僕はどちらかというと、合理的な人間です。「限りなき合理性を持っている」ともいえます。だから、皆に嫌われるのです。「合理性」などと言っていると、嫌われるのです。
皆と一緒に遊んでいて、「競馬をやろう」「競輪をやろう」「麻雀をやろう」という人間は、好かれるのです。
僕は最初から、最後まで合理性の人間です。仏教も、剣道も、何をやっても、合理性から見ているのです。学問をやっても、僕に勝てる人はいません。僕は合理性で見ているのです。宗教などにとらわれて見ているわけではありません。
「宗教」などという言葉には、合理性は全くありません。「仏教を学ぶ」と言えば、合理性がでてくるのです。「学ぶ」という以上は、「仏教とは何を説いたものか?」ということを研究しないと、それは言えません。
仏教とは、何を説いたものなのでしょうか? それを考えていくと、ちゃんと結論がでてくるのです。合理的に結論がでてくるのです。ここでつかんだ結論は、破ることはできません。
僕を論破してみてください。誰も僕を論破することはできません。大部分の人間は、いい加減で仏教の根本がわからないで道に入るのです。だから、「仏教とは、何を言っているのか?」ということがわかりません。
「僕は大学で経済学を学んできました」と言っても、「経済とは何か?」ということが、全くわかっていません。それで答えられません。「大学で4年間、経済学を学びました」という人に、「経済とは、何ですか?」と聞かれて、答えられる人はまずいません。
大学で経済学を学んでも、経済がわかっていません。目先の経済の動きだけを見て答えているだけです。経済学を習ったような気にはなっているのですが、「経済とは何か?」ということは、さっぱりわかりません。
みんなそうです。あらゆる学問がそうです。前提条件を問わないで学問を勉強するから、中途半端な理解になってしまうのです。
「汝の前提を問え」という有名な言葉があります。例えば、「経済学について論じましょう」と言っても、貴方は経済というものを、本当に知っていますか? 「経済学」という前提条件を知らずに、多くの人が論じようとしているのです。これは、滑稽な話です。
「何を考えようとしているのか、何を知ろうとしているのか、それにはどうすればよいのか?」ということを考えていないのです。
自分が論じようとする前提条件も知らないのですから、全く合理性がありません。学問は、合理性から生まれるのです。空手を習っても、剣道を習っても、何もわかりません。ただ先生に言われた通り、習った作法でやるのです。
だから、自分が何をやっているのか、全くわかっていません。空手の極意とは何か? 剣術の極意とは何か? 数学の極意とは何でしょうか? 物理学の極意とは何でしょうか?
このように考えていくので僕は嫌われるのです。あまりにも合理的すぎるので、「あいつには、ついていけないよ」と言われてしまうのです。そうです。普通の人は、合理性が全くありません。
ただ、わけのわからない中で生きているのです。僕は合理性の塊だったのです。創価学会員は、合理性の反対で非合理の塊です。何もわかっていません。
仏教は、合理的です。お釈迦様の最初に悟ったことは、生老病死です。貴方も生老病死です。宇宙は、成住壊空です。人間の社会を見てみると、「死なない人間はいるのか?」というと、そんな人間はいません。これは、合理的です。
死なない人間は、一人もいません。100歳で死ぬか、120歳で死ぬのかは、それぞれの寿命がありますが、生ある者は必ず滅するのです。人間は、それを知らないで生きているのです。
大王様は「俺は永遠に生きる」と思っているのです。大王様は、簡単に人の命を奪うことができます。逆らったら、すぐに処刑です。そうなると、「自分は永遠に地球の支配者だ」と思ってしまうのです。
事実は、生ある者は必ず死すのです。これは、宇宙の法則です。宇宙を見ると、太陽があり、地球があり、月があります。人間は生老病死で、宇宙は成住壊空です。
星が生まれる時、星がたたずんでいる時、星が壊れる時、星が消滅して空(くう)になる時です。それが、成住壊空です。人間世界の法則と、宇宙の法則は同じです。それをお釈迦様は悟られたのです。
生老病死を悟ると、どうなるのでしょうか? 偉くなるのでしょうか? そんなことは、全くあり得ません。そのような連中は、「人間は死なない」と思っているのです。「俺だけは死なないよ。100歳でも、200歳でも生きてやるよ」と思って頑張って生きるのです。
頑張って生きても、誰人も死から免れることはできません。「生まれて、老けて、病気で、死ぬ」というのが、人間の運命です。これがお釈迦様の悟りの第一歩です。ここから仏教は、説かれているのです。
これは究極の悟りではありませんが、仏教の入り口です。人間は生老病死、宇宙は成住壊空です。それを聞いただけでも、気持ちが楽になるのです。どうして楽になるのでしょうか? その理由も考えなければいけません。
衆生は、「我(が)がある」と思って生きているのです。「俺の人生だ」「私の人生よ」と思い、我張って欲望のままに生きているのです。「俺には権力があるから、もっとたのしませてもらい、長生きをさせてもらうぜ」と我欲に生きているのです。
それは、真実ではありません。真実は、生老病死です。普通の人は、それを認めたくありません。「俺は永遠に生きるのだ」と考えているのです。何がわからないのでしょうか?
わからなくなることがあるのです。「私というものは、無いのだな」ということがわからないのです。真実を見るとそうであるのに、真実を見たくないのです。
「俺もやがて、死んで無くなるのだな」とわかればよいのです。「俺」という存在は、消えゆく存在です。人生は、空(くう)なのです。そのように考えると、「私」というものは、無いとわかるのです。
生老病死という生命の法則があり、「私は生きている」と言っても、どこにも「私」などというものはありません。生老病死と変化をしていくだけですから、変化しない自分などというものはありません。
生老病死がわかる人を「合理性がある人間」というのです。「仏教を学ぶ」と言えば、合理性がでてくるのです。「学ぶ」という以上は、「仏教とは何を説いたものか?」ということを研究しないと、それは言えません。それを学んでいくことが、本物の仏教徒です。(②に続く)
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