今日も定時ダッシュ -41ページ目

ポケモンXY ビビヨンに群がる薄汚い人間ども

 ポケモンXYをプレイしていない方に説明しますと、ポケモンとは「ポケットモンスター」というRPGに登場するモンスターの総称のことで、ポケットモンスターを略してポケモンといい・・・何もここまで遡って説明する必要はない。

 で、ビビヨンとは最新作であるポケモンXYに登場するチョウチョがモチーフになった虫タイプのポケモンですが、このポケモンは他とは違う特徴があり、羽の模様が異なるビビヨンが現時点では18種類存在します。しかしこのビビヨンの羽模様というのは、3DSに登録された自分の住んでいる地域に基づいており、要は地球を18に分割して、それぞれの地域に該当する模様のビビヨンが生まれる(進化する)という物凄い仕掛けになっています。ちなみに日本は耽美な紫色のビビヨンが生まれる設定です。

 ポケモンに馴染みの無い人は、「それ、一体何のためにあんの?」と疑問に思うでしょうが、このゲームには「グローバル・トレード・システム(略してGTS)」という、世界中の人とネットを介してポケモンを交換できる仕組みがあり、海外の人が持っている模様の違うビビヨンと手持ちのポケモンを交換することで、色々な柄のビビヨンを手に入れることができます。

 しかし。世界で500万本はくだらないであろうポケモンXYの販売本数ですが、その半分近くが日本での売り上げとなると、交換に出されるビビヨンの半分も日本産ということになり、外国の人が交換しようとしたビビヨンを(主に日本人が)奪い合うというという事態がGTSで起こっています。そのうえ、外国の人が色々な模様のビビヨンを交換しようとしても日本勢があまりにも多いせいで紫ばっかり送りつけられてくるため、「NO PURPLE!!!(ムラサキ寄越すんじゃねえ!)」というブチキレたコメントがされているものも多くて笑ってしまう。でもね、ここまでされても健気に自分のビビヨンと誰かのビビヨンを交換しようとしている外国のヒトって、きっとイイ人だと思うの。

 などなど、上から目線で不満を述べましたが、自分こそこのテの限定に非常に弱い薄汚れた大人であるので、珍しい柄のビビヨンと「ルギア求む!」みたいな条件に煮え湯を飲んだり、逆にいまだにムラサキを出してイベルタルを求めている図々しい輩(おそらく子供)に、オッサンである自分は何とかして世の中の仕組みの一端を教えてやりたくなったりと、ポケモンとは、げに色々な感情が渦巻くゲームでございます。

 ただまあ、そんな感じでえんえんと伝説ポケモンと引き換えにされている色とりどりのビビヨンをGTSで見ていると、「まあ別に自分のじゃなくてもコレ眺めてれば同じじゃねえ?」という気になってきた。

ポケモンXY 育て屋

 一ヶ月もすれば子供に与えたポケモンも飽きるだろうと踏んでいたのに、二人ともいまだに飽きずに遊んでいる上、ヤドンエディションの3DSを手に入れたのだから、カートリッジでは失礼にあたるのではないか(誰にだ)という思いから、結局ダウンロードでポケモンYを購入してしまいました。ああ・・・同じゲームを買わされる屈辱・・・でもちょっと快感・・・

 ということで遅くにスタートしたために、いまだにストーリーの最中であります。今回のポケモンの最大の特徴はなんといってもこれま頑に守り通して来たドット絵から3DCGへと大胆にチェンジしたことで、それによってポケモンの最大の魅力であるポケモン達の動きがもうビックリするほど緻密に、可愛らしく、カッコよく、ユーモラスに、迫力を増したものになっている。ポケモンのタイプが色々あるものだから、モーションの印象も一言でなんて言えない。とにかく凄い。

 ポケモンBWまでのドット絵にも愛着があるのだけれど、3Dになってポケモンがここまで魅力的に動いてしまうと、3Dに対する不満点なんてどうでもよくなってしまう。ポケパークの時に「もっとポケモンの動きが見たかった」という感想を述べた記憶があるが、今回のXYはまさにその欲求に真っ向から答えた作りになっている。技のエフェクトも派手になって、自分はそのうちWiiUでバトルレボリューションが出ると思っていたが、これ、3DSだけでもう十分凄いわ。バトレボの出番ナシ。

 でもね・・・不満点なんてどうでもいいと言っといて、育て屋が老夫婦から若夫婦に代替わりしているの、アレはね、アレだけはどうしても納得いかん。あれだけポケモンのモーションに凝っておきながら、じいさんばあさんの3Dモデルが上手いこと作れませんでしたとか言い訳こいてんじゃーないだろな。若夫婦のセリフがいちいち以前の老夫婦と同じで、言葉尻だけ若返っているのも癇に障る。これまでは自分の手持ちに空きがあれば自動でストップして呼び止めてくれたのに、今回は旦那の様子がわかりにくくて余計に腹が立つ。

 ポケモンXYは、作りを2Dから3Dに大きくチェンジしたのに、これまでのスタイルはほぼ踏襲しており、善きにつけ悪しきにつけポケモンが変わってしまった・・なんていう違和感が殆どないのだが、ならばなぜ育て屋だけがフォルムチェンジしてしまったのか。ポケセンのパソコンの使いにくさは頑として変えようとしないクセに爺婆をリストラする意味がホントにわからん。うーん、、爺さんのハゲ頭だと前向いたか後ろ向いたかの判別が難しいとか・・・まさかそんな理由で。

ゼロ・グラビティ

 アルフォンソ・キュアロン監督の最新作は、宇宙でジョージ・クルーニーとサンドラ・ブロックがサバイバルするというお話。冒頭から映像が見事で、見始めはボケーとしていたので定かではないのだが、のっけからえんえんとカメラの長回しで撮影されていて、自分がカットが切り替わったのに気付いたのは人工衛星の破片が襲って来た後の、3人目の宇宙飛行士の死体が発見された後のこと。もしもホントにそこまで1カットだとしたら、カットの長さは20分以上あったんじゃなかろうかと思う。

 キュアロン監督の前作である「トゥモロー・ワールド」が個人的に物凄く好きで、この映画はこれまで見た中でも屈指の面白さだったので「ゼロ・グラビティ」にも思わず期待してしまったのだけれど、こっちはこっちで凄いとは思うが、「トゥモロー・ワールド」とあまりにも方向性が違いすぎて、実は結構面食らってしまった。

 なんといいますか、「ゼロ・グラビティ」って好意的に見ればNHKスペシャルにありそうな、金をかけて宇宙の映像をハイビジョンで撮りましたという感じだし、悪く言うならば、テーマパークのアトラクションそのまんま持ってきましたという感じ。

 「トゥモロー・ワールド」のDVDのメイキングで、劇中の長回しの撮影が実はCGも含めたもので、決してホントに長回しに含まれた映像の全てが撮影時になされたワケではないことが明かされていたが、「ゼロ・グラビティ」の宇宙空間を流れるように撮影されたカメラは、なんとなく「トゥモロー・ワールド」で行った撮影方法を突き詰めたものだという感じがする。こういう撮影を存分に行うために宇宙空間を舞台に選び、観客動員を見込むためにサバイバルを盛り込んだり3Dで見たくなるようなアトラクション要素をぶち込んだりしたのではないかと思う。

ブランカニエベス

 スペイン語でブランカは白、ニエベは雪ということで、童話「白雪姫」をスペインでの物語として大胆にアレンジした、白黒の無声映画(音楽はある)という大胆な試みがなされています。

 白雪姫をスペイン流に語るのはいいとして、何故白黒&サイレントなのか。

 セリフが全く無いということは、当たり前だが全部映像で表現する必要がある。監督は陰影深いモノトーンの美しさを利用して、役者の演技や衣装、風景やカメラワークなどを総動員して観客を映像に引込むことを至上としたハズである。別に観客を映像で魅了するためにセリフの有無は本来関係ないのだが、あるのよ実際セリフだけでストーリーを進めて映像がオマケみたいな映画が。このご時世に無声映画を製作したのは、監督はセリフを映像に対して敵対する要素とみなして、映画から追っ払ってしまったのだ。ストーリーに「白雪姫」を選んだのも、グリム童話のエゲツなさがスペイン映画のセンスと合っているからだろうが、誰でも知っている話のほうが客は映像に集中しやすいという目論見もあると思う。

 こうして、ワタクシはこの映画の迸る映像美に身を委ねて2時間夢のような時間を・・・基本的には過ごしたのですが、なんだろう、監督はせっかくセリフを排したのに、最後のほうで2回も、唐突に映像に重ねて過去のセリフをテロップで入れてしまうというマヌケなことをしでかしている。あれは普通の映画であればテロップではなくモノローグ(音声)を挿入するべき演出だが、そういう事をしないためにセリフを排除したハズなのに、あんな格好悪い方法でストーリーを説明してしまうあたり、案外監督の腹が据わっていない感じがした。いじわるな継母に絞め殺されてしまったヒロインのペットのニワトリが、鶏料理が出てくる度に被ってくるのもやりすぎな感じがする。そして毒リンゴ、あれって説明いるか?

 幼い頃のヒロインが登場時に着ていた初聖体のドレスやフラメンコの衣装、闘牛士がひらめかすケープなど、人物を巻き込んでカメラも回りながらひらひらと揺れている。キレイ。いじわるな継母の初登場のシーンが、瀕死の闘牛士から見た彼女と愛する妻の顔とがオーバーラップするのだが、継母の顔はものの見事に妻の面影に邪悪さを加えていて身震いしてしまった。ヒロインの幼い頃と成人した姿でのそれぞれ初めて顔を見せるシーンも印象的でありました。マタドール姿のヒロインのヒップの見事さよ!!!オーレ!!

 そして白雪姫といえば欠かせない7人の小人。これが何故か6人で、映画の中でもその辺りがユーモラスに突っ込まれていた。この小人のフリークスな感じが映画のラストにつながっていくのだが、このラストがアルモドバル映画に谷崎潤一郎を足したようで、きっとそういう小昏さもスペインらしさなのだろうと思いました。

かぐや姫の物語

 高畑勲監督というと、自分にとってはテレビアニメのほうが馴染みがある人で、「アルプスの少女ハイジ」や「母をたずねて三千里」、「じゃりん子チエ」などなど、いずれも主人公の暮らしぶりを丹念に描写していくタイプのアニメーションを作る人だというイメージがある。こういう一見地味な人物描写を味わうためにはある程度の期間が必要で、世界名作劇場では1年という長いタームがあったからこそ、視聴者が登場人物にどんどん魅力を見いだしていけたのだと思う。

 世界中の人々にトラウマを植え付けた「蛍の墓」はさておき、「おもひでぽろぽろ」においては、田舎の風俗や農作業のアニメーションの細かさに感心はするものの、それが主人公の魅力にまで結びつかずに何のドラマもなく終わってしまった感がある。これがせめて半年のテレビ放映であれば、もっと色々な魅力を主人公に見いだせただろうに。映画で何かの物語を魅せようというのは、高畑監督にとっては2時間という縛りは短過ぎるのではなかろうか。

 それが、今回は日本人の誰もが知っている「竹取物語」なので、観客は存分にアニメーションを堪能できるようになっている。これがまた高畑勲監督やスタッフの執念がビシビシ伝わってくるような物凄い丁寧な描写で、実写では到達できない感情表現の域に達している。

 個人的には、赤ん坊の頃のかぐや姫がもう可愛くて可愛くて、寝返りをうとうとしたり、ハイハイしたり蛙の真似して飛び上がろうとしたり、あまりにも可愛らしいので、いっそ赤ん坊の描写だけで2時間いってほしいと思っていたら、ものの数分で大きくなってしまった。その後にも、名付けの儀式で男達の勝手な言い草に対するかぐや姫の怒りを線のゆらぎだけで表現したり、桜の木もろとも姫が動き回る偏執的(とまで言ってしまう)なアニメーションなどなど、見所は山ほどあるのですが。

 丁寧なアニメーション描写とは言っても、高畑監督の持ち味はあくまでも日常生活の中での動作や感情表現の妙味を味わう類いのものなので、宮崎駿監督の演出のような、感情が身体を突き抜けて空を飛んだり津波を起こしたりといったスペクタクルには結びつかないと思っていたら、最後でまさかの浮遊シーンにビックリした。かぐや姫の天にも昇る気持ちの描写にホントに空を飛ばせてしまうのは、その意味を考えればベタベタな演出なのだろうが、かぐや姫の感情としても、彼女の気持ちに寄り添って見てきた観客としても、ここで一気にカタルシスを得る、原作には織り込みようが無いアニメーションならでわの素晴らしい描写だと思う。

 そして姫が月に帰る昇天シーンでは、阿弥陀如来の来迎図がそのまま動き出すという、こちらもアッと驚く描写がなされていた。かぐや姫も仏様の一員だとしたら、月に帰ったらやっぱりパンチパーマになっちゃうのだろうかと要らん事を考えてしまったが。

 ということで、「かぐや姫の物語」はアニメーションの粋を集めた、近年稀に見る眼福映画でありました。