念仏宗についての基礎知識 ② | 中杉 弘の徒然日記

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西本願寺と東本願寺、二つに分かれた理由。親鸞の浄土真宗とは? - ふらふら京都散歩 (furafurakyoto.com)

 

念仏宗についての基礎知識 ②

 

日本の念仏宗の開祖は、法然です。

法然(ほうねん、長承年(1133年) - 建暦2年(1212年))は、平和時代末期から、鎌倉時代初期の日本の僧です。

はじめは、比叡山延暦寺で天台宗の教学を学び、承安5年(1175年)、「南無阿弥陀仏と念仏を唱えれば、死後は平等に往生できる」、という専修念仏(せんしゅうねんぶつ)の教えを説き、のちに浄土宗の開祖と仰がれたのです。

比叡山延暦寺は仏教の修行の場所だったのです。法然は、12年間の籠山をやったのです。12年間山にこもってどこにもいかず、一心に仏を念じてきたのです。

天台宗の教えはすごいのです。虫一匹吸い込んでもいけません。だから、掃除をするときは、マスクをして、虫一匹でも吸い込まないようにするのです。

 歩くときでも、蟻一匹でもふんづけないよいにするのです。特別の日を決めて、一切の殺生をしないようにするのです。それは、「命は大切で、尊いのです」ということを教えているのです。「命」をわかっていくことが仏教の目的です。それは、天台大師が教えたことです。天台宗には、一念三千の教義があります。

 12年も修行した法然は、煩悩が抜けません。「女が欲しい」という煩悩です。「女が欲しい」と思ったら、仏道はできません。「女が欲しい」というのは、「結婚したい」ということです。

 法然は、「私は女が欲しいという気持ちはなくならないから、山を下りる」と思ったのです。それで、法然は山を下りて、一般世間に還俗したのです。比叡山延暦寺から来たので、半分は坊さんです。半分は還俗です。

 法然は「あなた方は働いているから、救われません。仏様にもなれません。私もそうです。比叡山で12年間の籠山行をしたけれども、仏にはなれなかったのです。そこで、阿弥陀経を読むと「罪人を救う」と書いてあるのです。

「これだ、私は12年間も籠山行をやったけれども、救われていない。阿弥陀仏を信じればよいのだ。これだ、これでいこう!」と思ったのです。

 そこで法然は「南無阿弥陀仏と唱えれば、阿弥陀様が迎えにきてくれて、西方極楽浄土へ連れていってくれる」と言って、念仏宗を始めたのです。念仏は安易な教えですから、日本中で広がっていったのです。

 盆踊りは、念仏踊りです。盆踊りというのは、念仏を称える踊りです。阿弥陀仏を頭で思い浮かべることを、観想念仏(かんそうねんぶつ)といいます。「阿弥陀仏の名前を、ただひたすらに唱えればよい」というのは、称名念仏(しょうみょうねんぶつ)です。

 中国の善導は、神経痛で生きていることがつらくて仕方がなくなったのです。「私は死んで阿弥陀様の下へいくべ」と言って、柳の枝に首をくくり、首を吊って死のうとしたのです。すると、柳の枝が揺れて土手にぶつかって腰を激しく打ち付けて、7日7晩苦しみぬいて死んだのです。有名な話です。

 どんな死に方をしてもよいのです。来世はちゃんと、阿弥陀仏が救ってくれるのです。「これで、善導和尚は、極楽浄土に逝ったのに違いない」と言われたのです。

 日本に入った仏教は、奈良仏教、平安仏教ですが、結果的には念仏です。その教えが日本国中に広まったのです。日本の念仏の開祖は法然です。法然が広めた念仏を浄土宗といいます。

 法然の弟子が親鸞です。親鸞も「女が欲しい」という悩みが消えなかったのです。「愚禿親鸞(ぐとくしんらん)」と言ったのです。「バカの親鸞」と自分で言っていたのです。

「法然と親鸞の教えの違いは何か?」というと、法然は「悪人でも救われる」と言ったのです。弟子の親鸞は、「悪人こそ救われる」と言ったのです。

親鸞は、「善人なおもって往生を遂ぐ いわんや悪人をや」(歎異抄)が有名です。

 善人は放っておいても、自分で仏道修行をして、成仏できる人もいます。悪人は、かっぱらい、強姦、殺人など、悪いことをやってきているのです。「悪い人は救われないのか?」と思うとそうではありません。

 「阿弥陀仏は悪人を救うために、現れたのです。善人は悪いことをしていないので、成仏するのです。悪人こそ、救わなければいけないのですが、悪人は仏様を信じることもできません。人間が悪いのです。その人たちこそ、救わなければいけない」と言ったのです。これが、親鸞の浄土真宗です。

 浄土宗と、浄土真宗は、「南無阿弥陀仏」です。この2つの宗教が、日本中に広まったのです。約10万件の念仏のお寺ができたのです。天皇が信じている仏教は、南無阿弥陀仏です。京都には、西本願寺、東本願寺があります。これらは、皇族のお寺です。

 西本願寺も、東本願寺も、浄土真宗なので、開祖は親鸞です。どうして、2つの寺院に分かれたのかというと、織田信長と石山本願寺の争いに原因があります。

 浄土真宗が現在のように真宗大谷派と浄土真宗本願寺派に別れた理由については、1570年から1580年までの織田信長と、現在の大阪城の場所にあった石山本願寺との争いまでさかのぼります。

この争いは石山本願寺一揆、石山合戦などとも呼ばれるもので、この時、石山本願寺内では、信長と和睦するか、徹底抗戦するかで意見が対立しました。

和睦を主張したのは、石山本願寺の宗主であった顕如と、顕如の三男の准如。徹底抗戦を主張したのが、顕如の長男の教如です。

結局、最終的に顕如が和睦を決め、石山本願寺は信長に明け渡されることになるのですが、この時の対立がもととなり、顕如は浄土真宗の宗主の座を長男の教如ではなく、三男の准如に譲ることとなり、顕如と教如の対立は決定的となりました。

その後、信長が本能寺の変で討たれたのち、和睦を決めた顕如は豊臣秀吉から七条堀川に土地の寄進を受け、御影堂と阿弥陀堂を建築しました。これが現在の西本願寺です。

一方、徹底抗戦を主張した教如は、徳川家康に接近し、七条烏丸に寺の寄進を受けました。これが現在の東本願寺です。

こうして、石山合戦における対立が跡継ぎ問題と絡み、徳川家康の時代に本願寺は、真宗大谷派(東)と浄土真宗本願寺派(西)に分裂することになったのです。

西本願寺と東本願寺の違い・分かれた理由と歴史について解説 | 霊園・墓地のことなら「いいお墓」 (e-ohaka.com)

 

 日本国中の仏教が、念仏になってしまったのです。念仏の唱える声を、哀音と言ったのです。「なむあみだぼ~、なむあみだぼ~、なむあみだぼ~」というのは、悲しい音に聞こえたのです。それが全国に広がったのです。

 これが、悪い方向へいくと、淫祠邪教になってしまったのです。「悪いことをすればするほど救われる」と言うのですから、念仏の会合は賑やかです。酒を飲んで、「ウワッハッハッハッ」と宴会を初めて、隣のお母ちゃんと性交渉を初めて、「どうだ、俺は悪人だろう?」と悪人自慢をしたのです。

 酒をガブガブと飲んで「俺くらい悪い奴はいないだろう、和尚さん!」と言って、自慢したのです。それが全国津々浦々に広がってしまったのです。念仏の会合は淫祠邪教です。酒を飲み、女を抱き、或いは殺生をしたのです。鳥をもってきて、鳥を殺して食べたのです。

 明治の文豪や、文学者は念仏の信者が多いのです。それは、「俺は悪人だ」と思っていたからです。悪人を気取っていたのです。文学者はほとんどが念仏です。太宰治、川端康成、志賀直哉、五木寛之も浄土真宗の信者です。浄土真宗の信者は、自殺者が多いのです。(③に続く)

 

 

 

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