紛れていた)が源頼朝の後を追って参上した。頼朝の御念珠(ねんじゅ)を持参したのだ。これは今朝の石橋山の合戦の時に落とした者だった。いつも持っていたので、狩り場辺りでは多くの武士が見ていた御念珠である。そこで源頼朝は紛失して慌てていたところ、飯田家義が探し出したので、何度も感謝していた。そこで飯田家義がお供したいと申し上げたが、土肥実平が先程と同じ様に諫めたので、飯田家義は鳴きながら立ち去った。
   また、北条時政と北条四郎義時は、箱根湯坂を経て甲斐国へ向かおうとしていた(甲斐国の武田信義に援軍を要請しようと考えていた)。北条三郎宗時は土肥山から桑原へと降りて、平井郷を取っていたところ、早河付近で、伊藤祐親法師の軍勢に囲まれ、小平井の名主、紀六久重によって、射殺された。工藤茂光も歩くことが出来なくなって自害した。源頼朝の陣と彼らが戦っていた場所とは山谷を隔てていたため、どうすることもできず、悲しみは大変深かった。


   訳者注:頼朝の挙兵は、北条氏と工藤氏の貢献度が高く、工藤茂光の死は、源頼朝勢にとって、痛恨だった。これを機会に北条氏の活躍が際立っていく。

   挙兵前、親平家の伊藤祐親(工藤氏の六代目)が源頼朝を監視していた。しかし、大番役(京警護)で上京している間に、娘・八重が頼朝と通じ子・千鶴丸をもうける。伊藤祐親はこれを知って起こり、千鶴丸を殺害し、頼朝も殺そうとした。しかし、次男の伊藤祐清(頼朝の乳母・比企尼の三女を妻としていた)が頼朝に危険を知らせ、伊豆山神社を経て北条時政館に匿われて、危機を脱した。しかし、北条時政の正室は、伊藤祐親の娘であり、時政が積極的に頼朝を匿ったかどうかは不明だ。

   工藤茂光も、伊藤祐親と同じ工藤氏(藤原南家流)であるが、伊豆の山岳領地を広く支配し、良馬を生産した。後北条期に登場する狩野氏は、工藤茂光を祖とする。

 

   大庭景親は源頼朝の後を追って、峰や谷を探し回った。

   梶原平三景時は、確かに源頼朝の居場所を知っていたが、情に思う所が有り、この山には人が入った痕跡はないと偽って、大庭景親の手勢を引き連れて、隣の峰に登っていった。

   その時、源頼朝は髻(もとどり)の中の正観音像を取り出し、ある岩窟に安置した。土肥実平が源頼朝の考えを尋ねると、

   「自分の首が大庭景親達の手に渡る日に、この本尊を見れば源氏の大将軍のすることではないと、人は後々まで非難するだろう」(首を取られてしまえば、この戦は負けで、頼朝は源氏の大将軍ではなかったと、後世の人の誹りを受けるだろう)

   と言った。この尊像は頼朝が三歳の時、乳母が清水寺に参籠して、幼児の将来を深く祈り、十四日を経た時、夢のお告げがあり、忽然と二寸の銀でできた正観音像があらわれ、これに帰依して崇敬(すうけい)してきた。

   夜になり、北条時政が杉山にいる源頼朝の陣に到着した。箱根山権現神社の別当・行実は、弟の層・永実に食事を持たせて、源頼朝のもとへつかわしたが、その前に北条時政に会い、頼朝の動向を尋ねた。北条時政は、

   「源頼朝将は、まだ大庭景親の包囲から逃れてはいない」

   と言うと、永実は、

   「もしかして、あなたは私を試していますか。もし頼朝殿が亡くなっていらっしゃるのならば、あなたは生きてはいらっしゃらないでしょうから」

   これを聞いて北条時政は大いに笑い、永実を連れて頼朝の御前に参上した。永実は持参した食事を献上した。その食事は、全員が餓えていた時だったので、千金の値があった。土肥実平は、世が落ち着いたならば、永実を箱根山別当職(べっとうしき)に補任されるべきと言った。源頼朝もこれを許諾した。その後、永実を道案内として源頼朝は箱根山権現神社に到着した。行実の宿望は参詣する僧侶や俗人たちが群れ集まっていて、隠れるのには向かないというので、永実の自宅に匿った。この行実は、父の良尋の時に、六条廷尉禅室(源為義・源義家の孫、源頼朝、義経の祖父)、左典厩(源義明・頼朝の父)らと多少親交があり、これによって行実は、京都で父から箱根山別当職を補任するよう譲られて、京都から箱根に向かった時、行実が賜った源為義の下文(くだしぶみ)には、

   「東国の輩は、行実がもし催促したならば従うように」

   とあり、源義朝の下文には、

   「駿河・伊豆の家人等は行実が催促したならば従うように」

   と書かれていた。そこで源頼朝が北条にいる頃から、源頼朝のために祈祷をし、ひたすら忠義を尽くしてきたという。石橋合戦での敗北の報を聞き、ひとり嘆いていた。弟達はたくさんいるが、その中でも武芸の技術がある永実を源頼朝に遣わしたという。

   三浦の者達が、城を出て丸子河の辺りまでやってきて、昨夜から夜が明けるのを待って、源頼朝の御前に参上しようと考えていたが、合戦で敗北したというので、思いがけない事に急ぎ帰って行った。その途中の由井浦で、畠山次郎重忠と数刻の間、戦った。多々良三郎重春とその郎従の石井五郎等が落命した。一方で畠山重忠の郎従五十余りの首が取られたので、畠山重忠は退居した。三浦義澄らは三浦へ帰っていった。その間に上総権介(かずさごんのすけ)平広常(たいらのひろつね・房総平氏惣領家頭首、上総国は親王任国3ヶ国(常陸国、上野国、上総国)の一つで、国守を置かず介が最も上位長となる。故に上総氏は上総国と下総国に二ヶ国を領有していた。)の弟である金田小太夫頼次が七十騎を率いて、三浦義澄の軍に加わった。