吾妻鏡抄 第一 治承四年(1180年)八月 その3 | 徒然名夢子

徒然名夢子

日々此々と過ごしけるに
東に音楽の美しきを聴けば、其処何処に赴き
西に優れたる書物のあると聞けば、其処何処に赴き
其処においても何処においても
心楽しからむことのみを願い生きることは
我の本心にほかならず

治承四年
 八月小


  二十五日(乙巳・きのとみ)
   大庭三郎景親は源頼朝の行く道を塞ごうと、軍勢を分散させ、方々の道を固めた。俣野五郎景久は、駿河国の目代・橘遠茂の軍勢を引き連れて、武田信義と一条忠頼等の甲斐源氏を襲撃するために、甲斐国に向かった。しかし、昨日(二十四日)、辺りが暗くなったので富士山北麓で野営していたところ、俣野景久や郎従が持っていた百余りの弓弦が鼠によって食いちぎられてしまった。そこでどうしたらよいかと、途方に暮れていたところに、安田三郎義定、工藤庄司景光、その子息の小次郎行光、市河別当行房が、石橋合戦の事を聞いて、甲斐国を出発していたので、波志太山(はしだやま、比定されていない。沼津市の愛鷹山、富士河口湖町の足和田山等、諸説有る)で俣野景久の軍勢と衝突した。各々が轡を廻らし矢を放ち、俣野景久が攻め立てられた。数刻の闘いの後、俣野景久は弓の弦がなくなったので、太刀を手に取り戦ったが、矢を防ぐことが出来ず、俣野軍の多くが矢に射られてしまった。また安田等の甲斐源氏軍の家人も剣刃で斬られたが、俣野景久の軍勢は敗れ去った。
   源頼朝が箱根山にいる間、行実の弟の智蔵房良暹(りょうせん)は故廷尉の山木兼隆の祈祷師だったので、兄弟の行実・永実に背いて、早々に悪徒を集め、源頼朝を襲おうとした。永実はこれを聞いて、源頼朝と兄の行実に報告したので、行実は考えた上で言った。
   「良暹の武勇はたいしたことはありませんが、謀を企てていることは、大庭景親に伝わって、我先にと急いで力をあわせるにちがいありません。早くお逃げに鳴ってください」。
   そこで源頼朝は山の案内人を連れて、土肥実平と永実とともに、箱根路を経て土肥郷に向かった。北条時政はこれまでの事情を武田信義等の源氏に伝えるために甲斐国に向かおうとした。別当行実は同宿の南光房を北条時政に遣わした。北条時政はこの南光房を伴って、山伏が通る道を経て甲斐国に向かった。
   しかし、源頼朝が到着する場所を見定めなければ、甲斐源氏等の勢力を集めることが出来ない。それならば源頼朝の後を追って、そこから使者を出して、甲斐源氏等に会う方がよい、と考えたので、途中で引き返して土肥の方へ、源頼朝を探して行った。そこで南光房は箱根山に帰っていった。

  二十六日(丙午・ひのえうま)
   武蔵国の畠山次郎重忠は、平氏の重恩に報いるため、さらに由井浦での敗戦の屈辱を雪ぐため、三浦の者どもを襲撃しようとしていた。そのために武蔵国の多くの党を引き連れで集まるように河越太郎重頼(比企尼の娘が妻)に伝えた。この河越重頼は、秩父氏の次男の流れだが、家督を継承し武蔵国の多くの党を従えていたので、知らせた。江戸太郎重長も、畠山重忠の呼び掛けに応じた。今日の卯の刻には、このことが三浦軍にまで伝わっていて、一族が皆、三浦の衣笠城に籠城した。城の東の大戸口の大手は三浦次郎義澄と三浦十郎義連が、西の木戸は和田太郎義盛と金田大夫頼次が、中陣は長江太郎義景と大多和三郎義久が守備を担当した。辰の刻になって、河越重頼、中山次郎重実、江戸重長、金子・村山党の者達をはじめ数千騎が衣笠城に攻めてきた。三浦義澄等は戦ったが、先日の由井の戦いと今日の合戦で疲弊して、矢種も尽きたので、夜になると城を捨てて落ちていった。三浦義明も連れて行こうとしたが、次の様に言った。
   「私は源家累代の家人として、幸いにもその貴種最高の時にめぐり逢うことが出来た。このように喜ばしい事があるだろうか。生きながらえて八十有余年。これから先を数えても幾ばくも無い。今は私の老いた命を源頼朝に捧げて、子孫の手柄としち。お前達はすぐに落ち延びて、源頼朝殿の安否を確認しなさい。私は一人、この城に残り、軍勢が多く居るように畠山重忠に見せつけよう」。
   三浦義澄以下は涙を流して、取り乱していたが、三浦義明の命に従って、散り散りに落ちていった。

 


   訳者注:三浦義明は桓武平氏・平良文を祖とする相模国三浦荘の在庁官人で、その勢力は三浦半島の大半に及んでいた。平良文が醍醐天皇から相模国の賊の討伐の勅令によって下向し、その後関東のいくつかの場所を領地としているが、不明な点も多い。その後、陸奥守だった平良文は鎮守府将軍に任じられ、東北の動乱を抑えた。その後関東に戻った。子孫に、千葉氏、上総氏、秩父氏、河越氏、江戸氏、渋谷氏、三浦氏、梶原氏、長江氏、鎌倉氏などが派生している。
  三浦義明が源家の家人と言うのは、彼の娘が源頼朝の父である源義朝(源頼朝・義経の父)の側室となっているからだろう。
  また、適将の畠山重忠の母(父・畠山重能の正室)は、三浦義明の娘であり、畠山氏と三浦氏の戦いは、身内同士となるため、畠山重忠は衣笠城攻撃には積極的ではなかったとされる。本来軍を仕切る父・畠山重能が大番役で京都に出仕していたため、平家へのポーズとして、諸将を集めた。
  そのため、三浦義明が一人残って首を畠山重忠へ差し出すことで、無駄な戦を回避したと考えられる。

 

 

   また、大庭景親は渋谷庄司重国のもとへ行ってこう言った。

   「佐々木定綱四兄弟は、源頼朝に味方して平家に弓を引いた。その罪を許すことはできない。そこで、彼らを探し出す間、妻子らを捕縛しよう」

   これに渋谷重国は答えた。

   「彼らとは以前からの約束があったため助けていました。しかし今は、彼らが旧好を重んじて源氏の元に参上するのを制止する理由がありません。私、重国は、あなたの催促に応じて外孫の佐々木義清を連れて石橋山に向かいましたが、その功を考えずに、佐々木定綱以下の妻子を捕らえるという命令には、納得できません」

   大庭景親は、渋谷重国の道理に屈して帰って行った後、夜になって、佐々木定綱・盛綱・高綱が箱根の山奥を出たところで、醍醐禅師阿野全成(だいごぜんじ・あのぜんじょう)と行き違うと、連れ立って渋谷重国の館に到着した。重国はこれを喜んだが、周囲にこのことが漏れるのを警戒して、倉庫の中に彼らを招き入れ、密かに膳を出して酒をすすめた。この時、佐々木次郎経高は、討ち死にしたのかと渋谷重国は尋ねた。佐々木定綱は経高を誘ったのだが、思う所があると行って、一緒に来なかっただけだと答えた。すると渋谷重国はこう言った。

   「経高を我が子のように思って、すでに幾年も経った。先日、源頼朝の元に参上するというので、私は一旦それを制止したのだけれども、言うことをきかず参上してしまった。合戦が敗戦に終わった今、私の心中を恥じたので来なかったのだろう」

   そこで、渋谷重国は、郎従等を方々に使わして佐々木経高の行方を尋ねた。渋谷重国の情けの深さに、この話を聴いて感動しない者はいなかった。

   加藤五景員と子息の光員・景廉らは、去る八月二十四日以降の三日間、箱根の深い山中にあって、食糧も尽き気力も無くなり、呆然としていた。特に加藤景員は老齢だったので、歩くこともできなくなっていた。そこで二人の息子を呼んでこう言った。

   「私は年老いてしまった。たとえ事がうまく運んでも、もう長生きできないだろう。お前達は壮年の身であり、無駄に命を粗末にしてはならない。私をこの山に捨てていき、源頼朝公の元に参れ」

   すると、光員らはうろたえ、断腸の思いではあったが、老いた父を走湯山に送った。この山で加藤景員は出家した。兄弟は甲斐国へと向かった。今夜の亥の刻になって、伊豆国府の祓土(はらいど)に到着したところ、地元の住人が怪しんで追いかけて来たので、加藤光員と景廉は散り散りになって、互いに行方がわからなくなった。

 

  二十七日(丁未・ひのとひつじ時々小雨 申の刻以後は風雨が特に激しくなった

   辰の刻、八十九歳の三浦介義明(ひとり衣笠城に残った)が、河越太郎重頼、江戸太郎重長らによって討ち取られた。八十を過ぎた高齢で、助ける人がいなかった。三浦義澄らは安房国に向かっていた。北条時政、北条四郎義時、岡崎四郎義実、近藤七国平らは土肥郷の岩浦から船に乗って、安房国を目指していた。そして海の上で船を並べて行くうちに、三浦の者と合流し、現在の心配事などを話し合った。その頃、大庭景親は数千騎で三浦に攻め寄せたが、三浦義澄らはすでに海を渡った後だったので、戻っていった。

 

  二十八日(戊申・つちのえさる)

   加藤光員・景廉兄弟は、駿河大岡牧で再会し、悲しみの涙に襟を濡らした。その後富士山麓に引き籠もった。

   源頼朝は土肥の真名鶴崎(まなづるさき)から船に乗り、安房国に向かった。土肥実平は土肥の住人である貞恒に命じて小船を準備させた。そして、源頼朝は、ここから土肥弥太郎遠平を使者として御台所(北条政子)のもとに遣わして、離ればなれになってからの憂愁を伝えたのだった。

 

  二十九日(己酉・つちのととり)

   源頼朝は土肥実平を連れて船を進め、安房国平北郡の猟島(竜島)に到着した。北条時政をはじめとする人々が迎えた。ここ数日の鬱々とした気持ちが一度に晴れたのだった。