幕末の剣豪 ① | 中杉 弘の徒然日記

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新撰組の近藤勇にも恐れられた人斬り中村半次郎の幕末から明治を駆け抜けた生涯【日本史・歴史】

 

 

 

幕末の剣豪 ①

 

 幕末という時代は、本当に刀で斬り合った時代です。このようなことは、日本の歴史で初めてではないでしょうか?

 戦争というものは、鎧兜を身に付けるのです。だから、刀で斬っても斬れないのです。さらに、鎖帷子(くさりかたびら)というものを着るのです。鎖帷子とは、鋼鉄の鎖を編んで、肌襦袢のようにして着るのです。戦争があるときには、鎖帷子を着ていくのです。すると刀で斬っても鎖だから、体が斬られることはありません。素面素小手で斬りあうのが、幕末です。あちこちで斬り合いが行われたのです。

そのような時代に彗星の如く現れたのが新選組です。新選組は、幕末で一番強かったのです。京都には、長州の浪人や、薩摩の浪人が大勢いたのですが、新選組が一番、恐れられたのです。

 幕末全体を見たときに、誰が一番強かったのでしょうか? そのようなことを考えてみる必要があります。

 まず、長州藩の桂小五郎です。桂小五郎は、強かったのです。ほっそりした優しい顔をしているので、「そんなに強くはなかったのかな」と思うと、そうではありません。ものすごく強かったのです。13歳で柳生新陰流の道場に入門、19歳で江戸の練兵館の神道無念流に入門、免許皆伝を得て、入門1年で塾頭になったのです。

大柄な小五郎が、得意の上段に竹刀を構えると、「その静謐な気魄に周囲が圧倒された」と伝えられています。幕府講武所の総裁・男谷信友(直心影流)の直弟子を破るなど、藩命で帰国するまでの5年間練兵館の塾頭を務め、剣豪としての名を天下に轟かせたのです。安政4年(1857年)3月、江戸・鍛冶橋の土佐藩上屋敷で開催された剣術大会で、坂本龍馬と対戦し、2対3で小五郎が勝利した史料が、2017年10月30日に発見されました。

 新選組の中にも掟があり、「長州の桂小五郎が来たら、斬りあうな。桂小五郎に会ったら、逃げてよし」と言われていたのです。新選組は、敵に対して後ろを見せてはいけませんが、桂小五郎はあまりにも強いので、「逃げてよし」としたのです。

 ところが、桂小五郎は一度も斬り合いをしたことはありません。「逃げの小五郎」と言われていたのです。逃げて、逃げて、逃げたのです。芸者にもかくまってもらったのです。桂小五郎の実家は、医者です。医者は人を助ける仕事ですから、人を斬るのが嫌だったのでしょう。でも、ものすごく強かったのです。

 「人を斬る」ということは、ものすごい精神的な苦痛があります。桂小五郎は、人を斬るのが嫌だったのです。でも、桂小五郎は強かったのです。

 「幕末の四大人斬り」と言われた4人がいます。幕末の四大人斬り(ばくまつのよんだいひときり)とは、幕末期の京都において暗殺活動を行い、「人斬り」の異名を取る尊王攘夷派の4人の志士につけられた呼称です。

 その一人目が、岡田以蔵です。多くの佐幕派に危害を加え、中には吉田東洋を暗殺した犯人の探索で上京した土佐藩士の井上佐市郎の惨殺もあり、「人斬り以蔵」と恐れられたのです。京都で捕縛され、土佐にて拷問の末に一連の天誅を自白し、打ち首獄門に懸けられたそうです。(享年27。)

この人は、本当に強かったのです。道場も満足に行っていません。自己流で刀を振り回していたのです。岡田以蔵は、お金がなかったので道場にも通えなかったのです。

 岡田以蔵の剣術は、出鱈目だったのですが、ものすごく強かったのです。剣豪が何人も岡田以蔵によって斬られたのです。

 二人目は、中村半次郎です。薩摩藩出身。天誅行動で鳴らし、「人斬り半次郎」の異名で恐れられた人です。兵学者で自らの師でもある赤松小三郎を暗殺したのです。

この人も強かったのです。中村半次郎は、100人以上は、斬っています。誰かが「あの野郎、ぶっ殺してやる!」と言った瞬間にいなくなっていたのです。

 そいつのところへ行って、「チェストー」と言って、斬ってしまうのです。中村半次郎の剣術も自己流です。剣術の道場で学んだ剣術ではありません。そうは言っても、少しは手ほどきを受けていますが、本当の修行は自分でやったのです。

 西郷隆盛は、中村半次郎を自分の傍にいつもおいていたのです。まるで、狂犬のような男ですから、「人斬り半次郎」と言われたのです。「西郷先生に近づく刺客は、俺がぶった斬る!」という人ですから、西郷さんには近づくことはできなかったのです。

 「中村半次郎は、バカだったのか?」というと、バカではなかったのです。自分で様々なことを勉強して知っていて、危険なことも知っていたのです。自分が危険なときには、表には出ません。「非常に知恵のある男だった」と言われています。

 明治維新後に「桐野 利秋(きりの としあき)」と改名して、大日本帝国陸軍に入隊して、陸軍少将になったのです。その後、西南戦争において反乱軍として政府軍と交戦の末、額に銃弾を受け戦死したのです。(享年38。)

無学文盲だった男が、陸軍の少将になったのです。もちろん、西郷さんの引き立てによってなれたのです。西郷さんが、陸軍大将です。「半次郎、お前が陸軍少将をやれ」と言ったのです。

 昔は、西郷さんの一言で陸軍少将も決まってしまったのです。その時の恰好が素晴らしくよかったのです。馬にまたがり、金ぴかのサーベルを吊って、男前で輝くような恰好良さがあったのです。

 桐野利秋は、結婚を2回したのですが、奥さんは2回とも逃げてしまったのです。どうしてかというと、桐野は夜中にガバッと立ち上がるのです。汗びっしょりになって「あの野郎が俺を殺しに来た」と言うのです。

 桐野は、夢の中でも斬り合いをしていたのです。刀で人間の身体を斬るなど、野蛮な行為です。刺すならばともかく、生身の身体を斬るのですから、業を背負ってしまうのです。

 例えば、西洋の三銃士がもっていたのは、剣です。剣で刺すだけですから、人体はそのままです。日本刀の場合は、刀で体をぶった切るのです。斬られた手足は元にはもどりません。

 桐野は夢の中でぶった切った相手がでてきたのです。桐野に斬られた首を自分でもっているのです。自分が切り殺した連中が、毎日夢に出てきてうなされたのです。100名以上は斬っています。

 うなされている桐野を見て、お嫁さんが怖くなってしまったのです。毎晩うなされているのですから、怖くなって「お暇をください」と言って、逃げてしまったのです。最後は、独身だったのです。

 100人の人を斬ったら、自分が斬った100人と因果をもってしまったのです。刀で腕を斬れば、腕が吹っ飛んでしまうのです。腕は二度と元にはもどりません。人の腕を斬り落とせば、今度は自分の腕が斬り落とされてしまうのです。刀で斬れば首も落ちてしまうのです。やったことは、全て因果となって自分に返るのですから、仏法の因果をナメてはいけません。(②に続く)

 

 

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