※もうじき除夜の鐘ですね。1年間有難うございました。
年末特別仏教講義「諸法の実相、諸法即実相」 ②
「トンネルをぬけるとそこは雪国だった」。新しい生命が「オギャー」と生まれた瞬間に、実相の花が開くのです。それが、貴方の実相です。
念仏は形而上学です。「阿弥陀仏の名前を唱えると、阿弥陀仏が西方極楽浄土に連れて逝ってくれる」という話は、形而上学です。実際に、そんな世界は存在しません。「天の神様がいて、人間を創った」という話も形而上学です。
今、貴方のもって生まれた境涯があります。「境涯とは何か?」というと、「自分は生まれたときから、百万石の領主だった」と思う人もいます。それが境涯です。人間は、生まれて物心がつくと、そのように思うのです。
「なんだかわからないけれども、私は徳川将軍家に生まれてしまった」、或いは「天皇家に生まれた」と思う人もいるのです。或いは、「極貧の家庭に生まれた」と思う人もいるのです。「母は売春、親父はヤクザ」という家庭に生まれた人もいます。「物心がつくと、親父に殴られ、ちゃぶ台がひっくり返り、お茶碗が飛んでくる」という家庭に生まれた子供もいるのです。
暗がりから、パッと生まれて、物心がついて世界が見えてくると、そのような世界が見えてくるのです。或いは、犬に生まれて、「ワン、ワン、ワン」と吠えている犬もいるのです。
「何故、犬になってしまうのか?」というと、業行の因果だからです。自分のやったこと(因)が自分に返る(果)のです。これを業行の因果といいます。「こうすれば、こうなる」ということがわかり、人生を歩んでいくことを修行の因果といいます。
病気になるのも、体が弱いのも、頭が悪いのも、頭が良いのも、すべて自分がつくってきたことなのです。自分が様々な因果を積み重ねてきたのです。生命は永遠です。どのような形であるのかというと、不一不異(ふいつふい)です。
不一不異(ふいつふい)とは、「異ならず、一ならず」です。未来の自分は、今の自分と同じものなのでしょうか? 答え、同じものです。前世も、今世も、来世も同じものです。
しかし、「今の自分と全く同じなのか?」というと、不一ですから、同じではありません。では、「異なっているのか?」と言うと、「異ならず」ですから、不一不異です。そのような目で見ていかないとわかりません。
ただし、「未来がどのようになっていくのか?」ということは、業行の因果により、違うものになっていくのです。悟りの世界を目指して、仏道修行をしていくならば、仏陀になることができるのです。それは、何年かかるか、わかりません。或いは、何十年かかるか、わかりません。仏道修行とは、種を植えるようなものです。
しかも、種は自分に植えるのです。自分で育てて、成長させて、その因果を身に受けて、運命になっていくのです。
戦争の中に生まれたり、人殺しをやっている中に生まれたり、食べ物がない飢餓状態の中に生まれたら、ご不幸さんです。空飛ぶ鳥でさえ、食べ物に困ることはありません。鳥は餌をついばみ、大空をスイスイと飛んでいるのです。魚の住処は水の中です。魚はプランクトンを食べて、スイスイ泳いでいるのです。何も困りません。
ところが、原爆戦が行われて、放射能がバンバンと出ているところに生まれたら、奇形児になって生まれるかもしれません。
「何処に生まれて、どのような結果になるのか?」ということは、貴方の行為そのものが関係しているのです。
それをお釈迦様は、「自灯明(じとうみょう)」と言われたのです。弟子たちが「お釈迦様、人生の目的とは何でしょうか?」と質問すると、「私の言うことを聞いて、自ら明かりを灯して進みなさい」と言われたのです。
そのためには、自分の過去からやってきたことを反省して、何をやってきたのかということをわかっていなければいけません。「私は過去にこんなことをやってきたから、今はこのようになったのだな」とわかってくるのです。「過去に人殺しをしたから、今世は貧乏なのだな」とわかってくるのです。
自らの姿を鏡に照らすようにして、進んでいくのです。「自灯明」で人生を進んでいくのです。それが人生です。仏教を知らない人は、自分が何だかわからないのです。なんだかわからないで、成功したり、失敗したり、人を恨んだりしているのです。業行の因果を繰り返しているだけです。
仏教を知った人は、そんなことがあってはならないのです。別れた女を追っかけてみたり、お母ちゃんを叩き出したり、そんなことは論外です。
永遠の幸せを求めていくならば、自分のやってきた行いを知らなければいけません。「このようなことをやったから、今、俺はこうなっているのだな」とわからなければいけません。
業行の因果をわからなければいけません。業行の因果がわかると、修行の因果に変わるのです。修行の因果とは、「自分のやっている行いが、どのような結果になるのか、すべてわかる」ということです。「今、俺はこのようなことをやっていて、このようなものを目指している。だから、将来はこうなるのに違いない」、とわかるようになるのです。
そのことが、諸法の実相と、諸法即実相の違いです。仏法というものは、諸法即実相を求めるものです。諸法の実相を求めるものではありません。
実は、これは仏教の入り口論である、生老病死も同じです。生老病死が、どうして救いになるのでしょうか? 生老病死は当たり前のことです。これは、「仏教を知っているから、当たり前だ」とわかるのです。
仏教を知らない人は、生老病死が信じられません。言葉では、生老病死は知っていますが、そんなことは信じていません。「俺は死なない。俺は永遠に若さを保つ」と思っているのです。或いは、「俺は永遠の青春だ」と思っているのです。
何と思おうと自由ですが、本当の生老病死の意味がわかっていません。仏教というものは、生老病死から始まって、空を悟り、中を悟り、一念三千を悟り、南無妙法蓮華経を悟るのです。それで仏教の完成をみるのです。そのようにわかっていかなければいけません。
創価学会のように「選挙で公明党に1票入れると功徳になる。池田先生のために金を出せ!」などという仏教があるはずがありません。だまされてはいけません。
これが、年末最後の仏教講義でした。以上!
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