幕末の剣豪 ② | 中杉 弘の徒然日記

中杉 弘の徒然日記

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新選組「燃えよ剣」挿入歌

 

 

幕末の剣豪 ②

 

 「幕末の四大人斬り」と言われた4人がいます。一人目は、岡田以蔵です。二人目は、中村半次郎です。

 三人目は、河上彦斎(かわかみげんさい)です。河上彦斎は、肥後藩出身です。兵学者の佐久間象山を暗殺して、明治維新後は、高田源兵衛と改名したのです。その後、二卿事件への関与、広沢真臣暗殺の嫌疑を理由に捕縛されて、斬首されました。(享年37)

この人も、「人斬り彦斎」と言われた男です。この男は、有名な佐久間象山を斬った人です。「佐久間象山という陽明学者が外国の研究をしている。あんな奴は、生かしておいてはいかん」という話を聞いた河上彦斎は、「では、俺が斬ってやる」と言ったのです。

 佐久間象山は、馬に乗って塾に通って、塾生に教えていたのです。それを河上彦斎が待ち構えて、いきなり斬ったのです。すると、馬にまたがっていた、佐久間象山の足が落ちたのです。足を斬られたので、馬から転げ落ちたところを仕留めたのです。

 その時、佐久間象山の全身から、ものすごいオーラが出たのです。河上彦斎は、自分が斬った人間ですが、「この恐ろしさは何だ!」と言って、腰を抜かしてしまったのです。

 それから、河上彦斎は、人を斬ることができなくなったのです。100名ぐらいは斬ってきた男だったのです。

 四人目は、田中新兵衛です。薩摩藩の出身です。今太閤と呼ばれるほどの権勢を振るっていた、島田正辰を殺害した人です。これは、続発する天誅の初めとなりました。他にも多数の暗殺を行なったとされ、「人斬り新兵衛」の異名で恐れられた人です。朔平門外の変(さくへいもんがいのへん)における姉小路公知(あねがこうじきんとも)暗殺の嫌疑で捕縛され、取り調べ中に突如自刃しました。(享年31)これが、「幕末の四大人斬り」と言われた4人です。

 幕末の剣豪で忘れてはならないのが、新選組です。新選組は、どのような連中が集まったのでしょうか? 新選組は、ご存じの通りろくでもない連中が集っていたのです。ゴロツキ、ヤクザまでいたのです。

 いろんなゴロツキが集ってきたのです。このゴロツキを統制するために、羽織をつくったのです。「羽織の模様はどこからとったのか?」というと、歌舞伎からとったのです。大石内蔵助の忠臣蔵の芝居を見て、それからとったのです。

 土方歳三は、忠臣蔵の芝居を見るのが大好きだったのです。これを見て、「そうだ、忠臣蔵の羽織をつくろう」とひらめいて、新選組の羽織としたのです。当時の民衆は、新選組の羽織をカッコいいとは思わなかったのです。

 「ダサい羽織を着て歩いているな」と思われていたのです。いつの間にか、新選組の隊服になってしまったのです。新選組は人を斬りまくったのです。「士道に背く者は斬る!」という局中法度ですから、多くの隊士が斬られたのです。

 当初の新選組は、商家に押し入り「お金を出せ!」と言って、強盗まがいのことをやっていたのです。局中法度に違反した新選組の隊士27名が切腹させられたのです。仲間を切腹させたのですから、隊規には厳しかったのです。隊規に違反した者を土方歳三は絶対に許さないから、切腹させられたのです。

 新選組隊士の山南敬助(やまなみけいすけ)は、江戸時代からの先生で、新選組の副長であり、総長です。山南敬助は、新選組を脱退したのです。すると「隊規違反だ」と言って、沖田総司に山南敬助を斬りにいかせたのです。新選組の総長ですら斬ってしまったのです。

 山南敬助は、「こんな人殺し集団はもう嫌だ。俺は辞めるよ」と言って、脱退したのです。すると、「局を脱するのは許さず」という隊規があるのです。土方歳三は、「山南敬助はこれに触れた」と言うのです。

 山南敬助は、江戸から一緒にやってきた仲間です。それでも許されません。土方歳三は、「沖田君、君が行け!」と言ったのです。山南敬助は、沖田総司と仲がよかったのです。それを沖田に追わせたのです。

 山南敬助が旅館にいると、沖田が来て「君が来たのか」と言うと、沖田が「そうです。一緒に帰りましょう」と言ったのです。山南は、「わかった、一緒に帰るよ。今夜は飲もう」と言って、旅館で飲み明かしたのです。翌日、新選組の屯所に帰ってくるのですが、山南敬助は切腹です。介錯は、沖田です。沖田は、隊規に従ったのです。

 新選組には、猛者ぞろいだったのです。新選組の剣術は、天然理心流です。天然理心流は、田舎剣法と言われたのです。これは、北辰一刀流のように洗礼された剣法ではありません。木刀は丸太です。その丸太は、太くて握れるものではありません。

 天然理心流の剣術の稽古では、短くて太い丸太が使われていたのです。ダサイ剣術です。薪雑把(まきざっぱ)を使っているのです。それで「うおー」と打ちかかっていくのですが、竹刀で稽古した場合は、弱かったと言われています。

 試衛館という道場に道場破りが来たのです。すると、どこかに頼みに行ったのです。「道場破りが来ました。どうか先生、お願いします」と他所の道場に頼みにいったのです。

 他所の道場の先生を道場破りと戦わせて、勝ったら一杯酒を飲ませて、お小遣いをあげて帰ってもらったのです。その中で一番強かったのは、沖田総司です。その後に斎藤一のような豪傑の人がたくさん入ってきたのです。

 沖田総司の強さの秘密は、「三段突き」です。剣道では、あまり突きはやりません。沖田が突きをやると相手がよけます。それは、よけられるのですが、続けて突き、突きと進むのです。(享年24~26。)

 すると、三本目はよけられません。体が崩れたところで相手を突くのです。沖田の突きは有名です。ものすごく強かったのです。若くして死んだ人ですが、誰もかなわなかったのです。新選組には、猛者が大勢いたのです。

 新選組の斎藤一は、副長助勤、四番隊組長、三番隊組長、剣術師範を務める。戊辰戦争では、旧幕府軍に従い新政府軍と戦った人です。明治維新後、警視庁の警察官となり、西南戦争では警視隊に所属して、西郷軍と戦ったのです。退職後は、東京講頭師範学校の守衛、東京女子高等師範学校の庶務掛兼会計掛を務めたのです。

 斎藤一は、沖田総司、永倉新八と並び新選組最強の剣士の一人であったといわれています。永倉新八は弟子に、「沖田は猛者の剣、斎藤は無敵の剣」と語ったといいます。 沖田総司、永倉新八らとともに新選組の剣術師範を務めた人です。

新選組のなかで最も人を斬ったとされ、大阪力士との乱闘、新選組内部における粛清、天満屋事件、戊辰戦争などで、剣を振るった歴戦の隊員であった。

刀での戦いの経験について後年、「どうもこの真剣での斬り合いというものは、敵がこう斬りこんで来たら、それをこう払っておいて、そのすきにこう斬りこんで行くなどという事は出来るものではなく、夢中になって斬り合うのです」と語ったのです。(71歳没)(③に続く)

 

 

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