青山繁晴博士について ③ | 中杉 弘の徒然日記

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青山繁晴博士について ③

 

 青山繫晴博士は、キリスト教教育の限界、天皇に対する理解も深いと思います。「民のかまど」の話を全国の講演会でしています。日本の天皇の本質とは、何でしょうか?

 仁徳天皇が人里を見ると、民のかまどから煙がでていません。煙がでていないということは、ご飯を炊いていません。それに気が付いたのです。仁徳天皇は、「よし、民の税金を3年間無税にする」と言われたのです。

 3年経つと民は作物がたまり、お金も貯まり、民のかまどから煙が上がるようになったのです。3年が経っているのに、仁徳天皇は、自分の家が雨漏りしているのにもかかわらず、まだ民から税金を取りません。そのうち、民のほうから、「天皇のお住まいを修理させてください」と言い出したのです。

 奥方様は「そろそろ税金を取ってもよいのではないですか」と言うと、仁徳天皇は「まだだめだ」と言われたのです。これが仁徳天皇の「民のかまど」の話です。

 日本の天皇とは、そのようなものです。A宮は、国民がコロナ禍で苦しんでいるときに、60億円かけて豪邸を建てたのです。さらにイタリアから高級大理石を取り寄せて、金の間を造ったのです。これは、天皇の姿ではありません。

 青山繁晴さんが、「民のかまど」の話をすると、歴史学者が来て「青山さん、貴方を尊敬していたけれども、ガッカリしました。「民のかまど」の話は、創作ですよ」と言ったのです。

 すると、青山繫晴さんは、「これが創作の話ならば、何と素晴らしいことか。「民のかまど」の話が創作ならば、もっと素晴らしい」と言ったのです。この話は、天皇の本質を現しているのです。

 「この話は偽物だからという話は、私には通用しない。創作ならば、なおよいのだ」と言ったのです。すごい人です。青山繫晴さんは、国民と国家を愛しているのです。

 三島由紀夫先生の精神構造は、『葉隠』です。人間は、必ず死にます。長生きしても、10年先か、20年先には死んでしまうのです。生きていて、何の意味があるのでしょうか?

 生きる目的があって、「10年生きる」というのは、意味のあることですが、「私は楽しいことだけをしていれば、いつ死んでもよいのだよ」と考えていたら、ダメでしょう。そのような人生は、何の目的もありません。今の人々は、「自分の欲望を叶える」ということだけで生きているのです。

 すると、欲望を叶えるためには、人を虐げてきているのです。「役人時代の不正が暴かれはしないか心配だ。私はそんなことは絶対にさせないぞ!」というように、我張って生きているのです。そんな生き方をしても、何も面白くもありません。

 「私」がない人が、青山繫晴博士です。その前にもいたでしょう。それが、三島由紀夫です。三島由紀夫先生は、世紀の天才です。

 三島由紀夫のペンネームは、「死魔(島)に魅入(三)られた男」という意味です。「人間として生まれて、物心がついたときには何を思うのか?」というと、「自分はやがて死ぬのだ」ということです。

 「死ぬ」ということは、どのようなことなのでしょうか? 三島由紀夫は、作家だから考えたのです。人間は誰でも死んでしまうのです。「自分は何に向かって死んだらよいのか?」ということが、三島先生のテーマです。

 それで、三島由紀夫先生は、割腹自殺をしたのです。どうせ人間は死ぬのです。死ぬ時期にも限界があります。三島由紀夫は、45歳で割腹自殺をしたのです。西郷隆盛は、49歳で死んだのです。「私は、45歳で生を断つ」と決めたのです。

 では、何のために生を断つのでしょうか? 「私は正義のために生を断つのだ」ということです。では、その正義とは、何でしょうか? それは、日本のための正義です。

 三島由紀夫先生は、「私は日本の正義のために命を捨てる」と決意したのです。そのためには、憲法を破棄しなければいけません。今の日本を悪くしているのは、憲法です。三島先生が、「この憲法に向かって命を捨てる奴はいないのか!」と市ケ谷駐屯地のバルコニーで演説すると、「バカヤロウ、文士、かっこつけるんじゃないよ!」と、自衛隊のヤジが飛んだのです。三島由紀夫先生は、命を懸けてやっているのに、自衛隊の諸君はそれがわからなかったのです。

 三島由紀夫先生は、「日本をダメにする憲法に命を懸ける奴はいないのか。わかった。諸君がやらないのならばわかった。諸君には頼まない」と言って、自決をしたのです。命を懸けて自決したのですから、三島由紀夫は死に向かって、突進したのです。

 三島由紀夫がノーベル賞を取れなかったのは、当たり前です。何故、川端康成のようなヘナチョコ文士がノーベル賞を取ったのでしょうか?

 三島由紀夫がノーベル賞を取ったら、その影響力は甚大です。世界の大問題は、いろいろとありますが、一つは「人間は死ぬ」ということです。死なないのであれば、好きなことをやって生きていればよいのですが、人間は必ず死ぬのです。

 「死ぬ」ということが大前提の人生でなければいけません。そのことに気が付いた三島先生が対決したものは、「死」との対決です。「自分はやがて死ぬのだ。その時をどう生きたらよいのか?」ということを探求したのが、三島先生です。

 『豊饒の海』の四部作で描いたことは、それなのです。主人公が生まれ変わって、生まれ変わって、国のために尽くすのです。

「仏教は無我を説きます。無我ということは、「我(が)はない」ということです。「我(が)はない」ということは、「霊魂はない」ということを言っているのです。霊魂がないのに、どうして仏教では生まれ変わりを説いているのか?」ということが、三島先生の文学的なテーマです。

人間は必ず死にますが、目的を持たなければいけません。「生と死という大テーマがあり、人間はなぜ死ぬのか、生きるとはどのようなことなのか、私はそれを極める」ということをテーマにしたのです。

 三島先生は、それを一貫してやってきたのです。それは難しすぎて、普通の人にはわかりません。未だに三島由紀夫先生の死が何だったのかわかっていません。「三島由紀夫が死んだのは、ホモのせいだ」などとくだらないことを言っている人もいます。それは、全く違います。

 様々な思想があり、「国家のため」「国民のため」「天皇陛下のため」と言っていますが、仏教から見たら、ゴミのようなものです。

 仏教とは、「生命とは、どのようなものか?」といことを教えているのです。これは、全ての生命に当てはまるのです。仏陀は、「生命とは何か?」ということを解決された人です。

 仏教のテーマは、「生命とは何か?」ということです。「自分の願いをかなえる」など、わけのわからないことを言っているのではありません。凡夫は、「生命とは、どのようなものか?」ということがまるでわかっていません。

 「人間はどうして死ぬのか、なぜ生きているのか、霊魂はあるのか?」ということは、全くわかっていません。

 大宇宙には、どのような生命があるのか? 何故、生まれて死ぬのか。何もわかりません。それに取り組んだのが仏教です。

 天皇よりも、大統領よりも、民主主義よりも、共産主義よりも、全ての思想を超えた大思想とは、仏教しかありません。仏教の捉え方は、全然違います。

 貴方はこの世に生きていると思っています。それで楽しい人生を送ろうとしているのです。冗談ではありません。楽しい人生などありません。あるわけがありません。

 大宇宙にある生命の中から、自分というものを切り取ったのです。大宇宙に溶け込んでいれば、本来は生まれる必要などありません。生まれてしまったから、貧乏になったり、苦労をしているのです。人生は苦なのです。これが仏教の見方です。

 何故かというと、生命というものは、よくわかりません。恐竜もいれば、バイキンもいて、何百万種類の生命がいるのです。しかも、この地球だけではありません。他の星にも生命がいるのです。

 三千大千世界と言われている宇宙には、宇宙大の生命がいるのです。本来、壁がないところに、壁をつくり、「これは私」とやっているのです。宇宙の中から、「自分」というものを取り出したのです。

 人間は自分を大宇宙から取り出し、目や皮膚を通して、自分と外界の区別をしたのです。人間の形をしたものを「自分」だと思い込んでいるのです。本当の生命は、宇宙大です。とてつもなく大きい中から、自分を切り取ったのです。

 人間は、「この私が大事なのよ」と執着をするのです。切り取った側の生命は見ないで、切り取られた小さな自分だけを見て、「これが私なのよ」と言っているのです。切り取った「私」が人生を送っているのだと思っているのです。

 凡夫は、本当の生命を知りません。大きな生命から、切り取って「私」というものをつくってきたのです。そこに苦しみの原因があるのです。そんなものがなければ、自然の中に溶けこんでいるようなものです。

その中から「自分」というものを切り取って、「これが私よ、私が大事なの。これは私の財産。誰にもあげないわよ」とやっているのです。これを我(が)というものです。

 仏教では、「我(が)はない」と言っていますが、「我(が)がある」と思っているのは、虚妄分別です。大宇宙から切り取った小さな自分を「これが私だ」と言っているのだから、おかしいでしょう。

 人間はノミよりも大きいけれども、ノミが「これが私だ」と言ったならば、「うるさい、ひねりつぶしてやる」と言うでしょう。人間の場合も、ひねりつぶされてしまうのです。共産主義者は、「お前は邪魔なのだ、ぶっ殺してやる」と言って、人々をぶっ殺してしまうのです。そんなことをしてはいけないのです。

人間に我(が)はありません。「我(が)はない」ということがわかって、人生を歩んでいくならば人生は違ってきます。何故、私は我(が)をもっているのでしょうか? 

 そこで出てくる問題は、どうして大宇宙に溶け込んでいたのに、自分を切り取ったのでしょうか? それが、我(が)です。「自分の我(が)というものが、どこまで偉くなれるのか」ということが、現在の社会です。

 「事業で成功しました」「スポーツ界で成功しました」「私は総理大臣になりました。私は偉大だ」と思っても、偉大でも何でもありません。人間は「権力をつかんだ」と思っても、すぐに死んでしまうのです。

 死んでしまったとたんに、「偉大な政治家であった」などというものは、一瞬にして消えてしまうのです。その我(が)をもってしまったことを、「どうしてそうなったのか?」ということを追求していくことが仏教です。我(が)に満じている人は、バカなのです。

 創価学会は、それを逆にやったのです。「お前こそ、偉大である。ユーアーグレイト!」と教えたのです。何をバカなことを言っているのでしょうか? 「我(が)はないのだ」と教えているのが仏教です。

 創価学会は、我(が)を追求して、どこまででも自分の欲望を追求したのです。故・池田大作は、1兆円の個人資産をもっていたというウワサですから、死んでもこの問題は終わりません。1兆円のお金は、個人で使いきれるわけがありません。それでも、「もっと金が欲しい」となってしまうのです。

 本当の仏教というものは、我(が)の探求です。「私というものがなぜ、生まれて、私というものは何であるのか?」ということを探求していくのです。小さい自分の我(が)を張って生きてきたことを反省するのです。

 仏教の反省行は、生まれてきたことへの反省です。何故、貴方はこの世に生を享けたのでしょうか? その解決方法が仏教です。三島由紀夫先生も仏教に取り組んだのですが、及ばなかったのです。

 青山繫晴博士も国家のことは、考えていますが、仏教まではおよびません。法華経を信じる者は、法華経の行者です。人間は数えきれない過去があり、長い間、我(が)を張って生きてきたのです。その集大成が、今の貴方です。生命が我(が)を持たなかった時、そこに生命を帰していくことが、人間の本当の幸せです。

 このようなことを考えてみると、青山繫晴博士の考えは国家までです。三島先生も文学者として取り組んだのですが、生命の解決はできなかったのです。

 「この問題を解決できるのは、法華経を信じることだけです。世界にそのことを教えていくことが、我等の使命である」と、考えています。このように僕は考えているのですが、如何でしょうか?

 

 

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