新しい古典派、ミクロ的基礎づけとの闘いに備えて(寄稿コラム) | 批判的頭脳

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noteにて、「経済学・経済論」執筆中!

「なぜ日本は財政破綻しないのか?」

「なぜ異次元緩和は失敗に終わったのか」

「「お金」「通貨」はどこからやってくるのか?」

「ケインズ経済学モデル概説…IS-LM、マンデルフレミングモデル、AS-AD」などなど……


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私はこれまで、最近の「リフレ派想定反論集」も含め、様々なリフレ派批判記事を執筆してきた。

異次元緩和の事実上の失敗から、経済論壇に広くリフレ派への懐疑は広がっているように思う。

しかしながら、必ずしも望ましい批判が向けられているとは言えない。というのは、リフレ派の中で唯一正しい部分…問題は総需要にある、という部分も、いっしょくたに批判されようとしているからだ。

ましてや「第三の矢(いわゆる構造改革路線)が手薄だったのが悪い!」「第三の矢にのみ集中するべきなのだ」という批判まで少なからず出てくる始末である。

問題は総需要にはなく、生産要素(実物要素)にあるという思い込みは、元を辿れば「新しい古典派」に行き着くことになる。

リーマンショックを通じて、一時的に説得力を失った学派だが、ゾンビ経済学でも警告されたように、今なお一定の影響力があり、オールドケインジアンを迫害したときよろしく復活する危険もある。

むしろ、リフレ派の手痛い失敗のせいで、総需要政策それ自体が十把一絡げに非難され、日本において古典派的言論が隆盛する可能性は極めて高いと思われる。

今必要なのは、もはや風前の灯のリフレ派への批判だけでなく、今後必ず勃興するであろう古典派的・主流派的言論(いわゆる"しばき"論も含む)に対する理論武装だと私は考えている。


今回は特に、「ミクロ的基礎づけ」に焦点を絞って「新しい古典派」批判を行いたいと思う。

ミクロ的基礎づけとは何か。簡単に言えば、個人(ミクロ)の行動の定式化をマクロモデルの基礎とすることである。
ミクロ的基礎づけが提言されるまでは、様々なマクロ経済データの関係の構造を推定するような構造計量経済モデルが主流だった。

しかし、そこに「ルーカス批判」が加えられた。その批判の内容を極めて端的に説明すれば、
「政策のルールが変われば、マクロデータ間での関係の構造(パラメータ)も変化するはずだから、構造計量経済モデルから望ましい政策を導くのは誤りだ」というものである。
構造計量経済モデルでは、実際のデータとの対応に従って外的な整合性はあるかもしれないが、内的整合性については自明ではない。
したがってルーカス批判を通じて、個人行動の定式化を基礎としたマクロモデルの必要性が提唱された。
求めるべきパラメータは、個人行動を決定する基礎的な方程式の構造(ディープパラメータ)であると論じられたのである。

よくある通説としては、「オールド・ケインジアンが1970年代のスタグフレーションの説明に失敗したため、より説明力にある新しい古典派が隆盛した」というものがあるのだが、これは事実ではない。

新しい古典派の革命を理解するをご参照願いたいが、スタグフレーションは、既存のケインジアンモデルでも十分説明できる代物であって、ルーカス批判が受け入られたのは、単に思想的な問題(マクロ経済学とミクロ経済学の手法的乖離への不満)に過ぎない。
実際、予測力の面において、新しい古典派のモデルが構造計量経済モデルに勝っている、というようなことはないのである。

また、個人行動の定式化を基礎にするにあたって、その行動モデルに適合する期待(合理的期待)が仮定された。
この合理的期待に基づけば、政府行動の効果は、予想に織り込まれた時点ですべてキャンセルアウトされる。

こうして、構造計量経済モデルは、基礎的な個人行動モデルを持たず、アドホック(その場限り)なモデルに基づいており、合理的期待に基づいていない(多くの構造計量経済モデルは適応的期待を前提とする)ことから、学術的に忌避されるようになった。
逆に個人行動モデルに基礎づけられ、合理的期待に基づいているミクロ的基礎づけのあるマクロモデルは、学術的に選好されるようになった。

(ここらへんの論点は、「構造計量経済モデルへの批判はフェアではなかった?」を参考にしている。)

しかし、現実の人々の行動において、合理的期待モデルが適応的期待モデルより勝る予測成績を出すという証拠はない。(むしろ、適応的期待の方が現実の行動に整合的で、かつ予測適合的である場合すらある)

ミクロ的基礎づけの定式化についても、「ミクロ的基礎の問題点:悪しきミクロ」などで様々に批判されるように、現実の経済行動に沿った定式化になっているとは言い難いところがある。定式化の手法が現実離れしていればしているほど、その予測力は構造計量経済モデルよりも劣ったものになっていく。
(一応注意してほしいのだが、構造計量経済モデルが絶対的に正しいというよりは、雑なミクロ的基礎づけのモデル
よりはマシ、というような話である)

そもそも、ゾンネンシャイン=マンテル=デブリューの定理では、どのようなマクロ的結果に対しても、最適なミクロモデルが存在することが示されている。つまり、きちんとしたミクロモデルを基礎にしたからといって、それはマクロモデルを制約しない=分析上意味のあるマクロモデルを作れない、というわけだ。(参考:「ミクロ的基礎付けのいかさま」

面白いことに、一線級の研究ではミクロ的基礎づけのあるモデル(一時はRBC、今では主にDSGE)に移行していく一方で、実務エコノミスト(政府系やアナリスト)では構造計量経済モデルの利用が続いたというとのことである。それが「単に実務家が時代遅れだから」と評するか、あるいは実務家の慧眼とみるかは、皆さまの見識に任せたいところだ。


最後に、クルーグマンのルーカス型モデル批判を紹介しておこう。

保守派知識人の黄金時代はいつだったのか?

ここでは、「金融政策(記事内では1980年代の利上げ)は、ルーカス型モデルでは持続的な高失業なしに物価・賃金の調整を可能にするはずだったのに、実際は激しい不況を伴うことになった」ということが憤慨交じりに指摘されている。

ミクロ的基礎づけのあるマクロモデルのうち、プレーンなもの(特にRBC)では、金融財政政策(貨幣政策)は経済に中立であるはずなのに、実際にはそうはならない。
そうした現実を説明するために、様々な条件付けが試みられることになったのである。(こうして、極めて様々な形のDSGEが研究されるようになった)
しかし、リーマンショック以前のDSGEでさえも、世界金融同時危機以降の経済を説明するには不足だったので、ニューケインジアンモデルにはさらなる『修正』が加えられることになった。「ケインズ経済学をめぐる『7つの神話』によると、そうした「修正されたニューケインジアンモデル」のインプリケーションは、驚くほどオールド・ケインジアンと似通っているようである。
「ケインズ経済学に対する新たなる基礎づけ;ジョージ・アカロフへのインタビュー」でアカロフが述べたように、『ケインジアンの理解は基本的には正しかった』というべきなのではないだろうか。


※本文中に挿入し損ねたが、ジョン・クイギン関連の以下の二つの記事も参考になる。
クイギン「はい、リアル・ビジネス・サイクル理論も論破」
「ニューケインジアンは今や時代遅れ」


追記:2018/1/15(参考リンク追加)

ミクロ的基礎付けの覇権を終わらせろ


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