近藤勇が恐れた男 | 中杉 弘の徒然日記

中杉 弘の徒然日記

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神道無念流(しんとうむねんりゅう)の桂小五郎


幕末維新の志士、或いは幕府側の英雄にも色々な人がいますが、特に勝海舟に触れてみましょう。勝海舟のお父さんは勝小吉といって、御家人でした。

 御家人は1年間に米が10表か20表もらえるだけで他の給料は一切ないのです。お城に行く必要もないのです。徳川の家臣団はお城に行きますが、お城に行くのを旗本というのです。同じ武士でも御家人は将軍にお目通りできないのです。給料は年間20表から10表くらいです。それで一家全員が食べなければいけません。御家人は本当に貧乏だったのです。

 貧しい生活で給料だけでは生活できないので、内職をやっていたのです。百姓は許されたのです。畑を耕して自分達が食べる野菜を作ることは許されたのです。米を作ることも許されたのです。

 後は笠張職人とか、ちょうちん職人とか、職人は許されたのです。武士と言っても実際は長屋に住んで笠張職人で敗れかぶれの着物を着ているというのが御家人です。何も仕事がないのです。そうかと言って、商人になることは許されないのです。士農工商の、「工」までです。

 勝小吉は、生涯無役です。仕事はないから喧嘩の用心棒だとか、たまには道具屋に並んで刀を売る仕事はしていたらしいのですが、そのような生活をしていたのです。勝海舟は頭がよいので、なんとか将軍家に取り入れて出世させていこうと考えたのです。

 「お前、これから世の中に出ていくためには、しっかりと剣術をやれ!」と、海舟に言ったのです。「本当に剣術を修行すると人に斬られるということはなくなる」と言っているのです。

 勝小吉は、『夢酔独言』という本を書いたのです。夢の中で酔っ払っているような「俺の一生はなんだったのか?」というほとんど愚痴まじりに書いている本です。剣術だけは勝海舟に「やれ」と教えたのです。

 勝海舟は18歳から、21歳まで、まともに親父の言葉を受けて「人に斬られない人間になろう!」と思い、剣術は、実父・小吉の本家で従兄弟の男谷精一郎(おたにせいいちろう)の道場、後に精一郎の高弟・島田虎之助の道場で習い、直心影流(じきしんかげりゅう)の免許皆伝となります。

 3年間徹底的に修行したのです。朝起きてすぐに稽古、食事が終わってからすぐに雑巾がけ、それからまた稽古、稽古・稽古・稽古で夜までずっと稽古をするのです。夜になると終わりかと思うと終わらないのです。王子権現に出かけて、お寺で座禅をします。夜中に起きて木刀を降り回し、しばらくするとまた座禅を組みます。また立ち上がって木刀を降りまわし、寒さと餓えにヘキヘキしたのです。それを夜明けまでやらされるのです。

 同門の連中は朝方になると逃げて、近所の百姓屋に逃げ込んで寝たりしていたのですが、勝海舟だけはほとんど寝ないで真面目に修行して、3年間で免許皆伝を得たのです。一番この流派が凄いのは、「100人掛け」というのがあるのです。100人が同時にかかるのです。一人斬って、次がかかってくる、また次がかかってくるのです。100人に当たって勝たないと免許はもらえないのです。

 勝海舟は幕府の中枢の人間として仕事をやっていくのですが、40回以上、襲撃されているのです。「勝、西洋かぶれしやがって、死んでもらおう!」という輩が出てきて40回以上襲撃されたのです。

 しかし、勝海舟の偉いところは、刀は紐でしばって抜けないようにしているのです。凄い人です。40回以上襲撃されて、初太刀をはずしているのです。「待て、何を言うのか!」と、1発目をはずさないと斬られてしまいます。

 相手は「勝、国賊!」と言って斬りにくるのです。1撃をはずして「待て!」とやるのです。しかも自分の刀は抜けないように紐でしばってあるのです。それが勝海舟の凄さです。一生を通して遂に人に斬られることはなかったのです。

 晩年、「親父に教わった剣術を本当にやった。それに感謝をしている」と言っています。それが本当だったのです。勝海舟は名人だったと分かります。

 それと同時期に神道無念流(しんとうむねんりゅう)の桂小五郎という長州藩の藩士がいます。後の木戸孝允(きどたかよし)です。彼は物凄く強かったのです。長州藩の師範代である内藤作兵衛(柳生新陰流)の道場に入門しています。

 実父に「もとが武士でない以上、人一倍武士になるよう粉骨精進せねばならぬ」ことを言い含められ、それ以降、剣術修行に人一倍精を出し、腕を上げ、実力を認められた人です。

 1852年に剣術修行を名目とする江戸留学を決意し、藩に許可され、長州藩に招かれていた神道無念流の剣客・斎藤新太郎ほか5名の藩費留学生たちに随行し私費で江戸に旅立ち、江戸三大道場の一つ、練兵館(斎藤弥九郎)に入門しました。免許皆伝を得て、入門1年で塾頭となり、大柄な桂小五郎が、得意の上段に竹刀を構えると「その静謐(せいひつ)な気魄(きはく)に周囲が圧倒された」と伝えられています。

新選組の近藤勇もお手合わせをしたことがあるのです。それで、近藤が京都に行ったときに新選組の隊士に「桂小五郎を見たら逃げろ!」と言ったことがあるのです。「逃げろ」というのですから、大変な言葉です。

 新選組の御法度は、逃げたら切腹です。それにも拘わらず近藤が「桂小五郎が来たら逃げろ!」と指令を出した唯一の人物です。物凄く強かったと思います。剣を持って立つと相手が委縮してしまうのです。近藤ですら委縮してしまったのです。それくらい強かったのです。

 新選組の隊士は中途半端で免許皆伝を持っている奴はいないのですから、桂小五郎に10人かかってもかないません。それだけ凄かったのです。

 桂小五郎は、実際に斬り合ったことはないし、危ない場面はみな逃げていたのです。危ない時は逃げて、また出てきて「危ない!」と思ったらパッと身を隠して、これも剣術の極意です。のこのこ斬られに行くことはありません。

 桂小五郎も本当の名人であったことが分ります。でも、一番の名人は勝海舟です。刀を抜けないようにしていたのです。剣豪だと言われている坂本竜馬はダメです。剣を習って剣の心を身に着けていないのです。だから「剣なんて役にたたないよ」と言ってピストルを持っていたから、吉行という刀を床の間に放り投げていたのです。

 そこに賊が入ってきて斬られてしまったのです。武士ならばいつ敵が来てもいいように、傍に刀を置いて寝るなり、食事するなり、気を配らなくてはいけません。「刀など時代遅れだよ」と放り投げていたところを襲われてしまったのです。

 当時、武士は2本刀を差していますが、坂本竜馬の刀は30センチくらいです。新選組は長い刀と、もう1本の小刀でも1尺8寸くらいはある刀を持っていたのです。坂本竜馬は斬られてしまったので、たいしたことはなかったのです。高杉晋作も剣術をやっていますが、新選組の近藤勇が「逃げろ!」と言った男は、桂小五郎ただ一人だったのです。



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朝堂院大覚 剣道と神道 2014 ・6・5


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